Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1II 原爆報道
1 幻の第一報
昭和20(1945)年8月6日,広島市は米軍が投下した一発の原子爆弾で,人間も街も壊滅的な被害を受けた。報道機関も例外ではなかった1)。
中国新聞社は広島県内で唯一,新聞発行を続けていた2)。本社は広島市上流川町(現中区胡町)にあり,爆心地から東に約900メートルだった。輪転機2台を据え付けていた3階建て本館と,西隣7階建ての「中国ビル」は全焼。犠牲者は本社員の3分の1に当たる114人に上った3)。生き残った社員は,多くが肉親を失っていた。
被爆地からの原爆報道は,未曽有の混乱のただ中から始まったのである。各社の記者たちが死力を尽くして送稿した「広島壊滅」の第一報からして「幻の記事」となった。
同盟通信広島支社の中村敏編集部長は午前8時15分,支局員が住む市西部の五日市町(現佐伯区)にいた。「広島市上空に,タツ巻きのような黒煙」が立ちのぼるのを見て,自転車で向かった。同11時20分ごろ,市北部の祇園町(現安佐南区)にあった広島中央放送局原放送所を通じてこう送稿した4)。
「広島市は全焼,死者およそ十七万の損害を受けた」。同盟広島支社は「中国ビル」に入居していたが,空襲に備えて原放送所を避難先に定めていた5)。縮景園に近い上流川町(現中区幟町)の放送局は全焼し,そこから脱出した技手らが原放送所へ徒歩と渡船でたどり着き,大阪中央放送局を打ち合わせ線で呼び出していた6)。
送稿は,原放送所からの連絡に応答した岡山放送局で,同盟岡山支局員が書き取った7)。だが,東京の同盟本社は被害の甚大さを信じられず,逆に疑問を呈したという。
毎日新聞広島支局の重富芳衛記者は,立町(現中区)の自宅で被爆し,妻を連れて避難した可部町(現安佐北区)に正午ごろ着いた。「全市全滅す。死傷者無数」との原稿を警察電話で送るよう可部署長に依頼した8)が,大阪本社へは届かなかった9)。
中国新聞の大下春男校閲主任は,五日市町の自宅から,「午後二時すぎ,ようやく本社に辿ついた」10)。やがて,牛田町(現東区)の自宅で被爆した糸川成辰調査部長らが駆け付けてきた。「代替紙を依頼しよう」。広島市東部,府中町の疎開先にいた山本実一社長と相談したという善後策を伝えられた。
電話も電信も途絶していた。そこで,二葉の里(現東区)の第二総軍司令部と宇品町(現南区)の陸軍船舶司令部へ手分けして向かう。船舶司令部からの無電依頼は「近畿,九州両地区総監府を通じて朝日,毎日新聞の両大阪,西部本社へ飛ん
だ」11)。
屍の街を歩き軍の無電で依頼した代替紙の要請は,中国新聞による広島壊滅の第一報でもあった。
被爆後の広島へ新聞は9日付から届いた。「中国新聞」題字の同日付には,西部軍管区発表の北九州地方や長崎への空襲を報じる1面トップ左横で,宮内省が8日発表した李(リ・グウ)公の広島での「御戦死」の記事と,内務省防空総本部の発表が載る13)。「新型爆弾攻撃」には「防空壕の補強」を呼びかけていた14)。
政府・軍部は,原子爆弾投下による被害の甚大さを伏せ,国民の士気を保つため報道統制を続けたのである。
2 惨禍の取材
中国新聞カメラマンの松重美人記者は,広島城址に構えた中国軍管区司令部の報道班員でもあった。前夜から断続的に続いた空襲警報に伴う司令部での待機が明け,翠町(現南区西翠町)の自宅に戻り,被爆した。
爆心地から南東に約2.7キロメートル。自宅兼理髪店の窓枠は吹き飛んだが,本人も腰の革バンドにくくりつけていた小型のマミヤシックスも無事だった。
午前11時すぎ,爆心地から約2.2キロメートルの御幸橋で「この世の人間とは思えぬ」老若男女を1枚目に収める。近づくと「涙でファインダーがくもっていた」が2枚目を撮る。上流川町の本社へ向かう途中,路面電車でつり革を持ったまま焼かれた人を目撃したが,「とてもシャッターを切る気持ちにはなれなかった」15)。それでも午後4時すぎにかけて5枚の写真を撮影した16)。
これらは広島原爆を記録した代表的な写真となるが,本社の全焼で載せる紙面がなかった17)。
朝日新聞西部本社報道部の吉田君三記者は,広島市西部の廿日市町(現廿日市市)にいた。門司市(現北九州市)への空襲で焼け出され,生家に戻っていた18)。広島デルタへは軍用トラックに便乗して入った。
「この惨状はどうだ。群衆の一人一人が着衣は裂け,殆ど全裸に近い姿のうへに顔,腕,そして膝と焼けただれて男か女か見分けもつかぬ」。この惨状ルポが掲載されるのは西部版8月22日付。記者が目撃したままを報じることは戦時下ではかなわなかった19)。
小倉市(現北九州市)から7日入った西部本社通信部20)の岸田栄次郎記者の送稿は,西部版8月10日付2面トップで扱われた。「屍越えてこの復仇敵暴虐の跡に憤怒の誓」の見出しが付けられ,戦意高揚の記事としてであった。
市北部にいて助かった広島支局の小倉五郎記者は,直後の心境を後にこう記している。「長文の原稿を書き,どうしてそれを送稿するかで頭をしぼるところなのだが,一向にその気は起こらなかった」21)。すさまじいまでの現場に立った記者たちは無力感に陥ってもいたのである。
毎日新聞は,大阪本社写真部の国平幸男記者が,社会部の西尾彪夫記者と入った広島を9日に撮影した。臨時県庁が置かれた広島東警察署への缶詰類の搬入や,地下壕に設けられた町会事務所の2枚が11日付大阪版で掲載される22)。しかし,記事の見出しは「危険は閃光の一瞬この残虐に広島市民は敢闘してゐる」だった。
報道統制は揺るがなかった。紙も墨汁もないなか,中国新聞の記者たちは7日,口伝隊を編成する23)。罹災者の応急救済方針や臨時傷病者の収容場所,救援食糧などの状況を口頭で伝えた24)。県警察部の太宰博邦特高課長からは「原子爆弾という名称は使用してはいけない。言語に出したものも処罰する」と申し渡された25)。ところが「ピカドン」26)という言葉が生まれ,たちまち広がる。太宰課長も「大衆はうまいことをいうものだ」と,この呼称は差し止めなかった。
3 公式発表
「原爆投下についての最も早い報道は,八月六日午後六時のラジオ放送であった」27)。全国的に放送されたのかどうかは不明だが28),朝日新聞大阪版7日付に載った中部軍管区司令部(大阪)の発表から内容をうかがうことができる。「六日七時五十分頃,B29二機は四国東南海より北進(略)広島市付近に若干の損害を蒙つた模様」29)。
