Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1IV 被爆者医療の実態と展開
1 被爆直後の救護活動
防空体制の不備もあって多くの死傷者を出したなかで,九死に一生を得た広島の医療従事者は,被爆した医療施設や学校,寺院はもとより,橋や道路,公園などを利用してできた救護所において,自らの負傷も顧みず被爆者の治療に当たった。また県内ばかりでなく,他県の医療関係者の援護,さらに昭和20(1945)年8月9日に赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日したマルセル・ジュノー博士の尽力による医薬品の提供と4日間の救護活動など国際支援もみられた。なお救護所は,広島県が把握したものが53か所,広島県医師会広島支部会員が救護活動をしたことが判明しているものが102か所に及んでいる。
当時の広島市内には,広島第一,第二陸軍病院,広島陸軍共済病院,県立広島病院,広島赤十字病院,広島逓信病院,広島鉄道病院,三菱重工業構内病院などがあった。このうち第一と第二陸軍病院と県立広島病院は全壊全焼,そのほかの病院は大きな被害を受けながら被爆者の救護施設となった。
爆心地から1.6キロメートルの千田町1丁目にあった広島赤十字病院は鉄筋コンクリートの一号館,二号館は大破し木造の南病棟・隔離病棟・寄宿舎などはその後に発生した火災によって焼失し,軍関係入院患者のうち5人が死亡,105人が負傷,院長の竹内釼をはじめ職員・生徒のうち,51人が死亡,250人が負傷するなかで,必死の救護活動が展開された。なおそのときの様子について,外科病棟に勤務していた久保(旧姓山根)看護婦長心得は,「やっとの思いで貴重品として持っていた油を入手し,大きく裂いた脱脂綿にどっぷりつけ,両手で砂や硝子片の入っているのも構わず顔,背,手,足と手当り次第次から次へと塗りつける。清潔不潔もなく薬局から追加された落花生油も焼石に水で勿論ガーゼ,包帯は全くなし」と混乱した状況を証言している43)。
戦災時の救急活動は60日間と定められており,昭和20年10月5日をもって救護所は閉鎖されることになった。この間に救護された被爆者は,広島県が把握しただけでも31万5,910人を数えた44)。しかも救護所には,未だ479人の収容者と1,248人の外来患者が治療を受けており,今後も何らかの対策が必要なことは明白であった。そこで広島県は,日本医療団と相談し日本医療団病院として三篠病院,草津病院,江波病院,仁保病院,矢賀病院,福島診療所を開設し,被爆者医療と一般診療に当たらせることにした。なお,施設が不充分なこと,教室の明け渡しを求められたこと,被爆患者が減少したこともありこれらの医療団病院はしだいに閉鎖されることになる。
2 開業医の原爆後障害研究と原対協の設立
(1) 被爆者医療に取り組む広島の医師
昭和20年代初期,被爆者医療が組織的に行われる以前から,広島の医師たちは被爆者医療や研究に取り組んでいた。なかでも昭和23(1948)年末に専門領域を異にする正岡旭(産婦人科),原田東岷(外科)を中心として,槇殿順(放射線科),於保源作・水野宗之・高田潔(以上,内科),後藤英男(眼科),竹内釼(外科)の8人によって設立された土曜会は,毎月一回,会員宅に集まり研究を続けた45)。そして研究会を重ね続けるうちに自然に被爆者医療が共通のテーマになり,被爆者は抵抗力が弱いのではないか,貧血になりやすいのではないか,病気にかかりやすいのではないか,寿命が短いのではないかという疑問が生じた。とくに於保は自費で被爆者の死因を調査し,26年に土曜会において被爆者に癌が多いという調査結果を発表,さらに研究を重ね30年7月12日に広島市で開催された原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会第3回広島長崎部会などにおいて発表し大きな反響を呼んだ。
(2) 広島市原爆障害者治療対策協議会の設立と被爆者医療
昭和27(1952)年,日本の独立が現実のものとなり,それまでプレスコードによって抑えられていた原爆問題がマスコミにおいて取り上げられるようになった。そうしたなかで「原爆乙女」が東京,大阪やアメリカにおいて治療を受けるニュースが伝わると,広島の医師たちは,「治療は地元医師で」という意向のもと46),被爆者の無料診療に向けて奔走した。これを知った広島市は,広島市医師会と協力して被爆者医療を実施することを決意し,こうして昭和28年1月13日に広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)が設立,被爆者の無料治療が開始されたのであった47)。
3 被爆者医療の法制化
(1) 「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」の制定と問題点
