Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1コラム:広島カープ――市民の球団,復興の道標
はじめに
広島の象徴は何か―広島県民は,世界遺産の原爆ドームと宮島(嚴島神社),広島カキやお好み焼に加え,広島交響楽団とサンフレッチェ広島,そして広島カープという3大プロの存在も外せない,と考えている1)。このうちもっとも古い歴史を有するのが広島カープ(正式名称は「広島東洋カープ」)だ。
1 市民の球団
戦前から広島商業をはじめ全国大会で優勝するほどの強豪校を擁し,戦後再開したプロ野球の広島での興行時には球場が超満員となる盛況を呈するなど,広島県民にとって野球は人気のスポーツだった。プロ野球界が昭和25(1950)年から2リーグ制に再編される機会を捉えて広島もリーグ加盟に名乗りを上げ,1月15日にカープ発会式を挙行,3月10日に初試合を行う。「カープ(Carp鯉)」の名が選ばれたのは,広島の太田川で「出世魚」の鯉がたくさん採れたこと,毛利輝元が築城した広島城が「鯉城」と呼ばれたことなどによる2)。
他球団と違って,カープは親会社を持たず,広島市と広島県など自治体の出資によって誕生し,市民,県民が自ら株主となって基金を集め,この郷土のチームを支えた。結成当初から深刻な財政難に見舞われたが,市民は郷土のチームを支援すべく,職場に後援会を立ち上げ,あるいは球場前に置かれた日本酒の四斗樽(広島には造り酒屋が多かった)に募金をしてチームの窮状を救った3)。カープが「市民の球団」と呼ばれる所以である。
2「戦争の影」を背負って
黎明期に活躍したカープの選手のなかには,「戦争の影」を背負った広島出身者が少なくない。たとえばハワイ日系移民の銭村健四は,兄の健三と一緒に昭和28(1953)年にカープに入団したが,彼は太平洋戦争中,家族とともにアリゾナ州の日系人強制収容所に抑留された苦い経験を持っていた。郷土の人たちから熱烈な歓迎を受けてカープに入団した銭村健四は,外野の守備や走塁で鳴らし,同29年7月のオールスター・ゲームにも監督推薦で出場している4)。
カープにはまた,広島で被爆体験を持つ選手も含まれていた。原田高史もその一人で,13歳の時に皆実町で勤労作業中に原子爆弾に襲われた。顔や手足に火傷を負った彼が当時着ていた服は,今も広島平和記念資料館に保管されている5)。
3 親善大使として
カープ初の海外遠征はフィリピンだった。チーム結成4年目,昭和29(1954)年1月のことだ。フィリピンは太平洋戦争中,日本軍に占領され,甚大な被害を受けており,対日感情が厳しかった。前年の28年,マニラ近郊の刑務所で服役していた100人余りの日本人戦犯(約半数は死刑囚)がフィリピン大統領の恩赦で釈放されるなど,友好ムードの兆しこそ見えたが,依然として「フィリッピン人の反日感情は強い,といわれている中で敢行された遠征であった6)」。
この遠征は松本瀧蔵(広陵野球部OBで,戦前にフィリピン大学教授を務めた)がフィリピン側に打診した結果,実現したものだ7)。昭和29年の1月16日から31日までマニラのリサール記念野球場で計12試合が行われ,このうちカープは11試合に勝利を収めた。現地の新聞は「被爆都市広島から来たカープ」の試合を連日のように報じた。「日本の親善大使たち」と現地紙で評されたカープは,試合を通じてフィリピン国民にプロとしての落ち着きを示した8)。ラモン・マグサイサイ大統領はじめ,カープの選手と接したフィリピン人は彼らを温かくもてなし,選手たちに「好印象を与えてくれた9)」。カンルーバン・シュガー・バロンズとの最終戦(1月31日)の終了後,帽子を振って別れの挨拶をするカープの選手たちに,フィリピンの観衆は温かい拍手を送った。
4 復興のシンボル
「原爆被災の跡が,まだあちこちに残って」いたころに誕生したカープは10),広島の復興のシンボル的存在だった。昭和32年(1957)年7月,原爆ドームに対峙する位置に,広島で初のナイター設備を備えた広島市民球場が完成し,24日に初ナイターが行われた11)。ただ,チームは長く下位に甘んじ,球団創設から18年間,Bクラスにとどまった。そんなカープを支えたのはファンの熱意であり,昭和30年代後半に広島を訪れた作家・大江健三郎も,「昨夜のカープの試合の噂に夢中」なタクシー運転手の姿を著書『ヒロシマ・ノート』に書き留めている12)。
昭和49(1974)年10月,メジャーリーグでのコーチ経験を持つジョー・ルーツが監督に就任し(プロ野球界初のアメリカ人監督でもあった),帽子とヘルメットを「戦う色」の赤に変える。カープは翌50年のペナントレースで「赤ヘル」旋風を巻き起こし,10月15日の対巨人戦で勝利を収め,初のリーグ優勝を果たす。球団創設26年目にして念願の初優勝,創設時代から積み上げてきた野球が花開いた瞬間であった。
被爆直後に誕生したカープは,広島の復興とともに歩んだ地元スポーツの代表,地域密着型プロスポーツの先駆けだ。平和への思いを表すべく,チームは平成20(2008)年から「8月6日」にもっとも近い日の広島での試合を「ピースナイター」とし,被爆体験を次世代に継承する努力を始めている。
(永井均)
注
1)広島県「平成 19 年度第1回広島県政モニターアンケート調査の結果」 http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kenseiiken1184907357815.html(2014 年1月 16 日アクセス)。
2)中国新聞社編『広島東洋カープ球団史』(広島東洋カープ,1976 年)173 頁。
3)西本恵『広島カープの昔話・裏話』(トーク出版社,2008 年)84-91 頁。
4)Bill Staples, Jr., Kenichi Zenimura: Japanese American Baseball Pioneer(North Carolina: McFarland & Company, Inc., Publishers, 2011), pp. 116, 197-200;『朝日新聞』1954 年6月 30 日付。
5)前掲,西本『広島カープの昔話・裏話』198-205 頁。「地獄の記憶をふりきるように野球にのめり込んだ日々」(『アサヒ グラフ』第 2930 号,1979 年8月 17 日)23 頁。「平和データベース」http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/detail. do?data_id=52597(2014 年1月 23 日アクセス)。
6)白石勝巳『背番号8は逆シングル』(ベースボール・マガジン社,1989 年)196 頁。
7)同前,197-199 頁。
8)Manila Bulletin, 23, 30 Jan. 1954; 前掲『広島東洋カープ球団史』327 頁。
9)山川武範「日比親善の旅―フイリッピン紀行」(『ベースボール・マガジン』第9巻第3号,1954 年3月)73 頁。
10)堀内慧子氏の回想による(前掲『広島東洋カープ球団史』348 頁)。
11)広島市民球場は,老朽化のために平成 22(2010)年9月をもって閉鎖され(カープ最後の試合は平成 20 年9月 28 日), 平成 24 年にライトスタンドの一部を残して解体された。平成 21 年3月,広島駅近くに新しい球場「MAZDA Zoom- Zoom スタジアム広島」,通称「マツダスタジアム」が完成し,同シーズンからカープの本拠地として使われている。
12)大江健三郎『ヒロシマ・ノート』(岩波新書,1965 年)46 頁。