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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1I 平和行政

1 平和行政の萌芽―広島市平和祭-

(1)戦災死没者一周年追悼会

原爆を生き延びた広島の市民は,まず肉親や知人の消息捜しと死者への慰霊に取り組んだ。被爆の翌年昭和21(1946)年5月,広島市は,供養週間を設け,各町会の協力のもとに遺骨収集を実施した。最終日には西本願寺の大谷光照法主を迎えて,建設中の供養塔前において戦災死没者収骨供養法会を挙行した。さらに一周年目の8月6日には広島市・宗教連盟広島県支部・広島市戦災死没者供養会による戦災死没者一周年追悼会が午前6時半から約6時間にわたり挙行された。以後毎年欠かさず挙行されることになる各宗派共同の追悼行事の始まりであった。なお,広島市は,この日の午前8時15分に,黙とうをするよう市民に呼びかけている。

(2)日本国憲法をめぐる広島の動向

日本政府は,昭和21(1946)年4月17日,憲法改正草案の全文を発表した。11月3日には日本国憲法が公布され,翌昭和22年5月3日から施行されることとなった。広島では新憲法の平和主義に共鳴するさまざまな動きが現れた。

広島市町会連盟は,昭和21年4月,平和復興祭を計画し,広島市にその旨を申し入れた。また,6月28日には,広島県商工経済会と広島市本通商店街復興協議会が,世界平和記念祭のプログラムを作成し,広島市に建議している。広島市は,こうした市民の声に呼応して,7月初め,8月6日を中心に平和復興祭を開催することを計画した。その意図は「8月6日を戦争放棄世界平和の記念日として後世に伝えるとともに文化的平和都市として再建に努力する市民に希望を与える」(『中国新聞』7月6日)ことにあった。

昭和22年8月6日,平和祭が,広島平和祭協会(広島市役所・広島商工会議所・広島観光協会の三者が発起人となり6月20日設立)主催により開催された。占領軍も好意的で,マッカーサー元帥が長文のメッセージを式典に寄せた。9月に長田新(広島文理科大学学長)・長谷信夫(医師)ら在広文化人が設立した日本文化平和協会は,平和祭が「恒久平和」をスローガンとする年一回のお祭りであるとすれば,「恒久平和の研究と実現とに寄与することを主要な使命」(『恒久平和論』長田の序)とする活動組織であった。また,広島平和記念都市建設法(昭和24年8月6日施行)は,新憲法に寄せる被爆地の思いを,国民の意思として法律の形式に高めたものといえよう。こうした一連の動向が示しているように,広島では都市復興のスタート時点で,憲法の平和主義が強く意識されていたのである。

(3)平和祭の展開と挫折

平和祭開催の趣旨は,「被爆市民の平和への意志を全世界に公表」(『原爆市長』),「平和の息吹で原子砂漠をおおう」(『中国新聞』昭和22(1947)年6月21日),「パリ祭になぞらえて8月6日を世界平和が蘇った日として永劫にメモライズする」(『中国新聞』6月22日)などと表現されている。広島市は,昭和22年7月31日,「毎年8月6日は,本市の平和記念日として市役所事務を休停する」との条例(「広島市役所事務休停日条例」)を制定し,市役所あげて8月6日を迎えることとした。これに呼応するかのように,アメリカ北部バプテスト連盟の人びとによる「8月6日=世界平和デー」の呼びかけがなされ,昭和23年4月18日には,世界26か国の発起人により世界平和デー委員会が組織された。そして,同委員会による第一回世界平和デーの行事が,8月6日に世界の各地で挙行された(広島平和協会『「平和と広島」に関する国外からの書簡第一輯』)。さらに,昭和24年2月1日,広島市議会は,「8月6日を平和の日として国民の祝祭日に加えられるよう要望の件」を決議した。

平和祭の式典にマッカーサー連合軍最高司令官・英連邦軍総司令官・米軍政部長,総理大臣・衆参両院議長などがメッセージを寄せた。式典の模様は,JOFK(NHK広島),式典の模様を実況放送するとともにJOAK(東京)を通じて米国に中継(日本の戦後初の国際放送),INS,CBSなどの米国の放送会社やユナイト,日映,時事などのニュース映画会社が取材した(『中国新聞』8月7日)。

