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国際平和拠点ひろしま

原爆ドームの歴史

現在,世界文化遺産として,国内外から多くの人が訪れる原爆ドームですが,原爆投下前は広島県産業奨励館として,広島県内の物産を陳列したり博覧会などが開催される建物でした。今回は,原爆ドームの歴史についてご紹介します。

広島県物産陳列館として誕生

1915年,広島の中心部の元安川の川辺にレンガ造り3階建て,銅板葺きの楕円形ドームを頂く洋風建築物「広島県物産陳列館」(のちに「広島県商品陳列所(1921年)」さらに「広島県産業奨励館」(1933年)と改称)が誕生しました。これが,後に原爆ドームと呼ばれる建物です。
設計はチェコ人建築家ヤン・レツルによるものです。建築様式は,セセッション式*とよばれるもので,当時としては極めてモダンな建物でした。楕円形ドームの下には,レンガ壁の内側いっぱいに優美な木製の階段が曲線を描いて4階まで続き,建物の中心をなす象徴的な階段室となっていました。
 *優美な曲線を多用する古典的な建築様式からの分離を掲げ,格子模様などの幾何学的な装飾をとりいれる様式。

広島県物産陳列館 設計図(寄贈:臼井斎氏 提供・所蔵:広島平和記念資料館)

広島県物産陳列館では,広島県内の物産の陳列,即売,美術展覧会,博覧会などが開催され,賑いを見せていました。また,広島県美術展覧会の開催や博覧会・共進会の会場の一部に充てられるなど文化的な催しも行われ,広島市民に親しまれていました。大きな博覧会が行われた際には,外壁に電飾をちりばめて華やかな水辺の景観を演出することもありました。
その後,1934年に中国の大連,新京,ハルピンに広島県産業奨励館出張所が設置され,1938年には大連,奉天,新京,ハルピン,天津,上海及び神戸に広島県産業奨励館事務所が開設されましたが,第2次世界大戦開戦の年にほとんどの事務所が廃止されました。
そして,第2次世界大戦中,本土空襲が強まるにつれ,広島県産業奨励館も,陳列館としての機能は縮小・停止されていきました。

被爆

1945年8月6日8時15分,人類史上初の原子爆弾が広島に投下されました。原子爆弾は原爆ドームの上空の東側580m上空で炸裂したといわれています。その被害は,原子爆弾が放った爆風と熱線により,建造物が一瞬にして破壊され,熱線による火災で広島は火の海と化しました。原爆ドームの楕円の筒形をなす塔屋状の階段室は,小型で堅牢なレンガ壁のおかげで,原爆の衝撃に耐え,残りました。湾曲を繰り返す左右のレンガ壁は,水平の力にもある程度耐えることができましたが,半壊状態となりました。背後に大きく広がるレンガ壁は支えるものがなく,もろくも倒壊しました。天然スレート板を葺いた屋根は木造で,また各階の床も木造だったため,衝撃波などで破壊され,火災によって消失しました。
戦後,鉄骨がむき出しとなった広島県産業奨励館は,広島市民のあいだで原爆ドームと呼ばれるようになりました。

被爆少女の日記と保存に向けた活動

「あのいたいたしい産業奨励館(原爆ドーム)だけがいつまでも恐るべき原爆を世にうったえてくれるだろうか」

これは,被爆後,1960年に骨髄性白血病で亡くなられた高校生 楮山ヒロ子さんの日記に記された言葉です。
戦後,原爆ドームについては,「あの忌まわしい日を思い出すので撤去して欲しい」「被爆の惨状を伝える原爆ドームを残すべきだ」と被爆者の中でも意見が百出し,「崩れるままの原爆ドームは危険」と取り壊しの論争が続いていました。
論争が続く中で,楮山ヒロ子さんの日記に心を打たれた人々によって「原爆ドーム保存募金活動と署名活動」が始められ,やがてこの活動が広島市議会を動かし,広島市長を動かすことにつながったのです。その後,1966年に広島市議会は原爆ドームの保存を決議し,1967年に平和を愛する全国と世界の人々から原爆ドームに寄せられた保存募金によって第1次保存工事が開始されました。原爆投下から20年以上が経過していました。

楮山ヒロ子さんの日記(寄贈:楮山国人、キミ子、提供・所蔵:広島平和記念資料館)

世界文化遺産登録

1992年,日本が世界遺産条約を批准したことを契機として,「広島の原爆ドームを世界遺産に」という声が被爆者・市民の間から湧きおこってきました。しかしながら,世界遺産条約では,世界遺産リストに登録された物件の保護について,第一義的に締約国にその保護の責任を課しているものの,原爆ドームは,国の「文化財保護法」にも広島市「文化財保護条例」にもその名がなく,最終的な世界遺産へのリストに名前が挙がることはありませんでした。
そんな中,広島市議会は原爆ドームを「世界遺産リスト」に登録することを求める意見書を全会一致で採択し,内閣総理大臣・外務大臣・文部大臣・建設大臣・自治大臣に意見書が送付されました。この動きはその後,広島県議会や広島県内の自治体に広がっていきます。一方,1993年に市民レベルの「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」が結成され,世界遺産登録を求める署名活動が始まりました。1993年6月に始まった署名活動は,同年9月末には100万名を突破しました(1994年3月,総署名数は164万人超)。このような県内自治体からの意見書や署名活動が後押しとなり,1994年文化庁は原爆ドーム世界遺産推薦の本格検討を決定。1995年に文化財史跡指定が決定され,世界遺産推薦が行われました。そして,1996年12月7日原爆ドームは世界遺産に登録されました。

 【参考文献】

次代へのメッセージ 原爆ドーム世界遺産化への道(「原爆ドーム世界遺産化への道」編集委員会著作・編集)

日本の世界遺産18 原爆ドーム(朝日新聞出版)

平和学習

コラム:広島のシンボル,原爆ドーム

広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻に掲載されているコラムでは,被爆前,そして被爆後の保存に向けた動きについて掲載されています。

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