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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1I城下町から近代都市へ

1広島城下町

戦国時代,吉田の郡山城に本拠を置いていた毛利氏は,中国地方の大半を支配する西日本最大の大名となり,領域の首府として広島湾頭を選び,広島城を築いた。豊臣秀吉の聚楽第や大坂城を模したという。毛利氏は関ヶ原の戦いで敗れ,防長2か国に押し込められ,その後へ,福島氏が安芸・備後2か国(現在の広島県域)の領主として,広島城の主となった。福島氏の改易により,浅野氏が広島に入ったが,備後南部地域は切り離され,水野氏が福山に入った。それでも広島は芸備両国にまたがる浅野家43万石の城下町として,江戸・大坂・京都の3都を除くと,名古屋・金沢に続き,熊本などと肩を並べる大都市として発展した。

広島城下は,城郭,武家屋敷,町人町,寺町,新開からなる。武家屋敷は城郭の周囲や要所に広大な面積を占めた。その外周や街道沿いに町人町が発達し,新町組,中通組,白神組,中島組,広瀬組の5組に編成された。町人町の南(海側)には,相次ぐ干拓により新開地が形成された。築城当時の海岸線は,現在の平和大通り辺りであったが,藩や民間の手で干拓が進められ,仁保島や江波島が地続きとなった。城下の発展に伴い町組の人口は増加するが18世紀以降は減少傾向となり,対して新開の人口は増加の一途をたどり,19世紀初頭には町組とほぼ拮抗し,このころには両者合わせて5万人程度と推定される。一方,武士とその家族の数は,江戸時代中期に1万9,000人と推定される。

2行政制度の変遷

幕末の動乱を経て,新政府が樹立されると,幕藩体制にかわる中央集権国家が目指され,明治4(1871)年7月,廃藩置県が断行された。これにより,浅野家広島藩が廃され,広島県が設置された(明治9年に備後6郡が編入され,現在の県域となる)。県庁は,城内の本丸に置かれたが,鎮西鎮台第1分営が置かれることになったため,10月に三の丸に移転した。その後,三の丸も兵営となったため,小町・国泰寺に移転したが,明治9年12月に失火のため全焼,寺町・仏護寺の仮県庁を経て,同11年4月,水主町に新庁舎を建設し移転した。町の北側に位置する城郭を軍が占有したのに対し,町の南側,デルタの先に向かった立地となった。ともあれ,広島は,県庁が置かれたことにより,鎮台設置と合わせ,政治都市・軍事都市として,引き続き地域の中心地としての地位を保った。

県が創出されるなかで,県に属する地方行政区画はめまぐるしく変遷した。明治4年10月,広島県は管内を158の区に分け,戸籍作成に着手させたが,このとき広島城下は4区に分けられた。翌年には,戸籍作成だけでなく行政区としての役割を持つ大区小区制に移行し,広島城下および各郡を大区とし,大区を細分して小区を置いた。広島は第1大区となり,12(当初24)の小区が置かれた。

明治11年11月から郡区町村編成法が施行され,県の下に郡-町村を置く旧制が復活し,都会には区制がしかれた。これにより,県内は,広島区と22の郡に編成され,町村に戸長役場が置かれた。広島区役所は大手筋1丁目に置かれ,その後,新川場町,さらに中島新町に移転した。

明治22年4月,市制・町村制が施行され,全国32市の一つとして広島市が誕生した。広島市以外では,町村合併が行われ,新町村が編成された。市役所は中島新町の旧藩の米蔵を改造した区役所がそのまま長く用いられ,ようやく昭和3(1928)年に至り,国泰寺町に新庁舎を建設・移転する。なお,広島市の市域は都市化の進展とともに拡張していった。明治37年に安芸郡仁保島村に属していた元宇品を編入し,昭和4年に安芸郡仁保村・矢賀村・牛田村,安佐郡三篠町,佐伯郡己斐町・古田村・草津町の周辺7町村との合併を実現した。

3宇品築港

デルタに発達した広島は,町の中心部まで船が入ったが,大型船が入れないため,幕末以来,港の建設が懸案となっていた。これを果たしたのが宇品築港であるが,もともとは士族授産事業と抱き合わせで実施されたものである。明治の前半期,士族の窮乏が問題となり,全国で士族授産事業が取り組まれたが,広島では,その一方策として宇品湾への新開墾地・港湾埠頭の建設が浮上し,明治13(1880)年広島に赴任した千田県令の着任早々の仕事となった。

藩政時代以来の干拓の歴史はあったし,明治初年には窮民を雇用して庚午新開を築調した経験もあったが,今回の事業はあまりにも大規模であった。膨大な工費が必要とされ,埋め立てで漁場を失う大河地区漁民の頑強な反対もあったが,千田県令(のち県知事)の強力なリーダーシップにより,明治17年9月,起工にこぎつけ,難事業の末同22年11月に竣工した。これにより62万坪の土地が造成され,大型船の入港・停泊が可能となった。

造成土地のうち開墾地51万坪は旧広島藩士族授産所に引き渡されたが,塩分が多く,農耕には不利な土地であったこともあり,授産事業としては成功しなかった。また,宇品港自体の有用性もそれほど認識されず,宇品築港を不要不急の土木事業という声もあった。しかし,5年後に勃発した日清戦争により軍事輸送の拠点となり,当初目論んでいた商港としてよりは,軍用の港として発展していく。

4交通網の発達と街並みの変化

デルタの町は,7つの川によって舟運に恵まれたが,陸上交通を阻まれていた。藩政時代には西国街道に架けられた橋のほかは,出雲街道の横川橋,京橋川上流の牛田橋(神田橋)のみで,渡し船が橋に代わる役割を果たしていた。明治以降,架橋禁止は解除され,たとえば元安川には,上流から東相生橋(明治11年),元安橋(毛利時代),新橋(今の平和大橋,明治7年),万代橋(明治11年),明治橋(明治19年)と,明治前期に新たに4つの橋が架けられた。しかし,これらの橋では渡橋費を徴収しており,渡船場も市内各所に残存していた。その後,道路の近代化が進められ,昭和初期には渡し船はほとんど消滅する。

神戸と下関を結ぶ山陽鉄道は,明治25(1892)年7月に糸崎まで開通し,同27年6月に広島まで開通した(明治30年に徳山まで延伸,下関までの全通は同34年)。鉄道は町の中心部を避けデルタの外縁に敷設されたが,市の東部に広島駅,北に横川駅,西に己斐駅が設置されたことにより,広島の市街が広域化していく。その後,横川から可部方面への鉄道(のちの国鉄可部線),広島と庄原を結ぶ鉄道(のちの国鉄芸備線)が開通し,近郊農村や県北部と広島の結びつきが強まった。また,大正元(1912)年に市内路面電車が開通し,その後順次拡張され,広島駅・八丁堀・紙屋町・己斐駅・横川駅・宇品など主要地が電車で結ばれた。

藩政時代,京橋から堺町筋にかけて西国街道沿いに発展した広島の街並みは,明治前半期には舟運に恵まれた本川・元安川沿いの堺町筋・中島筋が栄えた。大正期には,市内路面電車が開通したこともあり,繁華街が東に移動し,八丁堀が中心となり,新天地・東新天地が創設され,それに伴って中島と東部を結ぶ本通りも発展した。昭和4(1929)年には広島で初めての百貨店が八丁堀の北側に創業した。電車の開通は,広島駅前,鷹野橋,宇品の海岸通りの発展も促した。


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