原爆の子の像
広島の平和記念公園の中にはたくさんの慰霊碑があります。その一つ,「原爆の子の像」を知っている方は多いのではないでしょうか。
修学旅行で広島を訪れる学生たちが原爆の子の像の前で千羽鶴をかかげる姿を目にしたことも一度や二度ではありません。
今回は,「原爆の子の像」について紹介します。
◆目次◆
原爆で犠牲になった子どもたち
1945年8月6日午前8時15分。原子爆弾が投下されたその時にも学生を含む多くの市民が広島の街にはいました。例えば,広島市内で実施されていた建物疎開の作業には学生,生徒が9,111人動員され犠牲になった人も少なくありません。また,空襲への対策として実施された学童集団疎開では,現在の小学3年生から6年生の学童が疎開をし,原子爆弾により肉親が死亡したり,家を失ったりした学童も多くいました。(※1)厚生省が昭和23(1948)年にまとめた「全国孤児一斉調査結果」によると,両親のいない孤児は広島県で5,975人と全国最多でした。そのうち戦災孤児は2,541人で大半が原爆に起因するのが妥当だろうと言われています。(※2)
国際平和拠点ひろしまでは,戦時下,戦争後の子どもたちのことも掲載していますのでぜひご覧ください。
原爆に遭った少女の話:少女運転士だった祖母の体験を孫娘が漫画にした本作。戦時中,原爆投下時の少女たちの様子が描かれています。
原爆に遭った少女の話を読む広島の復興経験を生かすために-廃墟からの再生-第3巻:第3巻では原爆孤児について掲載しています。
原爆孤児について知る佐々木禎子さん(※3)
原爆の子の像の建立のきっかけとなった佐々木禎子さん。禎子さんは2歳のときに爆心地から1.7km離れた楠木町の自宅で被爆しました。被爆直後はやけども傷も負わなかった禎子さんでしたが,被爆から10年が経過した12歳のときに白血病と診断され入院。8か月の入院生活の末,亡くなりました。入院中,禎子さんは病気を治したいという願いを込めて折り鶴を折り続けました。禎子さんと折り鶴の話は国内のみならず海外にも伝えられました。今や折り鶴は平和を願う象徴の一つとして世界に広まっています。
子どもたちの運動(※4)
禎子さんが亡くなったことにショックを受けた同級生は禎子さんのためにお墓や記念碑のようなものを建てられないかと考えるようになったそうです。その頃,原爆で犠牲になったすべての子どもの霊を慰めるための記念碑を造らないかという話を持ちかけられ,賛成し運動を始めます。この運動は市内の小中高校を巻き込んだ大きな運動に発展しました。禎子さんの死から1年後の10月には平和記念公園へ像の設置が決まりました。
原爆の子の像の建立目的
原爆の子の像は原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め,世界に平和を呼びかけるために建立されました。碑文には「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれています。(※5)
原爆の子の像には国内外から折り鶴が届けられ,その数は年間1千万羽にものぼります。(※6)世界中の方々の平和の思いが折り鶴に託され広島に届けられているのではないでしょうか。
原爆の子の像
広島市中区中島町1(平和記念公園内)
出典・参考
※1https://hiroshimaforpeace.com/reconstruction-2/
※2https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol3/3-13/
※3 広島平和記念資料館,http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0107/exh01071.html
※4 広島平和記念資料館,http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0107/exh01074.html
※5 広島平和記念資料館,http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/tour/ireihi/tour_16.html
※6 広島市,https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/9270.html
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