大本営は7日午後3時半,以下の公式発表をする30)。
「一昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃に依り相当の被害を生じたり二敵は右攻撃に新型爆弾使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」。
ラジオ報道に続き31),各紙は翌8日付1面トップ4段見出しで報じた。
内閣情報局は7日未明,トルーマン米大統領が発表した「原子爆弾投下」とのラジオ放送を入手した32)。だが,軍部は国民の士気への影響が大きいと「原子爆弾」の言葉に反対し,政府も「新型爆弾」と呼んだ33)。言い換えることで事態の深刻さを押し隠そうとした34)。と同時に,政府は在スイス公使を通じて10日,米国へ抗議した。
「即時かかる非人道的な兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」35)。だがすでに9日,長崎へ原爆が投下されていた。
朝日新聞東京版11日付は,政府の抗議記事を「残虐の新型爆弾」の見出しを付けたが,「チユーリツヒ特電九日発」によるトルーマン米大統領のラジオ演説には「原子爆弾の威力誇示」の見出しをとった。大阪版は,抗議記事に「原子爆弾は毒ガス以上の残虐」の見出しで扱った36)。
8月15日正午,国民はラジオからの「玉音放送」で日本が敗れたのを知る。終戦の詔書は「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル」と,原爆投下による惨状に言及せざるを得なかった。敗戦を機に,原爆被害についての報道は堰を切ったように始まるのである。
4 始まった報道
朝日新聞東京版は8月16日付で,広島へ8日入った理化学研究所の仁科芳雄博士37)と,大阪海軍調査団員を務めた大阪帝大の浅田常三郎教授38)の解説を載せ,「チユーリツヒ特電八日発」による米軍発表を報じた。「約十平方キロが完全に破壊され」。記事は2面の3分の2を占めた。また,同大阪版16日付は「ストツクホルム特電十四日発」で英国の報道を紹介した39)。「全世界は一変した。原子爆弾は地上の潰滅を責す。しかし原子力を平和目的のために使用するやうになれば対時代を画するのである」。同盟通信は「リスボン十九日発」で,「英国の牧師が」「原子爆弾の非人道性について痛烈な批判を加えた」と打電した40)。
原爆は世界を滅ぼす大量殺傷兵器である。また,原子の力を「平和」のためにという考えも「8月6日」を機に起こり広がったといえる。
同盟大阪支社の中田左都男記者は8月10日,大阪海軍調査団に同行して広島へ入り,撮影もしていた41)。「中国ビル」から撮った廃虚の写真は,19日付の朝日,毎日の東京・大阪版,読売報知(読売),中部日本(中日)をはじめ各紙で掲載される。煙突1本だけが残った無残な広島の光景が全国で報じられ,国民は原爆がもたらした惨禍の一端を目の当たりにしたのである。
敗戦の混乱のうちに政府・軍部の厳しい報道統制はなし崩しになった。報道機関は,原爆の威力に続き放射線障害の影響も伝え始める。
毎日新聞大阪版8月23日付は「残された原子爆弾の恐怖今後七十年は棲めぬ戦争記念物・広島,長崎の廃虚」の見出しで深刻な状況をこう伝えた。「米国側においても広島,長崎は今後七十年間は草木はもちろん一切の生物は棲息不可能である,と恐るべき事実を放送してゐる」42)。米国発の報道は,中国大陸にも届いた43)。
広島では,中国新聞8月27日付(毎日新聞西部本社の代行印刷)で伝わる。自らが親や妻子らが血をはき,髪の毛が抜け,死んでしまう。この現実に直面していた人びとは,原爆の恐ろしさをあらためて突きつけられた44)。
本社が全焼した中国新聞は自力印刷・発行を急いでいた。社員は放射線急性障害に襲われながらも,輪転機1台を疎開させていた温品村(現東区)の牧場にやってきた。テントで寝泊まりしながら作業を続けた45)。
被爆後の自力発行は9月3日付から再開される46)。1面左肩で「戦災につき中央へ望む」の見出しをつけ,被爆地からの訴えを掲げた。
「原子爆弾の攻撃を受けた広島の惨状はまことに筆紙に尽し難いものである(略)広島市民の上にさらに当局の積極的な具体的な救護対策を早急に実施されんことを望むものである」。
東京湾上の戦艦ミズーリ号で,政府代表の重光葵外相らが,降伏文書に署名した翌9月3日,米従軍記者団ら約20人の一行が,通訳の日系語学兵を伴い,呉経由で広島に入った47)。欧米の記者たちはヒロシマへの一番乗りとルポの送稿を狙っていた。実際は,ハワイ生まれの日系2世で日米開戦まではUP東京支局所属のレスリー・ナカシマ記者が8月27日,連合国軍の先遣隊とともに入ったUP記者を通じて打電していた48)。
米従軍記者団は,太宰県特高課長や中国新聞報道部の大佐古一郎記者,毎日新聞広島支局の重富記者らに「8月6日」の体験を尋ねた。原爆投下をめぐる日米の市民が交わした初の対話でもある。
中国新聞9月5日付は2面トップで「日米記者団の一問一答」を報じた。
「県政記者団広島市惨状をみてどう感じたか」「米記者団ヨーロツパ太平洋の各戦線を従軍したが,都市の被害は広島がもつとも甚大だと思つた」49)。
ニューヨーク・タイムズから派遣されたW・H・ローレンス記者は,広島ルポを9月5日付で次のように伝えた。
「8月6日,全世界を操る秘密兵器がはじめて使われた広島で,原爆はいまだに1日100人の日本人を殺している」「街は死臭が漂い,生存者や遺族は,ガーゼで口元を押さえ,ガレキの中で遺体や家財を捜している」50)。
単独で広島入りしたロンドンのデイリー・エキスプレス特派員のウィルフレッド・バーチェット記者は,9日5日付で「原爆の疫病としか言いようのないものによって人が死んでいく」と報じた51)。
広島に入った欧米の記者たちも原爆の残虐性を見逃せなかった。同時に,広島で撮られた映像は,米国政府と軍によって,原爆投下の正当性を補強する素材にも使われた52)。
朝日新聞大阪版は9月4日付で「原子爆弾正視に堪へぬこの残虐さ」と,広島赤十字病院で治療を受ける少年の姿など4点の写真を掲載した。被爆した人間に焦点を当てた写真が初めて報道された。大阪本社写真部の宮武甫記者が8月9日,中部軍管区司令部の宣伝カメラマンとして入り撮った53)。
被害の甚大さをとらえる報道は,国内では日本の敗戦を機に始まり,海外では欧米の記者たちの広島入りから一気に本格化した。しかし,それは短期間に終わり,封じられていく。