原対協による被爆者治療が開始されてから1年余の昭和29(1954)年3月1日,ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験によって「第五福竜丸」が死の灰をあび,船員23人が被災した。この被害者に対し国費による補償や治療がなされることを知った原対協や広島市議会は,原爆障害者の治療費の全額国庫負担と生活援護を求める運動を開始した48)。
こうした運動により,昭和29年度から31年度まで,原爆障害者に対する治療関係費が充分とはいえないまでも国家予算によって支給されることになった。さらに31年には,「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(「原爆医療法」)が国会に上程,可決され,3月31日に公布,4月1日から施行された。
「原爆医療法」によって被爆者は被爆者健康手帳の交付を得て,国の費用で健康診断と医療を受けることが可能となった。ただこの法律には,医療手当などの生活援護を認めていないこと,医療給付の範囲が限定されていることなど不充分な点が多かった。このため昭和35年8月1日,同法の改正が行われ,新たに特別被爆者制度が設けられ,認定されると原爆症以外の疾病でも医療費,厚生大臣が原爆症で医療が必要と認定した被爆者には医療手当が支給されることになった。
(2) 「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」の制定をめぐって
「原爆医療法」により,健康診断と医療が国費でなされることになり,被爆者医療は大きく前進した。しかしながら特別被爆者制度が設けられその適用範囲が広げられても,適用されない一般患者が残り,その根拠が問題となった。また医療手当が支給されるようになり二度にわたって増額をみたが,これだけではとても生活できるような額ではなかった。もっとも問題なことは,当初から求められていた生活援護が放置されたままになっていたことであった。
こうした問題を打開するため粘り強い運動が続けられ,昭和43(1968)年5月20日に「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」(「原爆特別措置法」)が公布,9月1日に施行された。これによって医療手当に加え,新たに特別手当,健康管理手当,介護手当などが支給されるようになり,充分といえないまでも被爆者の医療と福祉は前進することになった。しかしながら同法には,疾病・年齢,所得などの制限が残された49)。
4 被爆者の医療と研究機関
(1) 広島原爆病院の開院と活動
被爆者の無料治療を続けていた原対協は,昭和29(1954)年に広島市民病院に原爆症専門病院を設立するよう厚生省に働きかけた。同じころ,日本赤十字社も広島市と長崎に原爆症専門病院の設立を計画,郵政省にとりあえず30年度に3,000万円のお年玉年賀葉書寄付金の配分を要請した。両者の調整をするため30年1月15日に関係者が集まり懇談会が開かれた。この席で日赤より「,1病院の管理は日赤が行う,2運営は市と原対協が行う,3建設場所は日赤広島病院構内とする」という提案がなされた。これに対し原対協は,1と2については今後地元で検討する,3については再考を促すという考えを示した50)。
こうしたなかで厚生省の仲介による話合いが行われ,昭和30年2月5日に同省より調停案が提出され,建設場所は広島赤十字病院構内とするが,構造上同病院と区別する,建物の維持管理は広島赤十字病院がこれにあたる,運営は運営委員会(仮称)を設置してその決定にもとづいておこなう,原爆病院はオープンシステムとしてすべての医師がその施設を自由に利用できるようにすることになった51)。
工事は昭和31年1月15日に開始され,6,997万円(ほかに医療機械設備費340万円)を費やして,9月11日には鉄筋コンクリート3階建て(120床)として完成した。この間の8月23日には,17人の委員により第1回運営委員会が開催され,病院の名称を広島原爆病院とすることなどが決定され,9月20日をもって開院した。その後,施設の整備がなされ,開院から50年度までの入院患者は,5,681人(実数)を数えている。
(2) 広島原爆被爆者福祉センターの開所
被爆者医療を推進するためには,被爆者の健康管理施設や生活援護施設が必要なことは明白なことであったが,すでに述べたように「原爆医療法」ではそのような措置はとられなかった。こうした状況のなかで,お年玉つき年賀葉書の寄付金が被爆者の治療および援護を行う事業団体にも配分できるようになったことを知った原対協は,昭和33(1958)年9月,「寄付金つき郵便葉書等の発売に係る寄付金の配分方に関する陳情書」を提出した。その結果,昭和33年度分として1,730万円,34年度分として3,500万円の配分を受け,広島市役所の北側に5,584万円の費用で鉄筋コンクリート3階建ての広島原爆被爆者福祉センター(原爆センター)を建設,36年7月1日に開所した。