広島側からも国内外からの関心に応じる,あるいは関心を高める行動が取られていた。全国の戦災都市へ送る平和記念樹苗の伝達(第1回)や全国のさまざまな人びとに対する式典参加の要請である。昭和25年の広島市の案内状発送先の予定は,占領軍関係者,内閣総理大臣,衆参両院議長,国務大臣(15人),衆議院議員(453人),参議院議員(256人),県会議員(57人),市会議員(38人),商工会議所議員(69人),各都道府県知事(46人),全国都市長(233人),県内市町村長(347人),在広新聞社(19人),市戦災孤児収容所(6人),市政功労者(23人),県下市会議長(5人),合計1,567人となっていた(『広島新史資料編II』)。

式典の内容は,翌年以降,年々充実しており,昭和25年に開かれる予定の平和祭(第4回)は,それまでで最も充実した行事となるはずであった。しかし,6月の朝鮮戦争勃発により,開催直前に中止が決まった。これは,8月2日の広島平和協会常任委員会での報告によれば,「[中国地方]民事部ならびに国警本部県管区本部長,市警本部長との交渉」(同委員会記録)の結果なされた決定であった(『広島新史資料編II』)。

2 平和記念式典の展開

(1)慰霊と平和

昭和26(1951)年の式典は,8月6日7時30分から10時まで戦災供養塔前広場で開催された。それまでの平和祭の式次には,慰霊の要素はみられなかった。ところが,昭和26年には,「賛美歌合唱,献花,焼香,玉串礼拝」が加えられた一方で,平和宣言の代わりに市長の挨拶があったにとどまり,式典の雰囲気は慰霊祭に近いものであった。また,中国新聞社と広島県・市は,アメリカ空軍岩国基地の要請により,朝鮮戦争に50回以上出撃したパイロット20数人を式典に招待していた。また,岩国基地所属の飛行機から花輪が投下され,霊前に供えられた。なお,この年は,原爆死没者の7回忌に当たり,さまざまな団体によって8月6日に向けて多くの慰霊祭が開催された。

昭和26年9月9日,サンフランシスコで対日講和条約が調印され,翌昭和27年4月28日発効した。独立後初の平和式典は,平和記念公園内に新設された原爆死没者慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)前広場で午前8時から1時間開催された。式次には慰霊碑除幕のほか広島市原爆死没者名簿奉納があった。また,この年に復活した平和宣言には,「尊い精霊たちの前に誓う」という原爆死没者との関係を示す言葉が盛り込まれた。平和祭式典には,もともと慰霊の要素はなかったが,これ以後,式典は,「慰霊」と「平和」という二つの性格を持つようになっている。

(2)平和宣言

平和式典のなかで市長が読み上げる宣言の主体は,慣例として,市長個人ではなく,「広島市民の代表としての広島市長」あるいは「被爆体験を持つ広島市民の代表としての広島市長」であった。たとえば「,われら広島市民」(昭和22(1947)年),「原爆を体験したわれわれ」(昭和30年)という表現が用いられている。ところが,平成3(1991)年の宣言は,「平和への不断の努力を市民の皆様とともにお誓いする」と結ばれている。英文では,この主語は,「We」ではなく,「I」であり,市長個人が主体として宣言に登場した初めての例であった。

昭和22年と23年の宣言は,最後をそれぞれ「,ここに平和塔の下,われらはかくの如く平和を宣言する」,「戦災3周年の歴史的記念日に当り,我等はかくの如く誓い平和を中外に宣言する」と結んだ。当初の宣言は,このように自らの誓いを内外に明らかにするということを目的としていた。ところが,昭和26年以降,宣言の対象が,具体的に文面に表現されるようになった。昭和26年には,「犠牲者の霊を慰めるとともに〔略〕平和都市建設の礎とならんことを誓うものである」と結んでおり,慰めの対象として「犠牲者の霊」が現れた。また,翌昭和27年には「〔略〕尊い精霊たちの前に誓うものである」と結び,「精霊」が宣言の対象の一つとして明確に表現された。さらに,昭和29年には,宣言の対象として「全世界に訴える」という表現が使用された。これ以後,宣言の中には,この三つの要素(「誓い」,「慰霊」,「世界への訴え」)が,常に盛り込まれるようになった。