連合国軍総司令部(GHQ)ダグラス・マッカーサー最高司令官が8月30日,神奈川県・厚木飛行場に降り立ち,日本の占領統治が始まる。9月6日には原爆調査への協力を日本政府に指令した54)。原爆開発「マンハッタン計画」のナンバー2,トーマス・ファレール准将が率いる「マンハッタン管区調査団」が9日,岩国経由で広島へ入った。
5 情報管理
米国陸軍省は,原爆投下直後から残留放射能の影響を否定していた。
8月7日,「マンハッタン計画」に参加したハロルド・ジェイコブソン博士の「原爆の威力にさらされた地域の放射能は,およそ70年間は消散しない。広島もほぼ75年間,荒廃の地となるだろう」との談話がINS通信から流されると55),翌8日には頭から否定する声明を発表した。
陸軍省は,原爆開発を指揮したロバート・オッペンハイマー博士の「広島にははっきりと確認できるレベルの放射能は存在せず,わずかながらの残留放射能は非常に早く減少したと考えられる」との見解を強調した56)。
レスリー・ナカシマ記者が海外へ送った初の広島ルポは,ニューヨーク・タイムズ8月31日付などに掲載された。しかし記事と原文57)を照らすと,意図的な削除や挿入がなされていたのが浮かび上がる58)。
ファーレル准将が率いる「マンハッタン管区調査団」は9月9日,爆心地で残留放射能を測定し,広島赤十字病院などを訪れた。国際赤十字社マルセル・ジュノー駐日代表や東京帝国大医学部の都築正男教授が同行した59)。
「原子爆弾の毒素は今後七十五カ年影響力を持つと報道されたが」との都築教授の質問に,准将はこう答えた。「七十五年なんてとんでもないことだ」「二,三日後からは影響ないはずである」
中国新聞は翌10日付2面トップで「嘘だ,七十五年説」の4段見出しで扱った。続いて15日付トップでは「死者十一万を超ゆまだ猛威振ふ原子爆弾」「爆心圏遠く離れても原子爆弾症は免れず」と報じる。「南瓜も薬になる」(9月4日付)「すぐすゑろお灸」(同8日付)と昔ながらの民間療法の効用性も伝えた60)。放射線障害の影響について,米側も日本の医師も未見であった61)。
東京へ戻ったファーレル准将は9月12日記者会見し,次のように述べる。「秘密兵器の力は原爆開発者たちが予期していたより大きかった。しかし,破壊地域に住んでも危険はない」62)。日米のメディアは米軍の見解に従っていく。
「原子爆弾の使用や,無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒瓦斯以上の国際法違反,戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであらう」。鳩山一郎がそう言及した談話が朝日新聞東京版9月15日付に載ると,GHQはすかさず48時間の発行停止を命じ,19,20日付は休刊となった63)。
さらにGHQは19日,「凡ゆる新聞紙の報道,論説,広告及び総ての出版物に適用する」プレス・コードを発する。新聞をはじめ出版,ラジオ放送,映画を検閲し,「占領軍に対して不信,又は怨恨を招く」内容を監視した。検閲は10月8日本格的にスタートする64)。
こうして「原爆報道」は封印されていくのである65)。
6 検閲下の報道
検閲は「占領国,実質的には単独占領国として政策を進めているアメリカの政治的利害によって」運用された66)。東京,大阪に拠点を置く全国紙は事前検閲,地方紙は事後検閲が原則だった。
中国新聞と,別会社で昭和21(1946)年6月1日から発刊した「夕刊ひろしま」67)は,福岡市に置かれた第3区検閲局の監視を受けた。とはいえ,本紙朝刊と夕刊の紙面から「原爆」の文字が消えたわけではない。ただ,その報道は,原爆の被害を乗り越え,いかに「世界の文化都市“ヒロシマ”」をつくるかという復興を主眼にした。生活の再建に挑む被爆者のみならず,朝鮮半島をはじめ外地から身一つの引き揚げ者や,転入者らの切なる願いでもあった。
被爆1年を控え,「ユートピア広島の建設」をテーマに懸賞論文も募集した。社説は行政を叱咤したり,市民の奮起を促したりもした。
広島市や広島商工会議所,広島観光協会からなる広島平和祭協会(会長・濱井信三市長)が昭和22年8月6日,平和祭(現平和記念式典)を開くと,事業面でも後押しする69)。翌7日付朝刊は,マッカーサー最高司令官から寄せられたメッセージ70)を1面中央に置き,社説は「祭典の深い意義をのべられたことに対し深甚の謝意」を表した。
原爆がもたらした悲惨さを真正面から報じることは「反占領軍的」とみなされたが,復興に焦点を当て「平和・民主・文化国家」の建設を訴えることは占領政策に沿うものであった。GHQは広島の復興に関心を寄せ,行政の要望を支持していた71)。
ところで,検閲を当事者たちはどう受けとめていたのか。編集局長だった糸川成辰は「非常に自由な新聞を作れると思い,プレス・コード順守の方針でやっていた」と振り返っている72)。戦時中のがんじがらめの報道統制と比べ,米国流の新聞づくりには「学ぶところが多かった」とも言い残している。
昭和24年10月3日付朝刊は,「平和擁護広島大会」が広島女学院講堂で前日にあったことを取り上げ,市民200人が参加して「原子爆弾製造禁止の意見を可決」と報じた。14行の短信とはいえ,「原爆禁止」の言葉が初めて紙面に載った73)。
しかし,直接的な原爆批判の記事はあくまで例外にすぎない。松重美人カメラマンが被爆直後に撮影した「御幸橋の惨状」写真を,「世紀の記録写真」と初掲載したのは朝刊本紙ではなく,「夕刊ひろしま」昭和21年7月6日付2面である74)。「米誌が全世界へ紹介」と掲載を理由づけているが,言及する雑誌ライフが初掲載するのは昭和27年9月29日号。検閲違反をかいくぐるための理由付けだったとみられる。
検閲は,昭和24年10月31日,CCD(民間検閲局)の廃止とともに終わる75)。だが,白血病など深刻化していた被爆の実態を伝え,原爆に続き登場した水爆の禁止も訴える報道には至らなかった。GHQのむきだしの圧力が立ちふさがった。朝鮮戦争下のレッドパージである。
7 むき出しの圧力
昭和25(1950)年6月25日,朝鮮半島で戦火が起こる。前年8月にはソ連が原爆実験を行い,10月には中華人民共和国が成立していた。米ソの冷戦があらわになり,GHQの占領政策は「共産主義との闘い」にかじを切っていた。
