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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1III 基町と住宅建設

1 基町の変遷と戦後直後の住宅建設

(1)基町の変遷

広島を語るとき欠かせない内容・場所として戦後基町の変遷ということがある。基町は広島太田川デルタの要,枢要の場でもあり,藩政時代広島城の中核である天守閣や本丸,二の丸,三の丸,武家屋敷が置かれ,内堀や中堀,外堀に囲まれ,まさに「広島開基の地」「基(もとい)の地」として君臨した。

この城郭地は明治維新後,明治4(1871)年の鎮西鎮台第一分営の設置,同6年広島鎮台の配置決定により軍都心臓部として位置づけられた。その後も諸部隊,諸施設が創設蓄積し,明治19年広島鎮台は第5師団と改称された。広島は産業都市あるいは学都としても発展し,近代化したが,その近代化と時には連繋するように,時には競合するように軍都化が進んだのである。この基町は,日常的には市民生活に馴染みある場所ではなかったが,日清戦争期に大本営が置かれて臨時首都の様相を呈し,日露戦争を経て太平洋戦争に突入すると,様々な側面で軍事色を強めていき,市民生活に多大な影響を及ぼす中枢部となった。そして,昭和20(1945)年8月被爆を迎えた。

(2)終戦直後における住宅建設

基町は爆心地からほぼ1キロメートル圏内という至近距離で被爆し,人的にも物理的にも壊滅的な打撃を受けた。戦後は軍が解体されて瞬間的に空白地帯となったことから,新たな戦後史が始まった。元の西練兵場付近は一時的に開墾され農業用地となり,さらに転用されて住宅用地となった。それは被爆・戦災による住宅不足に加えて,海外からの引揚者や復員兵に対して,とりあえず応急的な住宅を供給する場所として絶好の地と判断された。戦後この地は国有地となることによって独特の役割を担うこととなる。昭和21(1946)年10月,基町の主要部分である70.48ヘクタールがそのまま中央公園として決定されたのである。もしこのまま公園の整備が進んでいたならまったく異なる状況になっていたであろうが,まさにこの公園用地に住宅が建設されたことから,基町問題が始まった。

昭和21年6月まず広島市が480戸を緊急住宅対策として建設した。10軒長屋で越冬住宅と呼ばれ,丸太杭打ち土台敷き,ソギ葺,無天井の粗末な住宅であったが人々は競って入居した。さらに昭和21年度中にセット住宅と称するいわば7坪のプレハブ住宅267戸を供給した。戦時中に役割を担った住宅営団がふたたび機能することとなった。その後も県営住宅を含めて住宅建設が進み,かくして基町地区は一大住宅地となり,被爆し人口が減少していた都市に新たな息吹を与えたのである。

当時は深刻な住宅不足の時代であり,公園確保よりも住宅供給が望まれる時代であった。公園として計画した場所を,とりあえず住宅の建設場所として転用しようとした背景には,本を正せば軍用地はとりあえず公園用地として計画決定しておこうという当面の判断や,公園用地を使用して供給すれば問題が生じにくいであろうという発想から,圧倒的に不足する住宅に対する緊急政策として,この公園用地を使用してまでも住宅供給を優先させる状況があったといえるだろう。

2 中層公営住宅の建設

巨大な住宅用地化した基町はその後,複雑な問題を抱え込むこととなる。

それまで二期を務めた濱井信三市長に対して立候補した渡辺忠雄は,「基町住宅を高層アパート化する。公園用地,百メートル道路は縮小する」などの公約で市長選挙に勝利した。基町地区において,中央公園予定地の面積を変更することとし,昭和31(1956)年12月「一団地の住宅経営」地区が指定され,13.25ヘクタール縮小して計画決定面積を42.32ヘクタールとした。この住宅地への大転換は都市計画審議会において提案され議論された。そのときの趣旨は,「本市の中央部に位置する基町地区内の旧軍用地は,中央公園として計画されていたが,この地域には,戦後急造された木造公営住宅があり,この移転先がないため公園造成事業が殆ど進捗せぬ現状であった。この公園造成上の隘路を打開するためと,老朽公営住宅を整理統合するために,平和記念都市建設計画中に新たに『一団地の住宅経営』の部を追加し」と説明されている。

そして,「基町中層住宅計画」が策定され,昭和31年度から公営住宅の建替工事が進められ,同43年度まで中層住宅として市営630戸,県営300戸が完成した(写真5―5)。これによって基町はいよいよ住宅地としての地歩を築くこととなったが,しかし,公園予定地は依然として多くの老朽住宅・不法住宅が立地したままであり,公園用地は確保されないままであった。すなわち,このような中層住宅の建設をもってしても,密集した木造住宅群をすべて建替えることは不可能であることが,明確になっていったのである。