昭和22年の平和宣言には「(原爆被害)によって原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめた」との文言がある。この人類破滅観は,ニュアンスの差はあるものの,その後の宣言の中に一貫して盛り込まれてきた。平成3年の宣言の中では,それは,「ヒロシマはその体験から,核戦争は人類の絶滅につながることを知り……」と表現されている。人類破滅観は,当初は将来の可能性として取り上げられていた。しかし,ビキニ水爆被災事件を経験した昭和29年の宣言では,「今や……滅亡の脅威に曝されるに至った」と,現在の可能性として表現された。また,当初人類絶滅観に基づいて訴えられたのは,絶対平和の創造・戦争放棄などであったが,昭和33年以降,核兵器禁止を訴え続けている。

広島の原爆被害の表現形式は,時代とともに変化している。昭和22年の宣言は,被害を都市の壊滅と大量死の二つの要素で把握しているが,昭和28年の宣言では,それを「原爆下の惨状」と表現し,新たに「原子爆弾が残した罪悪の痕は,いまなお,消えるべくもなく続いている」と原爆の後遺症を付け加えた。

(3)参列者

式典の参列者数は,昭和28(1953)年までは,数千人規模であった。しかし,昭和29年には参加者は約2万人を数え,以後数万人の参列が恒例となった。参加者数が数千から数万に飛躍したのは昭和29年から毎年8月6日前後に,広島市内で全県的あるいは全国的規模の原水爆禁止大会が開催されるようになり,これらへの参加者が式典に参列したためであった。

政府は,この式典に,当初から関心を示している。初期の段階では,総理大臣として式典にメッセージを寄せ,地元選出の国会議員・閣僚が総理代理を務めた。ところが,1960年代半ば以降,閣僚の参列が見られるようになり,昭和46年には,佐藤栄作総理自らが初めて式典に参列した。このほかに,昭和54年からはこの式典に国庫から補助金が支出されるようになった。昭和56年からは,全国の各都道府県から毎年一人ずつ原爆犠牲者の遺族代表を式典に招聘する国の補助金制度が始まった。以上のような式典の変遷から,式典が,被爆10周年ごろに一地方行事から全国的規模のものに飛躍し,被爆20周年以降,国家的行事としてしだいに定着した様子を知ることができる。

昭和35年には皇太子(現天皇)の式典への参列が見られた。この年の式典に初めて参列した大江健三郎は,その直後に「この体験の重みはしだいに大きくなり僕を深く支配するであろう」と記している。有名な『ヒロシマ・ノート』は,昭和38・39年の広島での体験を中心にまとめたものである。

昭和30年の原水爆禁止世界大会(第1回)には,14か国52人の海外代表が参加していた。この大会のプログラムでは平和式典参列が存在しており,以後,大会参加者の式典参列が恒例となった。山田節男市長は,昭和42年の平和式典に,世界の著名人を式典に招く構想を明らかにしたが,在任中に,この構想が具体化することはなかった。この構想は,次の荒木武市長により,国連関係者の参列という形で実現される。1970年代半ばから,非同盟諸国や国際的な平和団体は,核軍縮への関心を高め,そのイニシアティブを国連に求めるようになっていた。広島・長崎両市長も,昭和51年12月,国連本部を訪問し,ワルトハイム事務総長とH・S・アメラシンゲ国連総会議長に核兵器廃絶への措置を要請した。さらに,両市長は,翌年の式典への招請状を発送した。こうした両市の働きかけに応え,この年の式典には,アメラシンゲ総会議長と国連事務総長代理(M・クラーク国連広報センタ-所長)が両市の式典に参列した。これ以後,国連事務局の幹部の事務総長代理としての参加がしばしば見られるようになった。