戦火勃発の翌6月26日「,マッカーサー書簡」は共産党機関紙「アカハタ」に30日間の発行停止を命じ,7月28日には,まず東京の新聞5社,通信2社,NHKの従業員336人を「共産党主義者またはその同調者」として解雇を言い渡す76)。レッドパージは全国の新聞社に吹き荒れた77)。
中国新聞社では8月5日,21人に言い渡された78)。翌6日付の「原爆5周年と平和祈念」と題した社説は,「戦闘的な示威運動や,あるいは踊ったり唄ったりするお祭り騒ぎは絶対につつしむべきである」と説いた。GHQ中国地方民事部により,8月6日の平和祭は直前になって中止を迫られ,広島市警察本部は平和擁護委員会などの集会を禁止した79)。
平和祭が再開された昭和26年8月6日付の社説「原爆六周年を迎う」からは,米軍の占領統治下にあった時代の苦渋がにじむ。「ヒロシマがまた日本がいかに平和への悲願をもったと(し)ても(略)その情勢のラチ外にあるのは許されないのである。そこにヒロシマの苦悩があり,日本の悲しみがある」。この年の平和祭には,朝鮮戦線へ出撃した米軍岩国基地の航空士24人が参列し,空軍機から花輪が会場に投下された80)。
報道のくびきと自己規制が解けるのは,日本の主権回復からである。
8 礎の確立
対日講和条約が昭和27年4月28日に発効すると,原爆の惨禍を扱った出版物が続々と刊行される。
「原爆被害の初公開」とうたった『アサヒグラフ』8月6日号81)や,岩波写真文庫『廣島―戦争と都市』,『原爆第1号ヒロシマの記録写真』82)。月刊誌『世界』『婦人公論』8月号は,東大病院・小石川分院で診察を受けた広島からの独身女性たちを取り上げた83)。さらに『改造』11月増刊号は「この原爆禍」と題して丸ごとの特集を組んだ84)。広島ではすでに6月,映画「原爆の子」(新藤兼人監督)が撮影入りしていた85)。昭和27年は「原爆タブー」が明けた年でもある。
メディアは,被爆によるケロイドや機能障害が残る独身女性を「原爆乙女」と呼び,彼女たちや親を失った「原爆孤児」をことあるたび取り上げていく86)。しかし,そのまなざしはほとんどが「同情」にとどまった。
大きな転機はビキニ事件からである。昭和29年3月1日,米軍による中部太平洋ビキニ環礁での水爆実験で,静岡県焼津港からのマグロはえ縄漁船第五福竜丸が「死の灰」を浴び,無線長は9月死去する。「原水爆禁止」を求める国民的な運動が起こり,署名は約3,216万人に上る。
昭和30年8月6日には広島市公会堂で原水爆禁止世界大会が開かれ,被害者の救済と「政党,宗派,社会体制の相違をこえて」原水爆禁止の推進を訴えた87)。翌31年には日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が発足する。
「社会の片隅に追いやられていた」被爆者たちが自ら立ち上がり,国家補償に基づく援護を求め,国の戦争責任を問う運動に乗り出す。高まるうねりに中国新聞の報道は呼応し,取材の幅を広げ,視点を深めていく。
「原爆が人間の生活と思想になにをもたらしたかをみつめてみよう」。昭和37年の「ヒロシマの証言」(33回連載)は,被爆者や遺族,医療関係者らが直面する実情に迫り,原爆・平和報道の原型をつくる88)。昭和39年には米軍統治下の「沖縄の被爆者」(11回連載)も追った。
原水禁運動は1960年代に入り,「いかなる国の核実験にも反対するか」どうかで社会・共産両党の対立から混迷を深める。そうしたなか,社説は,核兵器をめぐる問題を被害に遭う人間の側からとらえる視点を打ち出していく。
昭和39年3月20日付は,広島を「政党宣伝の貸し座敷にすることは十数万の声なき出席者にたいする許しがたい侮辱である」と主導権争いを断じた。さらに8月6日付では「広島・長崎が世界中に知られているのは,実は原爆の威力であり,原爆の悲惨によってではない」と定義し,総合的な調査による「『日本原爆被害白書』として国連を通じて世界に公表すべきである」と求めた。
金井利博論説委員による一連の呼び掛けは,広島大学や山口大学の大学人や,『ヒロシマ・ノート』の取材に訪れた作家大江健三郎,日本学術会議の支持と相まって,厚生省による昭和40年の被爆者生存調査へとつながる89)。
被爆20年の夏,中国新聞の原爆・平和報道は画期的な紙面をつくる。「ヒロシマ二十年」と題し,被爆の実態に焦点を当てた「世界にこの声を」,廃虚からの歩みと原水禁運動を検証した「炎の系譜」,年表「広島の記録」。3つの連載からなる1ページ特集を7月8日付朝刊から30回掲載する90)。この「ヒロシマ二十年」報道は日本新聞協会賞を受賞した。
『原水爆時代』を著した今堀誠二(広島大教授)は「被爆者を人間の尊厳においてとらえ,その点で被爆していない市民との間に,人間としての共感を引き出そうとした姿勢が,特集の主張になっている」と評価した91)。
被爆した報道機関といえども,市民とともにそうした姿勢・視点を確立するまでには20年もの耐え難く重い歳月を要したのである。原爆がもたらした悲惨さを人間の問題としてとらえる。大量殺傷兵器である核兵器を持つ・持とうとする考えに抗う。平和をつくり出す営みとは,どういうことなのか。原爆・平和報道は,試行錯誤を重ねながら今日に至るのである。
(西本雅実)
注・参考文献
1)広島市『広島原爆戦災誌 第三巻』(広島市,1971 年)431 頁。広島市内には当時,中国新聞社,同盟通信広島支社,ラジオ の広島中央放送局(NHK広島放送局)をはじめ,朝日,毎日,読売報知(読売),大阪,関門日報,合同(山陽),西日 本の各新聞社が支局を置いていた。また,大佐古一郎『広島昭和二十年』(中央公論社,1985 年)175 頁によると,産経の記 者もいた。
2)政府が 1945 年3月に閣議決定した「新聞非常態勢ニ関スル暫定措置要項」で,空襲による交通の途絶に備え,全国紙の配布 は東京・大阪・福岡とその周辺に限られ,地方への配布部数は各地方紙に譲り,印刷を委託する「持分合同」が実施される。「中 国新聞社報」同年4月 10 日付によると,広島県内では4月 21 日付から中国新聞の紙面に「朝日新聞」「毎日新聞」の題字が 印刷された1紙だけが配られた。
3)中国新聞社『1945 原爆と中国新聞』(中国新聞社,2012 年)15 頁
4)中村敏「曼珠沙華―原子雲の下の広島」(『秘録大東亜戦史 原爆国内編』富士書苑,1953 年)272-281 頁。「広島原爆投下後の四十八時間」(『新聞研究』193 号,1967 年)44 頁