3 基町河岸における不法建築の実態

昭和44(1969)年の時点で基町地区における太田川本川の左岸沿いの河川敷・土手に形成されていた不法建築住宅群は撤去されておらず,存続したままであった。ここが,かつて相生通りとも原爆スラムとも呼ばれたのは理由があった。現在,相生通りといえば上天満町から十日市,相生橋,紙屋町,八丁堀を経て広島駅前の稲荷町に至る広島の最大の繁華街を貫通する目抜き通りのことを指すが,相生橋の東詰から三篠橋の東詰までの約1.5キロメートルが独特の形成過程をたどり,最盛期には1,000戸にも及んだとき,誰言うとなく相生橋から「相生通り」と呼ばれるようになった。山代巴編著『この世界の片隅で』(岩波書店,1965)でも次のとおり紹介されている。「相生通りのことを旅のルポライターは至極簡単に,原爆被害者の吹きだまりなどと書いていますが,広島最大のスラム街がもしそうであるなら私どもはせめてその実態だけでもつかんでおきたかったし,……」「そこでこの街の中ほどに部屋を借り,文沢隆一が住むことになりました。ですから相生通りについては一応のつうです」3)

住宅その他の建物は,被爆後早いうちから集積を始め,当初は南端の相生橋東詰と北端の三篠橋東詰の交通の便利な所から進み,対岸の寺町への渡し場があった中間部などもそれに続いた。その後,基町の旧軍用地に住宅営団や市・県による公営住宅が建設されるようになるとそれによる立退きで河川敷に押し寄せられて不法建築を建てるようになり,さらにその後の戦災復興土地区画整理の進行に伴い,行き場を失った人びとがここ相生通りに集積していった。

平和記念公園の整備が進んだ結果,基町相生通りへの流入に繋がったという側面もあった。このことは中国新聞社編「炎の日から20年/広島の記録2」の「相生通り」において「下流の対岸になる平和記念公園の工事が進みだした。どっと七十戸近くの立ちのきバラックがなだれ込んできた」4)。さらに,「三十年(1955年)以後は,太田川放水路や百メートル道路工事による市内福島町地区からの立ちのき組も,この土手へ集中した」5)と記述されている。昭和33(1958)年,アラン・レネ・監督が「ヒロシマ・モナムール」の撮影のために広島を訪れ,その時主演女優のエマニュエル・リヴァがロケ中に基町のバラックを撮影していたことが判明した。

そこもまた,簡易的な素材ですぐに老朽化が避けられない建物で埋め尽くされており頻繁に火災が発生したりしてきわめて危険な場所と位置付けられ(写真5―6),相生通りは不法占拠地帯としてまた「ここに住む人たちはすべてが,政治のひずみのしわよせを受けており,ここに追いこまれざるを得なかったのです」6)と表現されるような場所として,把握されるところとなった。

昭和45年に現地調査を実施したとき7),すでに再開発が実施されることが決定されていたが,環境的には問題もあるとはいえ,住まいの空間に迫ればこの地区に馴染み満足して住んでいる人たちもいて,きめ細かなコミュニティも形成されていたことが判明した。

昭和40年ごろ,戦災復興事業として施行された土地区画整理事業が終息期に向かうや,基町地区の扱いが最大の課題として浮上していった。片や終戦直後に建設された木造の公営住宅が,中層の耐火建築によっても収容しきれずに高密度でかつ老朽化しつつあった。片や市内の多くの河岸では不法建築の撤去作業を進めてきて最後に残されたここ相生通りをどのように収拾するかが問われた。密集し衛生環境など多大な問題を抱えた住宅群をどうするか,この再開発が戦災復興事業の最終段階の大きな課題となったのである。


注・参考文献

3)山代巴編「この世界の片隅で」(岩波新書,1965)まえがきvii頁。

4)中国新聞社編「炎の日から 20 年/広島の記録2」(未来社,1966)283 頁。

5)中国新聞社編「炎の日から 20 年/広島の記録2」(未来社,1966)28 頁。 

6)山代巴編「この世界の片隅で」(岩波新書,1965)まえがきvii頁。 

7)石丸紀興他著「基町相生通りの出現と消滅」「基町高層住宅における空間と文化」(広島市編発行「広島新史/都市文化編」(1983)所収)。

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