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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol33 子どもたちの育成

広島戦災児育成所は、昭和21 (1946)年1月19日に開所式を行う。

「現在三十一名の幼い魂が所長山下義信氏ほか多数の人々の温かい庇護の下に・・・」。開所直前の新聞記事によると、毎朝6時に起床し、8時半から授業、12時昼食、午後は1時半から農作業、2時半に牛乳などの間食、4時半清掃、5時夕食、8時就寝。「試験農場時代の約一町歩の畑があり」「副食物自給は事欠かぬ」としながら、衣服は学童疎開時からの夏服で、約10人の職員が硫黄消毒をしても「着替えがなく」、「虱の卵」が付いたものを着ているとも言及している19。

育成所は、仏教者の山下が昭和20年9月15日に復員し、親を失った子どもたちの窮状を旧友でもあった広島市保健課長松林錥三から聞き、県から土地・建物を借り、私財を投じて創設した。山下は原爆で次男を失ってもいた。

授業は、幟町国民学校(現幟町小)分教場として同校訓導の斗桝正や比治山国民学校から移った妻良江らが担う。開設時は「十八畳の第一児童室のみ」だったが、寄付で寮を移築するなど環境を整え、女子職員は、幼児・児童6~10人ずつの「担任母」として起居を共にする。山下は常に「父となれ、母となれ」と呼び掛け、若い職員らも献身的な育成に努めた。子どもらは、旧錬成道場を仏堂風に改築した「光ケ丘童心寺」で、朝晩は仏参を欠かさず、毎月6日は亡き親きょうだいらの法要を営んだ20。

しかし、運営は綱渡りであった。一番は食糧危機である。広島市長木原七郎は昭和21年 7月20日の「広島市報」で、田舎への帰農や焼け跡の全面耕作を市民に求めた。広島でも食糧配給の遅配や欠配が続いた。食べ盛りの子どもたちのため、山下は、私財の大部分をヤミ米やみそ・醤油の購入に充てたと回想している21。集団生活に当時つきまとった眼病や、下痢などの治療は、近隣の病院や開業医が協力した。使命感に駆られた個人の意思や努力により戦災児育成所は支えられたのである。

戦争・原爆に起因する孤児たちの養育は、戦災児育成所にとどまらなかった。いったんは縁故者に引き取られでも、家族崩壊や貧困とさまざまな事情から独り飛び出し、生きざるを得なかった子どもたちもいた。

外地から引き揚げた孤児の保護から始まったのが、上栗頼登が少尉時代の退職金を充て昭和20年10月22日、宇品町(現南区)の旧船舶輸送部隊兵舎で開設した「引揚孤児収容所」、後の新生学園である22。日本人国民学校があったフィリピン・ ミンダナオ島ダバオからの引揚児220人を年末までに収容した。また、浮浪戦災孤児も収容して22年4月1目、基町(現中区)の野砲兵第五連隊跡地に新生学園を開設する。

さらに昭和21年9月3日、広島県戦災孤児教育所似島学園が、似島(現南区)で開設される。広島駅前の闇市一帯で寝起きしていた浮浪孤児を警察が取り締まったのを機に34人が入園する23。学園長となる森芳麿や中国から復員した吉川豊が奔走し、旧陸軍運輸部の似島倉庫を改築した。当初はイカダを作ったり、泳いだりして島を脱出する者もいた。

戦前から孤児の世話をしていた広島修道院は昭和22年4月、疎開先から戻った若草町(現東区)で活動を再開する。カトリック系の光の園摂理の家は8月、衹園町(現安佐南区)に設けられ、翌23年6月には基町へ新築移転する。8畳5部屋や授産場などを設け、32人を養育する24。精神薄弱児施設の六方学園も24年、古田町高須(現西区)へ移り、「原爆孤児」を収容した25。

児童福祉法が昭和22年12月に公布され、戦災児育成所などは養護施設となり、前年公布の生活保護法と合わせて補助は増えるが、運営に十分とは言えなかった。財源の助けとなったのが、「赤い羽根」による22年度からの共同募金配分であった26。24年度からは「お年玉つき」年賀はがきの寄付も配分された。

戦災児育成所の子どもたちは昭和23年からは、地元の五日市小や、前年に発足した新制中学に通った。「育成所概要」によると当時の在所児は85人(うち女子25人)で、内訳は幼児が8人(同3人)、児童が48人(同14人)、中学生が29人(同8人)。「収容原因」は、「原爆孤児」が67人と最多で、「浮浪児」が6人、養護施設に伴う「児童相談所より」が7人などであった27。

戦災児育成所は、山下の申し出により昭和28年 1月1目、広島市へ移管される。 開設から移管までの「児童名簿」には計171人の名前が残る28。食糧危機のころも亡くなった子どもはいない。23人が「親子再会」を果たし、46人が「親族引取」、17人が「養子縁組」と86人が25年末までに退所していた29。30年に「広島市童心園」と改称し、42年には養護施設としての務めを終える。

「原爆孤児」と呼ばれた人たちは、広島の復興が進むころから順次それぞれに各施設を退所し、自力で生き抜くことを迫られる。就職や結婚となると社会の偏見とも闘わなくてはならなかった。


19 中国新聞1946年1月16日付

20 前掲「育成日誌」と中国新聞1975年8月7日~16日付「生き抜いた30年」連載10回を参照

21 山下義信「育成の若干の記録」 中国新聞1975年 8月 9日付

22 広島県編 『広島県史(現代)』(広島県, 1983年) 1135~1136頁

23 広島市役所編 『原爆戦災誌』第l巻 (広島市役所, 1971年)211~212頁

24 中国新聞1948年6月6日付

25 中国新聞社編 『炎の火から20年一広島の記録2』(未来社,1966年) 296頁

26 広島県 ・県社会福祉協議会 「広島県社会福祉事業の概況」昭和30年3月 88頁

27 広島戦災児育成所「要覧」昭和24・25年度版(原爆資料館所蔵)

28 広島戦災児育成所「児童名簿」昭和20年12月25日~26年11月19日(非公開)

29 前掲 「要覧」

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