5)同盟広島支社は 23 人が勤務し,小林宝徳支社長ら4人が原爆死した。堂添慶瑞,小林経明「原爆死証明書」(『新聞通信調査会報』412 号,1997 年)
6)森川寛の日記『兎糞録』1945 年8月6日の項。広島中央放送局で被爆した技手森川は,たどり着いた原放送所で「直ちに中波及(び)短波で大阪を呼ぶと共に大阪打合線で呼ぶ。幸ひ岡山より応答あり。早速大体の様子を連絡して」「大阪より短波放送を依頼して各局に指令を出すと共に救援を乞ふ」た。日記は長男高明が所蔵。中国新聞 2013 年8月5日付
7)広島放送局 60 年史編集委員会『NHK広島放送局 60 年史』(NHK広島放送局,1988 年)79 頁。岡山放送局の三宅昭職員は「午後二時前後であった」との証言を残している。
8)重富芳衛『らくがき随筆』(毎日広告広島支社,1956 年)65 頁
9)毎日新聞社『「毎日」の3世紀 上巻』(毎日新聞社,2002 年)916 頁。重富記者の送稿は「大阪本社に届いた証拠はない」としながら「被爆当日,現地の記者が発信した唯一の情報であった」とする。しかし,本文で記したように同盟通信広島支社,中国新聞の記者らも情報を送っていた。
10)大下春男「歴史の終焉」(前掲『秘録大東亜戦史 原爆国内編』)311-318 頁
11)中国新聞社史編纂委員会『中国新聞八十年史』(中国新聞社,1972 年)163 頁。陸軍船舶司令部の無電で第1報を打ち終えたのは午後9時半をすぎていたという。
12)広島県「広島市空爆直後ニ於ケル措置大要」(広島市公文書館所蔵)。表紙に「第一号 戦災記録 広島県」とある記録には,新聞について8月7日の項で記述がある。「差当リ大阪ヨリ拾万部,門司ヨリ拾五万部,松江ヨリ壱万弐千部配布方連絡シ明 八日ヨリ入荷ノ予定」。大阪,門司は朝日,毎日新聞の両大阪,西部本社を指す。「松江ヨリ」は島根新聞(現山陰中央新報) で 11 日から広島県北部に配布された。日本新聞百年史刊行委員会『日本新聞百年史』(同委員会,1960 年)922 頁
13)李 公は,朝鮮李王朝,純宗の義弟の子として生まれ,1945 年6月第二総軍教育参謀(中佐)に着任。被爆直後に運ばれた 似島の陸軍検疫所で7日死去した。松永英美『抗日―ハン・イル―日韓併合のかげに』(中国放送,1994 年3月 21 日放映) が李公の生涯を描いている。
14)被爆後の広島へ初めて届いた中国新聞8月9日付は,門司市(現北九州市)の毎日新聞西部本社が代行印刷した早版紙面。
15)梅野彪,田島賢祐『原子爆弾第1号 ヒロシマの記録写真集』(朝日出版社,1952 年)86-88 頁
16)中国新聞 2004 年3月 11 日付特集「ヒロシマの記録」。松重美人は「生き運があったから撮れた」という。出勤する途中に「ト イレに行きたくなり」再び帰宅したところで被爆。5枚の写真を撮影した後は,妻や重傷のめいを連れ,両親と長女を疎開させていた愛媛県・大三島に向かった。
17)松重美人が御幸橋で撮った写真が初めて報じられたのは,中国新聞社が別会社から発行した『夕刊ひろしま』1946 年7月6日付2面。連合国軍総司令部(GHQ)の日本占領が明けた 1952 年,『広島―戦争と都市』(岩波書店)や,前掲『原子爆弾 第1号』で使われたほか,『LIFE』1952 年9月 29 日号 19 頁が「米国で初公開」と掲載。同号は,被爆当時,中国新聞社企 画局で働いていた山田精三が府中町の水分峡入り口から撮った原子雲の写真も掲載。
18)前掲『1945 原爆と中国新聞』27 頁。妹,大本八千代の証言。吉田君三は戦後,郷里の廿日市町議を務めた。
19)朝日新聞西部版8月 22 日付2面トップには,吉田君三をはじめ,通信部岸田栄次郎,長崎に入った福岡総局員渡辺政明の現地ルポが載る。
20)広島の取材管轄は 1945 年2月,第二総軍の設置を控え大阪本社から西部本社に移っていた。朝日新聞西部本社『朝日新聞西部本社五十年史』(朝日新聞西部本社,1985 年)83 頁。
21)『朝日新聞西部本社編年史4』(朝日新聞社史編修室,1985 年)39-40 頁
22)毎日新聞大阪版8月 11 日付掲載の写真は,7日から臨時県庁が置かれ,缶詰類が運ばれる下柳町(現中区銀山町)の広島東警察署や,防空壕前で物資を受け取る女性市民の姿。国平幸男は 41 枚を撮影し,大阪本社が所蔵。
23)前掲『中国新聞八十年史』168 頁。中国軍管区参謀長の松村秀逸から「中国新聞の編集陣で,口伝隊を編成して,大本営発表 をやってくれ」と,使者の憲兵が伝えてきたという。松村(後に参議院議員)が『文藝春秋』1951 年8月号 66-85 頁に寄せた「原爆下の広島司令部―参謀長の記録」では口伝隊についての記述はない。
24)前掲の岸田栄次郎も口伝隊に参加した。「最後に必ず付けた『安心してくれ』が気休めでしかないのは,口伝隊のみんなも十分すぎるほど感じていた」と振り返っている。朝日新聞広島地方面 1987 年8月5日付
25)前掲『秘録大東亜戦史 原爆国内編』322 頁
26)政治学者の丸山真男は,陸軍船舶指令部で被爆した様子を 1969 年に語った中で,「八日にはピカドン,ピカドンと言いました」と振り返っている。中国新聞記者の林立雄が録音取材し,後に「丸山眞男と広島」(『IPSU 研究報告シーリズ No.25』広島大平和科学研究センター,1998 年)に証言全文を掲載。録音テープは長女林かおりが所蔵。中国新聞 2013 年3月4日付参照。
27)広島県『原爆三十年』(広島県,1986 年)99 頁
28)白井久夫『幻の声 NHK広島8月6日』(岩波書店,1992 年)126-127 頁。広島への攻撃に関するラジオ報道は「その夜,六時と九時の間に,なんらの説明もつけずにくりかえされた」が「NHK内に資料はみあたらない」。
29)朝日新聞大阪版は「西宮,広島暴爆」との3段見出しを付け掲載したが,東京版は4行1段の扱い,西部版では記事そのものが掲載されていない。
30)中国軍管区司令部は,大本営発表より早く7日正午,次のような発表をしていた。「一 八月六日八時十分頃敵B 29 四機は広島市上空において曳光高性能爆弾を投下せり 二 地上家屋に相当の被害ありたるも火災は同日夜概ね鎮火せり」。朝日新聞西部版 1945 年8月9日付。
31)大佛次郎『大佛次郎 敗戦日記』(草思社,1995 年)296 頁。8月7日の項に「よし子の話だと七時のニュウスで新型爆弾を使用しこれが対策については研究中と妙なことを云ったという」とある。
