建物コラム②「世界平和記念聖堂(カトリック幟町教会)」
世界平和記念聖堂は、広島におけるカトリックの中心的な施設であり、被爆時に全焼した幟町教会を、世界平和への祈りを込めて規模を拡大し再建したものです。傑出した建築作品としても知られ、戦後の建物としては初の国の重要文化財に指定されました。
聖堂建設の立役者は、幟町教会で被爆し原爆被害を目の当たりにしたフーゴー・ラサール神父(補注※1)です。ラサール神父の熱意によって、小さな教会の再建計画は大規模な聖堂の建立へと拡大され、資金難などに直面しながらも、国内外からの様々な支援を得て実現しました。
コンクリートのフレームとレンガで構成される外観
建設中の姿(「広島市公文書館」提供)
鐘塔に掲げられた聖堂記には次のように書かれています。
此の聖堂は、昭和20年8月6日広島に投下されたる世界最初の原子爆弾の犠牲となりし人々の追憶と慰霊のために、また万国民の友愛と平和のしるしとしてここに建てられたり。而して此の聖堂によりて恒に伝へらるべきものは虚偽に非ずして真実、権力に非ずして正義、憎悪に非ずして慈愛、即ち人類に平和をもたらす神への道たるべし。故に此の聖堂に来り拝するすべての人々は、逝ける犠牲者の永遠の安息と人類相互の恒久の平安とのために祈られんことを。
昭和二十九年八月六日
聖堂記
聖堂の設計を担った村野藤吾は昭和を代表する建築家であり、古典様式からモダニズムや和風に至る幅広い素養を持っていました。本作の外観を見ると、奇をてらわず安定感のある形で開口部は少なく、ロマネスク様式の古い教会を思わせます。その一方でコンクリート打ち放しのフレームと現場製作のレンガで構成された壁面はモダンな印象を与えます。意図的に不揃いに配されたレンガ、粗く仕上げられた目地、現場で手作りされたコンクリート製窓枠などは、壁に細かな陰影を付けて深みをもたらすとともに、人の手の暖かさを感じさせます。
各所に日本的なモチーフが見られるのも本作の特徴です。特徴的な窓や屋根、照明、ドーム上に立つ鳳凰像などが各所にちりばめられているので、現地で探してみてください。
粗く仕上げられたレンガ目地と、特徴的な窓
蓮の花のような形の照明器具
このように、建物を観察すればするほど、モダンでありながら荘厳、粗削りな素材を並べただけなのに力強く神々しい、どことなく日本的、といった複雑な構成が見えてきます。これは当初行われた建築設計コンペ(※補注2)の条件である「モダン・日本的・宗教的・記念的」の影響と解釈できますが、ラサール神父の熱意に動かされ無報酬で設計したという村野が、被爆地での祈りの場がどうあるべきかを熟考した結果と捉えることもできるでしょう。
聖堂を構成するのは建築だけではありません。鐘、扉、ステンドグラス、祭壇、パイプオルガン、洗礼盤など、世界各地から寄贈された品々も重要な要素です。ベルギーから贈られた本祭壇には「平和は犠牲の代償なり」、ドイツから贈られた正面扉には「平和への門は隣人愛である」といった文言が刻まれており、まさにこの聖堂のあり方を体現する存在となっています。
正面扉(ドイツ・デュッセルドルフ市からの寄贈品)
世界平和記念聖堂は、同時期に建てられた平和記念資料館とともに、広島の記念碑的な建築とされています。両作品の根底にはモダン都市広島への復興という命題がありつつも、デザインの方向性が異なることで、被爆地広島を「記念」する表現に奥行きをもたらしています。広島を訪れる際には、ぜひ平和記念資料館に加えてこの聖堂にも会いに行くことをおすすめします。
◆聖堂内部は事前に許可を得て撮影
<建物DATA>
・所在地:広島県広島市中区幟町4-42
・竣工: 1954年
・設計: 村野藤吾(村野・森建築事務所)
・国指定重要文化財
・堂内では撮影禁止。公開状況などの詳細は施設ホームページを参照。
<補注>
※1 1898年ドイツ生まれ。日本に帰化し愛宮真備(えのみや・まきび)と名乗る。
※2 当初はコンペ形式で設計案を募ることとされたが、1等が選出されず、コンペの審査員だった村野が設計を担うことになった。
<参考文献>
①カトリック幟町教会 ウェブサイト http://noboricho.catholic.hiroshima.jp/
②「世界平和記念聖堂献堂50周年ニュース」 カトリック広島司教区 世界平和記念聖堂献堂50周年実行委員会 2004年
③「世界平和記念聖堂」 石丸紀興 1988年 相模書房
【筆者プロフィール】
高田 真(たかた・まこと)
1978年広島生まれ。都市プランナー。アーキウォーク広島 代表。
建築公開イベントや建築ガイドブック出版などを通して、広島の建築の魅力を発信している。著書『アーキマップ広島』
この記事に関連付けられているタグ