3 平和と慰霊をめぐる対抗と調和

(1)広島県主催平和記念式典

広島市民・原爆犠牲者遺族の間には,8月6日を厳粛な祈りの日として過ごしたいという気持が根強く存在していた。第5回原水爆禁止世界大会が開かれた昭和34(1959)年には,こうした気持ちは,大きな広がりを持つものとなった。広島県宗教連盟は,7月,世界大会に連盟としては参加しないことを決めるとともに,8月6日に「全市各戸ごとに弔旗を揚げる運動」を提唱した。また,12月15日,広島県議会は,県当局に対し,昭和35年に原爆犠牲者の大慰霊祭を執行するよう要望した。県議会のこの要望は,その後紆余曲折を経て県・市共催の「原爆15周年慰霊式ならびに平和記念式典」として開催されることとなる。

昭和35年8月6日,式典会場の来賓席には,皇太子殿下をはじめ,総理大臣(代理・厚生大臣)・衆議院議長・参議院副議長・自民党広報委員長・社会党教宣局長・民社党書記長・共産党中央委員会議長代理などが顔をそろえ,約4万人が参列した。また,慰霊碑には全国知事会・県議長会などから贈られた100余の献花がならべられた。式典直前には,県内4地区(庄原市・府中市・大竹市・竹原市)を起点として,慰霊式に参加できない各家庭からリレーで届けられた線香が慰霊碑前に供えられた。なお,この式典は,広島県が主催した唯一の平和記念式典である。

(2)市民団体の対応

政府や地方自治体とは別に,平和団体などによる原爆投下時刻の「祈り」への独自の取り組みもある。高知県原水協は,昭和32(1957)年に8月6日の原爆投下時刻に県民が一斉に黙とうをささげるよう県内の諸団体に呼びかけた。また,国鉄労組と機関車労組が昭和34年に広島の平和記念日の正午に一斉に列車と電車の汽笛を鳴らして黙とうをささげるよう各支部に指令している。こうした呼びかけは,1960年代の原水禁運動の分裂の時期には途絶えていたが,1970年代後半に,ふたたび復活した。

日本原水爆被害者団体協議会全国理事会(昭和39年6月)は,広島・長崎への原爆投下日に日の丸の半旗を掲げ,被爆時刻に1分間の黙とうをする国民運動を起こすことを決定した。「対立した原水禁運動を超越する国民運動のおんどを日本被団協がとる方法として8月6日から同18日までを国民総反省旬間とし,旬間中は日の丸の半旗を掲げる運動を起こそう」との関東甲信越代表理事の提案が具体化したものである。しかし,提案には8月15日の黙とうも含まれていることに疑義が出され,原爆投下日の黙とうのみが決まった。

広島県労会議と県労被爆連は,昭和53年7月26日,広島県知事と市長に,8月6日午前8時15分から1分間,1県内すべての職場,家庭に呼びかけ,平和祈念の黙とうをささげる,2道路上のすべての車もストップさせる,3全市町村は一斉にサイレンなどの合図で,住民に平和祈念を呼びかける,4この運動は少なくとも隣接県にも呼びかけ協力を求める,の4項目を申し入れている。

(3)平和公園の聖域化

平和公園は,市民憩いの場としてだけでなく,さまざまな集会の会場として使用されており,原水爆禁止世界大会の会場でもあった。ところが,昭和34(1959)年には右翼団体,また,昭和38年には学生団体が,平和公園の大会会場で参加者と衝突する事態(いずれも8月5日)が生じた。こうした運動の混乱に対し広島の諸団体・機関から,厳しい批判が寄せられた。8月17日には広島市遺族会など11団体が,原水協への広島での大会中止の申し入れなどを広島県知事と広島市長に求めることを決定している。昭和39年に入ると,3月23日,広島県議会が「原爆記念日を静かな祈りの日に」との意見書を採択,6月5日には広島市が,8月5,6,7日の3日間,平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前広場を一般団体の集会に使わせない方針を決定した。