32)同盟通信社内情報局分室「(秘)敵性情報」(広島県『広島県史 原爆資料編』1972 年)653 頁
33)下村南海『終戦記』(鎌倉文庫,1948 年)97-98 頁。本名下村宏は朝日新聞社副社長や日本放送協会(現NHK)会長を経て情報局総裁を務めていた。
34)前掲『大佛次郎 敗戦日記』297 頁。大本営発表を載せた8月8日付朝刊を見て「例の如く簡略なもので『損害若干』である。今度の戦争でV一号とは比較にならぬ革命的兵器の出現だということは国民は不明のまま置かれるのである」と受けとめた。
35)広島では,中国新聞8月 12 日付(朝日新聞西部本社の代行印刷)で政府の抗議が報じられる。住友銀行広島支店の壁に張り出された紙面を見る市民の姿を撮った写真が残る。陸軍船舶司令部写真班員,川原四儀が撮影。
36)広島で「原子爆弾」の言葉が報じられたのは中国新聞8月 16 日付2面(朝日新聞西部本社の代行印刷)から。見出しは「非道狂暴の新爆弾」だが,記事には「残虐狂暴な新兵器原子爆弾は遂にわれらの戦争努力の一切を烏有に帰せしめた」とある。
37)理化学研究所の仁科芳雄は大本営調査団に同行して8月8日広島へ入る。一行は 10 日,広島陸軍兵器補給廠で開かれた陸海 軍合同検討会で「原子爆弾ナリト認ム」と結論づけた。新妻清一「特殊爆弾調査報告」1945 年8月 10 日(広島平和記念資料館)
38)「浅田常三郎メモ」(前掲『広島県史 原爆資料編』578-581 頁)。大阪帝大教授の浅田常三郎は大阪海軍調査団として8月 10日広島入りした。
39)朝日新聞東京版8月 16 日付には「ストツクホルム特電十四日発」は掲載されていない。
40)朝日新聞東京版8月 21 日付などに掲載された。
41)前掲「浅田常三郎メモ」に「同盟中田報道班員」の名前が残る。中田左都男は少なくとも 32 枚の写真を撮影。広島の廃虚や山陽線神田川鉄橋で脱線した貨物列車などの写真が各紙で使われた。一連の経緯は中国新聞 2006 年9月 24 日付特集「ヒロシマの記録―埋もれていた同盟の報道写真」に詳しい。
42)原爆開発「マンハッタン計画」に携わった Harold Jacobson が「広島はほぼ 75 年の間,荒廃の地となるだろう」と述べたことをINS通信が7日,ニューヨーク発で報じた。『Atlanta Constitution』1945 年8月8日付を参照
43)阿川弘之『亡き母や』(講談社,2007 年)17 頁。中国湖北省漢口で敗戦を迎えた広島市出身の阿川(当時,海軍中尉)は「邦人向けの『大陸新報』始め,華字紙も英字紙も,広島は残留放射能の爲今後七十五年間生物の生存が不可能になった,と大見出しで報じていた」と振り返っている。
44)小倉豊文『絶後の記録』(中央社,1948 年)。文庫版(中央公論社,1982 年)196 頁。広島文理科大助教授だった小倉は,被
爆 13 日後に死んだ妻文代あての手紙形式で,広島の不毛説に「俺だって人知れず心配したし,ことに(息子の)謹二の健康
には随分神経過敏になったよ」と記述。
45)山本朗「胸に燃ゆる・あの日の気持ち」(日本新聞公社『日本新聞報』1945 年 10 月2日付,日本新聞協会)
46)前掲『中国新聞八十年史』171 頁は被爆後の自力発行は8月 31 日付とし,柳田邦男『空白の天気図』(新潮社,1975 年)155頁も「八月三十一日付紙面から再刊にこぎつけた」とあるが,中国新聞社や広島市立中央図書館がマイクロフィルムで所蔵 する8月 31 日付は朝日新聞西部本社の代行印刷。『中国新聞百年史』(中国新聞社,1992 年)200 頁は「九月三日に第一号」 としている。
47)James C. McNaughton, Nisei Linguists: Japanese Americans in the Military Intelligence Service during World War II (Washington DC: Department of the Army,2006)P.436 MIS(陸軍情報部)に所属した Thomas Sakamoto が「米国人特派員たちをエスコートした」。同書には「9月9日」とあるが,記者団は「9月3日」に日帰りで広島に入った。
48)Foreign Correspondents’Club of Japan, 20 Years of History:1945-1965(Tokyo: Foreign Correspondents’Club of Japan, 1965), pp.14-16. 日本外国特派員協会の『20 年史』は,Leslie Nakashima による記事を「西洋で報道された初の広島ルポ。タイムが 45 年夏に特電を引用した」と紹介し,全文を掲載。特電の一部は『TIME』9 月 10 日号 58 頁で引用されている。
49)前掲『広島昭和二十年』224-225 頁。大佐古は「彼らの立派な服装やアイモなどに比べると,われわれはよれよれの国民服に地下足袋,巻き脚絆といういでたち,カメラは誰も持っていない」と会見の様子を表している。
50)W.H.Lawrence による「広島9月3日発(遅延)」記事は1面と4面に掲載されている。
51)Wilfred Burchett の記事が海外への広島現地ルポ第1報と,研究書でも扱われているが,Leslie Nakashima のルポ掲載が早い。今堀誠二『原水爆時代―現代史の証言(上)』(三一書房,1959 年)によるバーチェットの記事紹介から定着したとみられる。 同著 143 頁は「連合軍記者の書いた最初の原爆報告」としているが,ナカシマの記事の言及はない。『DAILY EXPRESS』9 月5日付は広島県立文書館が所蔵。
52)FIRST PICTURES INSIDE BOMB BLASTED JAPAN 1945. 広島へ9月3日入った米従軍記者団カメラマンが撮った動画は ニュース映画 United News で使われ,「人口 34 万の広島は一発の爆弾で4マイル四方が壊滅した。この原爆は科学の産物で あり,日本が世界にもたらした恐怖と侵略に対する返答である」とのナレーションが付く。米国立公文書館所蔵。請求番号 は ARC Identifier 39080/Local Identifier 208-UN-172.
