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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1コラム 基町,激変の都市空間を探訪する

はじめに

広島デルタの本格的な歴史は,天正17(1589)年,戦国大名毛利輝元による広島築城から始まる,といわれる。広島城は東西・南北ともに約1キロメートル,面積は約90万平方メートルの広さを有し,三重の堀と88の櫓を備える堅固な平城であった。「基町(もとまち)」という町名は,明治5(1872)年,城郭一帯が広島の基礎を築いた地であることから命名された1)。基町は,明治時代から被爆前まで,第5師団の司令部や西練兵場などの軍事施設が林立するなど,軍都を体現する町でもあった2)。戦後,しばらく応急的な公営住宅が立ち並んでいたが,現在は,県庁や国の行政機関,博物館,図書館,体育館などの文化・スポーツ施設,中低層および高層の住宅群,そして中央公園などからなる,広島市を代表する都市空間に変貌した。以下では,今日残される往時の痕跡をひもとき,過去と現在をオーバーラップさせながら,この町の激変の軌跡をたどってみたい。

1 臨時の首都となる

広島県庁の東館南に「臨時帝国議会仮議事堂跡」の説明板がある。明治27(1894)年8月に始まった日清戦争で広島に大本営が移されたこと,臨時帝国議会が開催されたことが記されている。日清戦争が始まると,第5師団が置かれた広島は大陸への出兵地となった。宇品築港と山陽鉄道の開通が主な要因だった。同じ明治27年の9月,大本営が東京の参謀本部内から広島城内の第5師団司令部内に移される。10月15日には,臨時軍事費予算案や戦争関連法案を審議するため,広島に臨時帝国議会が召集された3)。そのため,西練兵場の一画に急遽,木造柿(こけら)葺の洋風平屋建ての仮議事堂が建設された4)。大本営と帝国議会が広島に移されたことで,明治天皇をはじめ,政府高官,軍の要人,貴族院・衆議院議員らが相次いで来広する。日清戦争の開戦直後,広島は文字通り臨時首都の様相を呈した5)。

2 広島城の外堀と新たな繁華街

紙屋町の地下街(シャレオ)の中央広場より北,広島県庁に上がる階段下に,広島城外堀に使用さ

れていた石積みがある。地下街の建設工事の際に発掘されたものだ。紙屋町交差点の東西方向の道路(現・相生通り)は,かつて広島城南の外堀だった。明治時代,外堀は常に汚水が停滞したため夏季には悪臭を放ち,春秋の雨期には水があふれ出して伝染病流行の原因になっていた6)。広島市は解決

策として外堀の埋立てを計画,堀を所管していた陸軍省からの払下げを受け,明治44(1911)年,外堀は広場と道路,宅地へと姿を変える。同時に,電車の軌道も敷かれ,大正元(1912)年11月,市内で初めて路面電車が開通した7)。電車の開通は人びとの移動を容易にし,八丁堀や新天地,広島駅前などが繁華街として発展した。

3 原爆投下―広島城から街の壊滅を発信する

広島城本丸の南辺,内堀の石垣沿いに半地下式の鉄筋コンクリート造りの遺構がある。被爆当時,中国軍管区司令部の防空作戦室と呼ばれた軍の施設だ。空襲下の作戦本部,情報本部として使用され,重要書類の保管庫も備えていた。昭和20(1945)年5月から比治山高等女学校の3年生90人が3交替で動員され,電話による連絡業務に従事していた。そんな彼女たちを原子爆弾が襲う。勤務先の中国軍管区司令部の建物は一瞬にして倒壊し,その後,炎で覆われた。広島城の本丸上段にあった旧大本営と天守閣も倒壊したが,火災は免れた。半地下の防空作戦室にいた比治山高等女学校の生徒たちは,原爆による爆風で吹き飛ばされた。彼女たちは,広島市内の電信・電話施設が壊滅するなか,かろうじて使用可能だった専用電話を用いて,いち早く市外に,広島壊滅の報を伝えた8)。

現在,かつての防空作戦室の入口近くには,この地で被爆した軍人・軍属や動員学徒を追悼する慰霊碑が立っている。

4 幻の広島駅移転計画

戦後の復興計画において,広島駅を基町(西練兵場の跡地)に移転する案があった。広島市にとって駅の移転は当時,重要課題の一つであり,西練兵場跡地の有効活用策の一環として浮上した。だが,財政負担があまりに大きく,この案は結局,幻に終わる9)。ただ,基町に隣接する白島地区では,現在,山陽本線とアストラムラインの交差部にそれぞれ新駅の建設工事が進められており,市の中心部にある鉄道の駅を夢見た先人たちの願いは,形を変えて実現しつつある。

5 応急住宅と基町

戦災復興計画で,西側大半を公園用地として計画決定された基町の旧軍用地。その一方で,当面の住宅不足対策として,住宅営団や広島県,広島市はこの地に応急住宅を建設した。昭和23(1948)年末現在,基町の市営住宅は851戸と3棟(木造2階建てアパート)に上り,翌24年ごろには住宅営団・広島県・広島市合わせて1,800戸もの公営住宅がこの町に広がっていた10)。

住宅営団の住宅は,工場生産された材料を現地で組み立てる簡易住宅で,素人でも2,3日で建てることができた。市内には,ほかにも公営住宅が建設されたが,入居申込みが殺到し,抽選は常に高倍率だったという11)。基町の公営住宅はその後,老朽化し,また太田川の土手沿いには不法住宅が立ち並んだ。

再開発事業により住宅事情が解消したのは昭和53年のことだ。かつて不法住宅が集中した土手沿いは,現在,「基町環境護岸」として親水性のある水辺空間に変貌している12)。

(高野和彦・永井均)


注・参考文献

1)広島市役所編『新修広島市史』第2巻(広島市,1958 年)442 頁。

2)広島市編『広島新史』財政編(広島市,1983 年)213 – 216 頁。

3)前掲『新修広島市史』第2巻,521 – 523 頁。

4)広島県庁編『広島臨戦地日誌』(広島県 1899 年)[1984 年,渓水社より復刻]235 頁。

5)広島市役所編『新修広島市史』第1巻(広島市,1961 年)455 – 457 頁。

6)前掲『新修広島市史』第2巻,607 – 608 頁。

7)広島電鉄社史編纂委員会編『広島電鉄開業 100 創立 70 年史』(広島電鉄,2012 年)43 頁。

8)旧比治山高女第5期生の会編『炎の中に―原爆で逝った級友の 25 回忌によせて』(旧比治山高女第5期生の会,1969 年)29 – 31 頁。広島市役所編『広島原爆戦災誌』第2巻(広島市,1971 年)166 – 168 頁。広島城編『広島城壊滅!―原 爆被害の実態』〔展示解説図録〕(広島城,2010 年)75 – 78 頁。

9)広島市編『広島新史』資料編2(復興編)(広島市,1982年)18-19,26-27,35,48頁。

10)広島市役所編『市勢要覧〔昭和23年版〕』(広島市,1949年)83-84頁。広島平和記念資料館編『基町―姿を変える広島開基の地』〔展示解説パンフレット〕(広島平和記念資料館,2012年)10頁。

11)広島市編『広島新史』市民生活編(広島市,1983年)55-59頁。広島都市生活研究会編『広島被爆40年史―都市の復興』(広島市,1985年)70-71頁。

12)広島都市生活研究会編『広島―都市美づくりこの10年風景の創造へ』(広島市,1989年)80-85頁。

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