昭和42年5月には,山田節男新市長が平和記念公園の聖域化構想を表明した。それまでの公園の使用規制は,いわば原水禁運動の混乱への対応策であったが,新たな構想に基づくさまざまな施策が実施されることとなった。昭和44年2月には,公園内での露天営業の許可が取り消され,メーデーを除くデモや集会の不許可,芝生内への立ち入り禁止など,平和記念公園の利用に対する厳しい規制がとられるようになった。ただし,昭和56年2月の「ローマ法王平和の集い」や昭和59年5月の「カーター前大統領平和の集い」のように,平和記念公園で開催される事例も存在している。

(4)黙とうの呼びかけと実施

政府は,昭和39(1964)年4月24日の閣議で,8月15日に第2回全国戦没者追悼式を靖国神社境内で開催することとし,8月15日正午の黙とうを国民に呼びかけることを決定した。同年,広島県は,8月6日の8時15分と8月15日の正午に,それぞれ1分間の黙とうを行うよう県民に呼びかけているが,8月15日の黙とうの呼びかけは,閣議の決定を受けてのものであった。

長崎市は昭和47年8月6日の黙とうを実施し,広島市に8月9日の黙とうを呼びかけていた。これを受けて翌年48年7月には,広島市が,8月9日の原爆投下時刻に1分間の黙とうを市民に呼びかけることを決定し,以後,広島・長崎両市の「黙とうの連帯」が始まった。昭和54年には,広島県知事と市長は,黙とうの呼びかけを県内のみでなく中国地方5県と愛媛と香川を合わせた7県に拡大し,翌昭和55年には47都道府県知事と9政令指定都市長あてに「原爆死没者の慰霊並びに平和祈念の黙とうについて」と題する文書を発送し,黙とうを呼びかけている。さらに広島市は,昭和58年からは毎年,全国の都道府県市長会および広島県町村会に黙とうを呼びかけるようになった。

こうした被爆地からの要請に応え,原爆投下時刻の黙とうは,しだいに全国に広がってゆく。昭和48年,埼玉県庁が,被爆地以外の県庁としては初めて,広島・長崎の原爆被爆時刻に黙とうを実施した。また,昭和57年6月には,全国市長会が広島・長崎両市長の要請に応えて,両市の原爆被爆時刻に1分間の黙とうをすることを決定している。

共同通信社の調査によれば,昭和55年に17県と1政令市(川崎市),翌昭和56年には25道府県と2政令市が呼びかけに応じた。また,昭和57年の黙とう実施自治体=487自治体(呼びかけた772自治体の63%)に急増,58年には703自治体(呼びかけた865自治体の81%)。以後,自治体の黙とうへの取り組み実施率は,80%台で定着していることが報じられている。

4 広島平和文化センター

(1)平和行政の誕生

昭和42(1967)年5月,山田節男が新たに広島市長に就任した。市長は,10月に市の機関の一つとして「広島平和文化センター」を発足させた。「地方公共団体としてこの種機関の設置は全国初めての事例」(『広島の証言』所収の山田の「序」)であった。その目的は,広島平和文化センター条例で,「平和に関する諸問題の総合的な調査研究,国際文化会館建設の調査および企画,平和に関する事業および行事の企画およびその実施の推進,平和記念施設を中心とする文化施設の整備および管理の基本的かつ総合的な方針の策定およびその実施の推進等を行い,もって世界平和の確立と人類の福祉の増進に資する」(第一条)とうたわれている。設立直後の12月には,市長の委嘱または任命による「平和文化推進審議会」委員(学識経験者・各界の代表・市職員)24人が選ばれ,同センターが財団化するまで,広島市の平和行政に積極的な提案や検討を行った。

(2)事業の展開

山田は熱心な世界連邦主義者であった。昭和43(1968)年1月23日~24日,市民を対象としたセンターの最初の行事は世界連邦市民講座であった。また,昭和46年の平和宣言では「すべての国家は日本国憲法にうたわれた戦争放棄の基本精神に則り,一切の軍備主権を人類連帯の世界機構に委譲し,解消すべきである」と世界連邦思想を訴えている。