53)広島平和記念資料館『宮武甫・松本栄一写真展-被爆直後のヒロシマを撮る』(広島平和記念資料館,2006 年)3頁。宮武は 121 枚を撮影。後に『アサヒグラフ』1952 年8月6日号が「原爆被害の初公開」と題し,宮武撮影の4枚を載せたが,治療 を受ける少年や重傷の兵士の2枚は大阪版 1945 年9月4日付で掲載。東京版は未掲載。西本雅実「原爆記録写真~埋もれた 史実を検証する」(『広島平和記念資料館資料調査研究会研究報告』第4号,2008 年)7頁
54)笹本征男『米軍占領下の原爆調査』(新幹社,1995 年)52 頁。
55)『Atlanta Constitution』1945 年8月8日付
56)『New York Times』8月9日付
57)前掲『20 Years of History:1945-1965 』P.14-16
58)「地面に染み込んだウラニウムの影響で人々が病気になるとの警告があり,破壊された地域への復帰を遠ざけている」「何千という中学生の男女も犠牲となり,行方不明者の数は驚くばかりである」。放射線急性障害や,非戦闘員の犠牲に言及した記 述は削られ,「米国の科学者たちは,原爆は壊滅した地域に長期に影響を与えないと言っている」と原文にない記述が付け加 えられている。『New York Times』8月 31 日付。レスリー・ナカシマの半生は,中国新聞 2000 年 10 月5日付1面と特集, 6-12 日付連載「ヒロシマ打電1号」に詳しい。
59)国際赤十字社駐日代表のマルセル・ジュノーは約 15 トンの医療品を携え広島へ入った。
60)写真家菊池俊吉が 10 月中旬に撮ったカットに「爆弾症のお灸 河野鍼灸院」が写る。菊池は,文部省が編成した「原子爆弾災害調査研究特別委員会」に同行した日本映画社の記録映画製作でスチールを担当。
61)小山綾夫「私と原爆」(『広島市医師会だより』1981 年8月号特集「私と原爆)。広島逓信病院医師だった小山は,「数十回の血便が出る」患者は「赤痢以外のものは考えられない」「隔離」されたと記している。
62)『New York Times』1945 年9月 13 日付
63)朝日新聞東京版,西部版は休刊となったが,同じ記事を載せた大阪版9月 19,20 日付は発行されている。
64)山本武利『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』(岩波書店,2013 年)63 頁。「10 月8日に日比谷市政会館に検閲要員が進駐して在京の大手新聞と通信社が同一場所で新聞・通信課によって検閲されるようになった」。
65)中国新聞は,1945 年9月 17 日,広島県内だけで死者 2,012 人を数えた枕崎台風の襲来で温品工場が被害を受け,同 18 日付から休刊。再び朝日新聞大阪本社の代行印刷紙面となる。自力印刷・発行の再開は,焼け跡の本社へ復帰した 11 月5日付から。山本朗『信頼』(中国新聞社,2012 年)85-94 頁
66)有山輝雄「占領軍検閲体制の成立―占領期メディア史研究」(成城大学文芸学部『コミュニケーション紀要』,1994 年3月)44 頁
67)前掲『中国新聞八十年史』185 頁。中国新聞社は『夕刊ひろしま』を受託印刷し,社員 31 人を出向。1948 年 12 月1日からは『夕刊中国』,1950 年 10 月1日からは『夕刊中国新聞』,1952 年 10 月1日から本紙の夕刊となった。
68)中国新聞 1946 年6月 27 日付。「原子弾戦災一周年」本社主催事業として論文を募り,171 編が寄せられた。1等は「原爆詩集」で後に知られる峠三吉の「一九六五年のヒロシマ」。8月2- 4日付で3回にわたり掲載。
69)広島商工会議所,県貿易協会と中国地方貿易産業博覧会を8月5日から商議所で開いたほか,6日夕は「広島県盆踊り大会」を新天地広場で開催。
70)マッカーサーのメッセージは「あの運命の日の諸君の苦悩は,凡ての民族の凡ての人々に対する警告として役立つ」などとした。広島市『広島新史 資料II』(広島市,1982 年)401 頁
71)GHQが広島復興を支持したことに,米山リサは「自分たちの利益を促進されると判断した」とみる。「原爆と平和の概念を結合することによって」「戦争を終結させるには原爆の使用は不可避であったと」する「利益」である。『広島 記憶のポリティクス』(岩波書店,2005 年)28 頁
72)前掲『中国新聞八十年史』176 頁
73)松江澄『ヒロシマの原点へ』(社会評論社,1995 年)137-138 頁。「平和擁護広島大会」の宣言は「広島と日本の初めての原爆廃棄要求となった」。大会を仕掛け,議長団の1人を務めた松江は当時,中国新聞で社説を担当し,広島県労働組合協議会会長でもあった。
74)御幸橋で撮った2枚と山田精三による原子雲との3枚を掲載。
75)前掲『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』86 頁
76)日本新聞協会『新聞協会報』1950 年7月 31 日付。解雇理由は,マッカーサーが7月 18 日,共産党機関紙アカハタの無期限発行停止を首相吉田茂に命じた書簡に基づくとされた。
77)新聞・通信・放送での解雇者総数は 50 社・704 人に上った。梶谷善久『レッドパージ』(図書出版社,1980 年)75 頁など。
78)前掲『信頼』109-112 頁。新聞協会事務局長が広島を訪れ,レッドパージによる解雇は「日本の法律の外に置かれている」と説明したという。
79)宇吹暁『平和記念式典の歩み』(広島平和文化センター,1992 年)22-23 頁
80)米軍航空士 24 人は中国新聞社,広島県,広島市の招請により参列し,米 CBS テレビ班が同行した。中国新聞 1951 年8月7日付
81)『アサヒグラフ』1952 年8月6日号は「増刷四回で計七十万部が売れた」。『朝日新聞社史 昭和戦後編(』朝日新聞社 1994 年)155 頁。撮影者名は明記されていないが,陸軍船舶司令部写真班員だった尾糠政美が被爆翌日に向かった似島で撮った全身やけどの兵士や女性の写真を冒頭に掲載している。
82)前掲『廣島―戦争と都市』や『原爆第1号 ヒロシマの記録写真』は,松重美人や小糠政美,日本映画社の原爆記録映画製作でスチール写真を担当した林重男,菊池俊吉らの写真を掲載。
83)『世界』1952 年8月号には大田洋子が「広島から来た娘たち」を,『婦人公論』同には芹沢光治良が「原爆の娘たちを救え」を寄稿。
84)『改造』1952 年 11 月増刊号は,物理学者武谷三男の「生き残った 12 万人」とのルポを巻頭に収録している。
85)長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』(岩波書店,1951 年)を素材にした映画「原爆の子」に続き,翌 1953 年には「ひろしま」(関川秀雄監督)が製作された。両映画は海外でも公開され,「原爆の恐ろしさを世界に訴える糧となった」。前掲『原爆三十年』214 頁
86)1952 年8月6日の平和記念式典では,原爆で親を失った児童・生徒5人が平和記念公園に建立された原爆慰霊碑を除幕した。中国新聞社『検証ヒロシマ』(中国新聞社,1995 年)41 頁
87)「8・6世界大会準備ニュース《世界大会最終報告》」『原水爆禁止運動資料集』第2巻(緑蔭書房,1995 年)364-365 頁
