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国際平和拠点ひろしま

建物コラム⑤ 「旧広島逓信(ていしん)病院外来棟」

 白島の電停近くに建つ、白い箱のような建物。ありふれたビルだと思って通り過ぎてしまいそうですが、これもれっきとした被爆建物で、広島に残る数少ない戦前期のモダニズム建築の一つです。

 逓信病院(1)とは、逓信省(かつて存在していた郵便や通信を管轄する官庁)の職員や家族を対象として設立された病院で、本作は逓信省営繕(えいぜん)課の山田守が設計しました。当時の逓信省は多くのエリート建築家を擁し、優れた建築を数多く送り出していました。山田は時期によって作風を変えていますが、1930年代は自身の海外視察の影響や逓信省全体の方針もあり、欧州のモダニズムを習得しようとしていました。

 モダニズムの基本的な考えは、様式ではなく機能が形を決めるという点にあります。必要な機能を合理的に配置して建築を構成し、装飾は排除されます。現代はモダニズム建築ばかりなので特に珍しくありませんが、伝統的な町家や洋館が並ぶ当時の日本では目を引く最先端のデザインでした。

 では、現在残っている建物を見ていきましょう。鉄筋コンクリート造の二階建てで、当初あった三階のサンルームは現存しません。南側の外壁は、外光を入れる機能を重視し、柱以外の全面が開口といえるほど大きな窓が並んでいます。窓枠は日本的な引き違い戸ではなく、西欧の洋館に由来する上げ下げ式ですが、当初のものは残っていません。

南側の外壁

 一階の旧手術室は当時の姿が再現されており、事前に申し込めば室内を見学できます。被爆時の火災を免れたこともあり、往時のタイルが残されています。ユニークなのは大きな出窓で、照明が貧弱だった時代ならではの設えです。

旧手術室の出窓

旧手術室の室内

 細部のデザインは多くが失われていますが、例えば角を少し丸く仕上げて空間の印象を柔らかくしているなど、工夫の跡を見つけることができます。

旧手術室周辺の壁と床

 東側の階段室も見学できます。こちらには特徴的な縦長の窓があり、被爆時の爆風で曲がったという当時の窓枠が一部残されています。

東側階段室の窓

 平面計画も見てみましょう。現在の建物は板状ですが、当初は丁字形でした。現存する南側は一階が診察室で二階が病室、失われた北側には正面玄関のほか事務室、薬局、厨房などがありました。明るい南側に診察室や病室を配置しつつ、患者の受付・待合・診察といった一連の動きがスムーズかつ衛生的になるよう工夫されています。現在の出入口は当初は外科専用で、正面玄関を通らずに手術室に直行できました。モダニズムらしい合理的な平面計画です。

平面計画(1階)

 このように先進的な建築だった本作も、原爆の強烈な爆風で窓枠や医療機器が失われ、二階の病室が全焼するなど、大きなダメージを負いました。職員に死傷者が生じたほか、多くの被災者が押し寄せました。救護活動にあたった蜂谷(はちや)道彦院長(当時)が自らの被爆体験と被爆者治療の様子を記した「ヒロシマ日記」は大きな反響を呼びました。

被爆後の姿(広島平和記念資料館所蔵)

 その後も引き続き病院として使用された後、1995年に資料室へと改装され、現在に至っています。数多くあった広島の逓信建築も、現在は本作と旧広島中央電話局西分局(こちらも山田守による設計)を残すのみとなり、被爆の実相を伝えるとともに広島の建築文化の痕跡をとどめる貴重な遺構となっています。

※本記事に掲載の写真は一部を除き著者撮影

<補注>

(1)建設当時の名称は広島逓信診療所で、1942年に広島逓信病院に改称されました。

<建物DATA>

・所在地:広島県広島市中区東白島町19-16

・竣工: 1935年

・設計: 逓信省営繕課(山田守)

※見学は事前予約制。詳細及び申し込み方法は↓からご確認ください

https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/10169.html

<参考文献>

「近代日本の建築活動の地域性」李明+石丸紀興 2008年

「ヒロシマの被爆建造物は語る」広島市+被爆建造物調査研究会 1996年

【筆者プロフィール】

高田 真(たかた・まこと)

1978年広島生まれ。都市プランナー。アーキウォーク広島 代表。

建築公開イベントや建築ガイドブック出版などを通して、広島の建築の魅力を発信している。著書『アーキマップ広島』

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