センターは,積極的に市民の平和問題への関心を高める試みを行った。昭和43年8月には,「平和を語る市民の集い」(第1回)を開いた。「ヒロシマはいかに平和を訴えるべきか」をテーマとする市民の話し合いの場であった。昭和44年8月には第2回(テーマ「被爆体験の継承と平和教育」),昭和45年7月には第3回の集いを開いている。また,設立まもなく平和関係団体を対象とした調査を実施した。団体間の連絡調整,団体に属さない市民の参加を目指した新たな試みに役立てるための調査であった。まず53団体の概要が『平和関係団体名簿(昭和48年3月1日現在)』としてまとめられ,その後も名簿の更新がなされている。

(3)ヒロシマ会議

「平和文化推進審議会」委員の発案が契機となり,昭和45(1970)年11月29日~12月2日に「ヒロシマ会議」が開催された。広島市が市民の協力を得て開催した戦後初めての国際平和会議である。招待参加者は,海外からフィリップ・ノエルベーカー(英国,ノーベル平和賞受賞),ユージン・ラビノビッチ(米国,パグウォッシュ会議創始者の一人)ら6人,国内からは,湯川秀樹・朝永振一郎(いずれもノーベル物理学賞受賞者)ら13人であった。

このほかにも平和宣言の起草,原爆爆心地復元委員会の設置(昭和44年4月),映画『ヒロシマ・原爆の記録』の制作(昭和45年8月完成),図書の刊行(昭和44年以降),図書室の開設(昭和49年6月),市民が描いた原爆の絵の受贈(昭和50年12月)など多様な事業を展開した。

(4)組織の改編

広島平和文化センターは,昭和51(1976)年4月の,財団法人化に伴い,市の平和行政を担う一組織からNGO(非政府組織)としての性格を持つ組織として,広島市の各部局との連携のもとに平和行政を担うこととなった。このほかの組織面では,昭和46年度から昭和50年度まで,広島平和記念資料館と平和記念館が,さらに昭和48年度から昭和50年度まで広島市公会堂が広島平和文化センター所属となった。

(宇吹 暁)


注・参考文献

・世界連邦運動ヒロシマ 25 年史編集委員会(編)『世界連邦運動ヒロシマ 25 年史-第2回世界連邦平和促進宗教者大会記念』(世 界連邦建設同盟広島県協議会,1972 年)

・丸木位里・赤松俊子『画集普及版 原爆の図』(青木書店,1952 年)

・森滝市郎「『座りこみ 10 年』の『前史』と理念」(下畠準三(編集責任者)『ヒロシマ 核実験抗議座り込み 500 回の記録』(広島平和会館,1997 年)所収)

・石丸紀興『世界平和記念聖堂』(相模書房,1988 年)

・加藤裕子編『霊は人を生かす 松本卓夫の生涯』(新教出版社,1988 年) ・谷本清『広島原爆とアメリカ人』(日本放送協会,1976 年)

・バーゼル・エントウィッセル『日本の進路を決めた 10 年 国境を越えた平和のかけ橋』(ジャパンタイムス,1990 年) 

・小谷瑞穂子『ヒロシマ巡礼 バーバラ・レイノルズの生涯』(筑摩書房,1995 年) 

・広島市・長崎市(編)『国連訪問レポート・1976 -ヒロシマ・ナガサキ』(1977 年3月 31 日) ・広島市(編・刊)『ドームは呼びかける-原爆ドーム保存記念誌』(1967 年8月6日) 

・朝日新聞東京本社企画部(編)『原爆ドーム保存工事完成記念・ヒロシマ原爆展』(1967 年9月5日) 

・朝日新聞社本社企画部・広島平和記念資料館(編)『ヒロシマ原爆参考資料-原爆ドーム保存工事完成記念』(1968 年1月 15 日) 

・志水清(編)『原爆爆心地』(日本放送出版協会,1969 年)

・ISDA・JNPC 出版委員会(編)『被爆の実相と被爆者の実情- 1977NGO 被爆問題シンポジウム報告書』(朝日イブニングニュース社,1978 年)

・NHK(編)『劫火を見た-市民の手で原爆の絵を』(日本放送出版協会,1975 年) 

・広島市・長崎市編『広島・長崎の原爆災害』(岩波書店,1979 年)。504 頁 

・宇吹暁(編著)『原爆手記掲載図書・雑誌総目録 1945 – 1995』(日外アソシエーツ,1999 年)

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