88)「中国新聞社報」1962 年9月1日付によると,原爆企画は「政治部が担当する不文律になっていたが」「広島県知事選,参院選と続いたため,社会部におハチが回ってきた」。「ヒロシマの証言」を担った浅野温生は,それまで本格的な企画がなかっ たのは「原爆の傷や影は社内でも身近にあり,驚きや感心をあまり持っていなかったせい」とみる。浅野自身は広島二中(現 観音高)2年の夏に被爆したが,体験を口にすることはなかったという。「1本書くのに 10 数回足を運んだ」取材に基づく 連載は反響を呼ぶ。広島「折り鶴の会」が連載記事を全国の平和団体へ送ろうと呼び掛けると,約1万の古新聞や切り抜き が集まった。中国新聞 1962 年8月 27 日付
89)金井利博は 1968 年には原爆被災資料広島研究会をつくり,会は『原爆被災資料総目録』第1- 3集を刊行。『核権力―ヒロシ マの告発』(三省堂,1970 年)も著した。
90)「炎の系譜」を執筆した平岡敬(1991 ~ 99 年広島市長)は,「中国新聞の原爆・平和報道が形づくられたのは金井利博さんと 兼井亨さんの存在が大きかった」と語る。兼井は「ヒロシマの証言」を社会部長,「ヒロシマ二十年」を編集局次長として実 現させた。平岡は社会部記者時代の 1965 年 11 月,国交回復直後の韓国を訪れ,同月 25 日- 12 月4日付で「隣の国・韓国」(10 回)を連載。「〝ヒロシマ〟と〝韓国〟を重ね合わせて,そこからよみとらねばならないものは,おそらく日本人自身の問題 であろう」と,放置されていた在韓被爆者援護の必要性を訴えた。平岡の半世紀前近くの問題提起は,日本の植民地支配と 戦争責任にとどまらず,「唯一の被爆国」と唱えながら核軍縮にあいまいな態度を取り続ける歴代政府,今日のメディアの言 説をも厳しく問い掛けている。
91)中国新聞 1965 年9月 11 日付
・阿川弘之『亡き母や』(講談社,2007 年)
・朝日新聞社『アサヒグラフ』(朝日新聞社,1952 年8月6日号)
・朝日新聞西部本社『朝日新聞西部本社五十年史』(朝日新聞西部本社,1985 年)
・朝日新聞西部本社『朝日新聞西部本社編年史4』(朝日新聞社史編修室,1985 年)
・朝日新聞百年史編集委員会『朝日新聞社史 昭和戦後編』(朝日新聞社 1994 年)
・今堀誠二『原水爆時代―現代史の証言(上)』(三一書房,1959 年)
・岩波書店編集部『広島―戦争と都市』(岩波書店,1952 年)
・宇吹暁『平和記念式典の歩み』(広島平和文化センター,1992 年)
・梅野彪,田島賢祐『原子爆弾第1号 ヒロシマの記録写真集』(朝日出版社,1952 年)
・大佐古一郎『広島昭和二十年』(中央公論社,1985 年)
・小倉豊文『絶後の記録』(中央社,1948 年)文庫版(中央公論社,1982 年)
・長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』(岩波書店,1951 年)
・大佛次郎『大佛次郎 敗戦日記』(草思社,1995 年)
・梶谷善久『レッドパージ』(図書出版社,1980 年)
・金井利博『核権力―ヒロシマの告発』(三省堂,1970 年)
・笹本征男『米軍占領下の原爆調査』(新幹社,1995 年)
・重富芳衛『らくがき随筆』(毎日広告広島支社,1956 年)
・下村南海『終戦記』(鎌倉文庫,1948 年)
・白井久夫『幻の声 NHK広島8月6日』(岩波書店,1992 年)
・田村吉雄編『秘録大東亜戦史 原爆国内編』(富士書苑,1953 年)
・中国新聞社『証言は消えない 広島の記録1』『炎の日から 20 年 広島の記録2』(未来社,1966 年)
・中国新聞社史編纂委員会『中国新聞八十年史』(中国新聞社,1972 年)
・中国新聞社史編さん室『中国新聞百年史』(中国新聞社,1992 年)
・中国新聞社『検証ヒロシマ』『年表ヒロシマ』(中国新聞社,1995 年)
・中国新聞社『1945 原爆と中国新聞』(中国新聞社,2012 年)
・日本新聞百年史刊行委員会『日本新聞百年史』(日本新聞百年史刊行委員会,1960 年)
・広島県『広島県史 原爆資料編』(広島県,1972 年)
・広島県『原爆三十年』(広島県,1986 年)
・広島市『広島原爆戦災誌 第三巻』(広島市,1971 年)
・広島市『広島新史 資料II』(広島市,1982 年)
・広島平和記念資料館『宮武甫・松本栄一写真展-被爆直後のヒロシマを撮る』(広島平和記念資料館,2006 年)
・広島放送局 60 年史編集委員会『NHK広島放送局 60 年史』(NHK広島放送局,1988 年)
・毎日新聞社『「毎日」の3世紀 上巻』(毎日新聞社,2002 年)
・松江澄『ヒロシマの原点へ』(社会評論社,1995 年)
・柳田邦男『空白の天気図』(新潮社,1975 年)
・山本武利『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』(岩波書店,2013 年)
・山本朗『信頼』(中国新聞社,2012 年)
・米山リサ『広島 記憶のポリティクス』(岩波書店,2005 年)
・有山輝雄「占領軍検閲体制の成立―占領期メディア史研究」(成城大学文芸学部『コミュニケーション紀要』,1994 年3月)
・大下春男「歴史の終焉」(『秘録大東亜戦史 原爆国内編』富士書苑,1953 年)
・大田洋子「広島から来た娘たち」(『世界』岩波書店,1952 年8月号)
・小山綾夫「私と原爆」(『広島市医師会だより』1981 年8月号特集)
・芹沢光治良「原爆の娘たちを救え」(『婦人公論』中央公論社,1952 年8月号)
・武谷三男「生き残った 12 万人」(『改造』改造社,1952 年 11 月増刊号)
・中国新聞社「中国新聞社報」1945 年4月 10 日付,1962 年9月1日付
・堂添慶瑞,小林経明「原爆死証明書」(『新聞通信調査会報』412 号,1997 年)
・同盟通信社内情報局分室「(秘)敵性情報」(広島県『広島県史 原爆資料編』1972 年)
・中村敏「広島原爆投下後の四十八時間」(『新聞研究』193 号,1967 年)「曼珠沙華―原子雲の下の広島」(『秘録大東亜戦史 原爆国内編』富士書苑,1953 年)
・西本雅実「原爆記録写真~埋もれた史実を検証する」(『広島平和記念資料館資料調査研究会研究報告』第4号,2008 年)
・林立雄「丸山眞男と広島」(『IPSU 研究報告シーリズ No.25』(広島大平和科学研究センター,1998 年)
・松村秀逸「原爆下の広島司令部―参謀長の記録」(『文藝春秋』文藝春秋社,1951 年8月号)
・新妻清一「特殊爆弾調査報告」1945 年8月 10 日(広島平和記念資料館)
・日本新聞協会「新聞協会報」1950 年7月 31 日付(日本新聞協会)
・広島県「広島市空爆直後ニ於ケル措置大要」1945 年8月6-21 日(広島市公文書館)
・森川寛日記「兎糞録」1945 年8月6日の項(森川高明所蔵)
・山本朗「胸に燃ゆる・あの日の気持ち」日本新聞公社『日本新聞報』1945 年 10 月2日付(日本新聞協会)
・「8・6世界大会準備ニュース《世界大会最終報告》」『原水爆禁止運動資料集』第2巻(緑蔭書房,1995 年)
・Foreign Correspondents’ Club of Japan, 20 Years of History:1945-1965(Tokyo: Foreign Correspondents’ Club of Japan,1965)
・James C. McNaughton, Nisei Linguists: Japanese Americans in the Military Intelligence Service during World War II
(Washington DC: Department of the Army,2006)
・“When Atom Bomb Struck: Uncensored,”Life, 29 September 1952