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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol4IV 広島での家づくり

1949年 7月17日, 4人が乗った客船「ジェネラル・ゴードン号」がサンフランシスコの港を出港した。日本へ向かい,広島で作業を行う様子は,アンドリュース氏の日記やシュモー氏がまとめた“Japan Journey”(邦訳『日本印象記』)に詳しい。船は途中,ハワイのホノルルに寄港し,7月31日に横浜港へ到着した。2週間の船旅であった。下船後,一行は戦後に呉市助役を務め,当時参議院議員であった高良とみ氏の案内で東京へ向かい,活動に参加する日本の社会人や学生のボランティアと合流する。日本人のボランティアは20歳前後の若者で6人が参加した。シュモー氏は1948年に日本を訪れた時に,日本の若い人たちに計画への参加を呼び掛けていたのだった36。

シュモー氏の呼びかけに学生たちは,「広島の人の役に立ちたい37。」「広島の被爆者の方々にとってまず必要なのは住宅だと思い,シュモー氏の計画に感激しました38。」という思いから活動に参加することを決意する。アメリカ人だけでなく,日本人も家づくりに参加する。ここに家づくりのもう一つの重要な意味があった。シュモー氏は,国や人種を超え,多くの人たちが協力して家づくりを進めることにより,お互いを理解し合い,相手を思いやる心を育むことを考えていた。戦争中,対立する国同士が憎しみをあおり,原爆投下をはじめ凄惨な破壊が行われた。シュモー氏は,破壊を免れるために,新しい世界はどのような方法で構築すれば良いか考えた。そして,戦争で失われた互いを理解し,相手を思いやるという良心を再び築くことだと考えたのだった39。

また,同じ国籍を持つアメリカから来た4人の中には,黒人のティブズ氏がいた。現在も根強く残るが,当時のアメリカ社会は,人種の違いによる差別が大きな問題となっていた。シュモー氏がティブズ氏に送ったクリスマスカードには「原爆投下を申し訳なく思い,戦争に反対し平和を信じているアメリカ人がいることを示すために,人種や宗派を超えたアメリカ人のグループで広島に赴き住宅を建設するプロジェクトに参加してほしい40。」と書かれていた。さらに日本人の仏教徒が活動に参加し,宗教の違いもあった。

まさにこの家づくりは,国籍,人種,宗教の違う人たちが協力して構築するという平和な新しい世界を生み出す方法を世界中の人たちに伝えるものでもあった。

10人となった一行は,8月3日,広島へ向けて東京駅を出発。列車内は蒸し暑く非常に混雑していた。途中,神戸で一泊し,列車を乗り換え翌日の8月4日午後,広島駅へ到着した41。事前に広島県や市と交渉を行っていたこともあり,人々の関心も高かった。駅では広島県知事や広島市長の歓迎を受け,報道機関からの質問が相次いだ。この時シュモー氏が「平和運動は語ることではなく行うことだ。」と語ったと記事に掲載されている42。

到着後,一行は広島流川教会に向かった。教会はハーシー氏の「ヒロシマ」に登場する人物の1人,谷本清氏が牧師を務めていた。谷本氏は1948年からアメリカに渡り,各地で自身の被爆体験と平和の大切さを訴えていた。シュモー氏は1949年6月にアメリカで講演旅行中の谷本氏と初めて会い,「広島の家」の活動について助言を求めたことがあった。シュモー氏が募金を呼びかけた文書にも「広島の家」の活動に協力を惜しまないという谷本氏の談話が掲載されている。谷本氏は広島の地に世界平和の構築を研究する機関の設立を構想し,「ヒロシマ・ピース・センター」として実現させる。海外や日本の人たちと協力し,広島での支援活動に重要な役割を果たした。広島流川教会は,シュモー氏たちの宿泊先となった。

家づくりを始めるまで,広島市との交渉のためにしばらく時間があった。先に紹介した書簡のように,県や市としては当初児童図書館を建設してもらいたいという思いを持っていた。シュモー氏たちの到着前には,図書館を建てるという新聞報道も見られる43。しかし,図書館に収蔵する本がアメリカ軍から提供される予定であり,子どもたちが読むことができない英語で書かれている本と分かる44と,計画は立ち消えとなった。この時,広島市が断念した児童図書館建設は,3年後の1952年に海外移民からの援助を基に実現することになる。アメリカ・ロサンゼルスのカリフォルニア州在住の広島県人会から400万円の寄付金が届けられ,県人会からの要望で、児童図書館の建設に充てられた45。

