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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1I 政府の戦災復興計画

1 日本における終戦までの都市計画制度

(1)内務省の管轄と東京市区改正条例,都市計画法の制定

日本における戦後復興体制を説明するには,終戦までの都市計画制度について触れておく必要があろう。日本の近代化過程における内閣制度の整備,国会開設など明治20(1887)年ころからの動きとともに,明治21年に公布されて都市計画制度1)として先陣を切る「東京市区改正条例」があり,これがしだいに他の大都市に展開されていく。この過程で,内務省が都市計画を管轄する組織として整備されていった。大正期に入ると,日本における産業の近代化が進み,都市への人口集中も著しくなり,土地利用の混乱対策など都市におけるさまざまな対策が必要になっていった。とりわけ都市の郊外が無秩序に開発されれば,その再整備のために多大な負担が生じることとなるので,あらかじめ都市の姿を策定して,計画的に対応するという都市政策上の役割を果たすために,都市計画法が大正8(1919)年に制定された。そして都市計画法の適用対象の都市が全国的に少しずつ拡大されていったのである。このような制度により,都市計画区域の指定,都市計画道路や公園・緑地の計画決定や執行年度割といった事業の決定・実施,さらには用途地域の指定や市街地建築物法と連動した建築規制の運用などが推進されることとなった。

(2)広島における状況

広島市に都市計画法が適用されたのは大正12(1923)年であり,大正14年に都市計画法を適用する範囲である都市計画区域の確定,昭和2(1927)年に用途地域の指定,昭和3年に道路の計画決定,昭和16年に公園の計画決定と進められた。

この推進に当たり,広島県では都市計画広島地方委員会として,戦前では大正13年3月28日開催の第1回委員会から終戦までに第38回(開催日不明)までが開催された。この都市計画委員会(後の都市計画審議会)を運営・担当したのが広島県都市計画課であり,議題や各種説明資料,委員会名簿などを綴った議事録に,審議の過程を記録した議事速記録が添付されている。

2 戦災復興計画に対応するための制度改革

(1)戦災復興院の設立2)

昭和20(1945)年8月15日に第二次世界大戦あるいは太平洋戦争といわれた戦争が終結するが,戦後は国内に多くの戦災都市が残され,戦災復興が大きなテーマになった。その復興計画は昭和20年11月に設立された戦災復興院が担当することとなった。すなわち,戦災を蒙らなかった非戦災都市は内務省管轄であり,戦災都市は戦災復興院の管轄というように都市計画行政が一時的に複雑な体系となった。

昭和20年8月の終戦からあまりに早い時期での戦災復興院の設立は,終戦前から戦後復興の準備をしていたということである。戦災復興院の創設については,井上亮著『焦土からの再生,戦災復興はいかに成し得たか』(新潮社,2012)においても,戦時中から,極秘に内務省の一部の関係者によって設立準備が進められたという大橋武夫の証言が掲載されている。

戦災復興院の職員の多くは内務省からの配置転換であり,長官に民間人の小林一三を招いてのスタートであった。その後昭和23年に内務省が解体され,建設院設立,内務省からの合流へと至る。

昭和20年12月30日,「戦災地復興計画基本方針」3)が閣議決定された。これはまさに国の戦災復興計画における基本的な方針を示したものである。この中で注目されるのは,たとえば「主要施設」の「街路」の項の「イ」において,街路網の役割について述べ,「ロ」において都市規模と道路幅員との関係について述べ,そして「ハ」において「必要の箇所には幅員50メートル乃至100メートルの広路又は広場を配置し利用上防災及美観の構成を兼ねしむること」と記述されたことであり,百メートル道路計画を義務付けるというよりは誘導・推奨する形での基本方針が展開された。

この基本方針は,さらに昭和21年1月14日開催の「関係都道府県主務課長及び5大都市関係局部課長会議」で報告され,これを受けて全国的に計画が展開された。

(2)土地区画整理という事業手法・制度

日本における都市計画制度のなかできわめて理解しにくい制度は,土地区画整理という仕組みであろう。そもそもは,スイスあるいはドイツで発展した制度で,ドイツではアディケス法と呼ばれ,その法を当時の日本の農商務省で導入し,明治32(1899)年に耕地整理法として制定した。この制度を準用して都市の市街地整備においても利用できるように明治42年に耕地整理法を改正し,さらに都市計画法(当時は旧法)に組み込むこととした。土地区画整理法の制定は昭和29(1954)年であるが,それまで関東大震災時の震災復興計画土地区画整理や戦災復興時の戦災復興計画においては特別都市計画法によって復興事業の手法を位置付け適用したのである。

この土地区画整理の基本的な仕組みは,土地区画整理法に述べられているように「都市計画区域内の土地について公共施設の整備改善及び宅地の利用の増進を図るために行われる土地の区画形質の変更及び公共施設の新設または変更に関する事業」と説明される。より直接的にいえば土地の所有者すなわち地主から公共用地となる土地を提供してもらい,宅地全体としても利便性を高めるための事業ということになり,その地主から土地の提供を減歩といい,所有地に対するその割合を減歩率といったのである。そして公共用地を生み出すための減歩を公共減歩といい,事業費等を補てんするために確保し,後に売却するような減歩を保留地減歩と呼んでいる。

(3)戦災地図の作成と利用

日本ではかなり早めに戦災地図が作成された。各都市でも独自に作成された場合もあったし,全国的にも主な戦災都市の戦災地図を収集して出版される場合もあった。たとえば,第一復員省がまとめて出版したのは全国150余都市(町村を含む)の戦災地図で昭和20(1945)年12月,第一復員省編「日本都市戦災地図」であった。これは後に復刻されて第一復員省編・国立国会図書館所蔵「日本都市戦災地図」(原書房,1983)として出版された。

第2次世界大戦はまさに世界的な規模で多大で深刻な被害を引き起こし,多くの戦災都市が出現した。しかし世界の戦災都市で戦災地図も作成された形跡のない場合もあり,また作成されていたとしても秘密扱いとなったりして,広く出版されることは稀ななかで,日本における戦災地図作成と公開は注目されよう。


注・参考文献

1)大霞会内務省史編集委員会編「内務省史第二巻」(大霞会発行,1971)参照,石田頼房著「日本近代都市計画の百年」(現代 自治選書,1987),石田頼房著「日本近代都市計画史研究」(柏書房,1992)

2)戦災復興院の創設に関しては建設省編「戦災復興誌第壱巻,第弐巻,第参巻」(都市計画協会発行,1959)に詳しい。

3)建設省編「戦災復興誌第壱巻,第弐巻,第参巻」(都市計画協会発行,1959)

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