原対協は原爆センターの基本方針として,健康指導,生活相談,職業補導からなる総合福祉施設を考えていた。しかし配分額が削減され,構想の修正を迫られることになった。こうした事態に郵政省の意向をくんだ事務局は,健康管理は原爆病院があるので職業補導を中心とする案を示したが,「原爆医療法」の健康診断の重要性を主張する医系理事の説得により,健康指導を中心とすることに決定した。その結果,健康管理所を設置して広島市医師会に運営をまかせ,被爆者の健康診断の拠点としての役割を果たすことになった52)。
(3) 原爆後障害に関する調査・研究活動
アメリカ大統領の同国の学士院・学術会議に対する命令により,広島と長崎の原爆被爆者における放射線の医学的・生物学的影響調査機関として原爆傷害調査委員会(ABCC)が設立され,昭和22(1947)年3月に広島における活動を開始した。その後日米対等の協力関係のもとで調査を続けることになり昭和50年4月,放射線影響研究所として再発足した。また原爆に起因する種々の疾患の診断および治療の方策を樹立する目的で原子爆弾後障害研究会が設立され,昭和34年6月13日に第1回研究会が開催され,現在まで続けられている。
広島県立医科大学は,昭和27年に放射性同位元素委員会を設立するなど,早くから被爆者医療の研究に取り組んできた。こうした方針は広島大学医学部にも受け継がれ,33年4月1日には広島大学医学部附属原子放射能基礎医学研究施設(原基研)が設立された。そして36年4月1日には,広島大学原爆放射能医学研究所(原医研)が障害基礎,病理学・癌,疫学・社会医学,臨床第一(内科系)の4部門によって開設された。その後原医研は,組織を拡大し被爆者医療の総合研究機関としての役割を果たすようになる53)。
5 原爆医療の国際化
被爆者の中には,多くの韓国・朝鮮人も含まれているが,帰国した被爆者は多年にわたり放置されてきた。こうしたなかで韓国の被爆者は,昭和42(1967)年に韓国原爆被害者援護協会を結成,45年8月10日には辛泳洙会長が来日し援護を要請した。これに対し日本側は46年10月,韓国被爆者救援日韓協議会を結成,前後して在韓被爆者の日本での治療,医師団4人の韓国への派遣による診察を開始した。また48年12月,慶尚南道に陜川原爆被爆者診療所を開設,ここでも在韓被爆者の診療が行われるようになった。
これ以降,在韓被爆者に加えてその他の在外被爆者の診療も実施されるようになり,52年3月から4月にかけて,第1回在米被爆者健診医師団が派遣されている。また少し性格が異なるが,これまで広島が蓄積してきた原爆被爆者医療の実績を役立てることを目的に平成3(1991)年4月に放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)が設立され,チェルノブイリ原発事故の被曝者医療に取り組む研修医の受け入れなど多彩な活動を展開した。被爆者や被曝者への医療とはいえないが,昭和56年3月,核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が形成され,同年には日本支部,57年に広島支部が設立され,平成元年と同12年には広島で大会を開くなど,被爆国の医師として核戦争防止を訴える運動を続けている。
原爆によって広島市は,医療機関,医療従事者の多くを失った。しかしながら広島の医師たちは,自ら被爆しながらも立ち上がり世界中の人たちの支援を受け被爆者医療を推進した。そして今,世界に広がる被曝者医療に貢献している。
(千田 武志)
注・参考文献
43)「広島赤十字病院沿革史原稿(仮題)」1990 年8月。
44)広島原爆医療史編集委員会『広島原爆医療史』(広島原爆障害対策協議会,1961 年)148 頁。
45)土曜会については,前掲『広島市医師会史』第2篇,330 ~ 333 頁に詳しい。
46)広島市医師会『広島市に於ける原爆障害者治療対策の概要』(1954 年)2頁。
47)前掲『広島原爆医療史』471 ~ 473 頁。
48)「原爆障害者治療費全額国庫負担に関する決議」1954 年5月 25 日(広島市議会「議決書」1954 年)。
49)「原爆医療法」と「原爆特別措置法」については,主に広島市衛生局原爆被害対策部『広島市原爆被爆者援護行政史』(1996 年)124 ~ 181 頁による。
50)『中国新聞』1955 年1月 16 日。
51)前掲『広島原爆医療史』569 ~ 570 頁。
52)被爆者の健康管理に原爆センターが果たした役割については,前掲『広島市医師会史』第2篇,509 ~ 531 頁参照。
53)原医研に関しては,前掲『広島大学医学部 50 年史』通史編,359 ~ 374 頁参照。