計画は,住宅の建設に戻った。そして皆実町に1戸につき18万円(500ドル)で建設中の市営住宅の敷地に木造平屋建ての二軒長屋2棟を建設し,市に寄贈することになった46。市議会の最終的な承認を得る時聞が必要なため,シュモー氏たちは空いた時間を広島記念病院でのボランティア活動に充てた。朝7時から病院で働き47,入院している患者に対して,食事の配膳や入浴の介助,掃除,洗濯などを行った。病院に石けんや消毒剤,薬品が不足している現状から48乾燥ミルクやビタミン,結核の治療のために抗生物質であるストレプトマイシンも提供している49。患者たちにとって,ボランティアの人たちとの交流は心の支えにもなった。互いに言葉を交わし,患者が讃美歌を歌ったり,シュモー氏たちがスライドを上映することもあった。この年の活動が終了しても患者の容体を気にかけ手紙を交わし,クリスマスにはバスタオルやキャンディなどのプレゼントを贈った50。

8月15日から家づくりは始まった。広島の人々も作業に加わり,小学校の教師や大学生など40名近い人々が活動のメンバーに名を連ねた51。シュモー氏は第一次世界大戦の時の支援活動でも家をつくり,大工仕事を行うことは慣れていたが,日本家屋を建てることは未経験だったため広島の大工を雇った。毎日,宿泊先の広島流川教会から徒歩で作業現場まで通い,真夏の暑い最中に毎週6日間(土曜日は半日)働いた。時には雨に打たれながら屋根をふき,資材不足に直面することもあった52。全員が大工仕事に慣れていたわけではなく,大工からのこぎりやかんなの使い方など基本的なことを教わり協力して作業を進めた53。特に日本家屋はくぎを使用せず,家の骨格を組むために木材にほぞとほぞを差し込むほぞ穴と呼ばれるものが必要であった。のみで木材に何百というほぞ穴を掘った。当時の作業の様子について,ティブズ氏は「原爆による破壊で道具や設備などはほとんど残っていません。住宅建設のためには,レンガを作るところから手伝わなければなりませんでした。毎日宿泊先の広島流川教会から作業現場まで歩いて行ったり来たりしなければなりませんでした。とてもしんどい作業で屋根裏部屋に戻るころには疲れきっていました54。」と語り,学生ボランティアとして参加した安積仰也氏は「一番きつかったのは,材木運びでした。かなりの量を毎朝材木屋で買い,炎天下を建築現場までリヤカーに積んで行きました55。」と振り返っている。

大工仕事だけでなく,滞在中は自炊であったため,家事も行う必要があった。料理や洗い物,買い物など当番を決めて行った56。シュモー氏は,知人に宛てた手紙の中で大工仕事と家事に奮闘する日本人の女性ボランティアたちを称賛し,また家計簿を付け,料理のメニューを考え,買い物のリストをつくるティブズ氏を,今回の共同生活に適任だと伝えている57。

夜には,ミーティングが行われた。学生たちからシュモ一氏へボランティアを行う意義を聞いかけたり,ボランティアの大切さなどを話し合った58。

しかし,働いてばかりではない。作業が無い土曜日の午後や日曜日には,映画を見たり,海水浴や川ヘキャンプに出かけている59。

地元の人たちとの交流も深まった。ラジオや新聞が「広島の家」の活動について伝えたため,毎日のように人々が作業現場を訪れ手紙が届いた。広島の印刷会社は,子供向け雑誌のために「広島の家」の活動に焦点を当てることを企画し,小学校6年生の子供たちが作業現場を訪れた。子供たちは建設している家やアメリカのことについて尋ね,何人かの生徒たちが放課後に家づくりを手伝うようになった。子どもたちは木材を積んだリヤカーを押したり60,庭園をつくるための土を運ぶ作業を行っている。

知人の夕食会に招待されたり,保育園の先生たちとすき焼き鍋を囲んだり,取材を受けた印刷会社の工場を見学することもあった。アンドリュース氏は夏休みの休暇を取っていた教師の代わりに広島流川教会で日曜学校での授業も担当している61。

被爆地の実情も目の当たりにした。シュモー氏たちの広島到着から2日後は8月6日であった。シュモー氏たちも平和祭に参列した。来賓の人々があいさつを述べ,平和の鐘が打ち鳴らされる中で,シュモー氏は平和の基礎は,あらゆる国の人々が共に働き,互いの理解と善意を誓うことだという思いを強くした62。爆心地付近にも赴き,アンドリュース氏は一瞬で破壊と荒廃が起こったことに衝撃を受け,改めてアメリカの行いを恥じた。別の日には広島赤十字病院を訪問し,ケロイドのある患者たちに面会している63。

広島での支援活動に重要な役割を果たしたノーマン・カズンズ氏にも会った。カズンズ氏はアメリカの雑誌『土曜文学評論』の主筆を務め,シュモ一氏たちと同時期に「ヒロシマ・ピース・センター」建設の準備状況などを視察するため,広島を訪れていた。市内の病院や児童養護施設を訪問し,その様子を『土曜文学評論』に掲載すると共に以前から知人と話していた精神養子の考えも発表した。精神養子とは,海外の市民が肉親を失った広島の子どもたちと法的ではない養子縁組を結び,養育資金を送付するというものであった。この考えは多くの読者から反響があり,最初の養育資金2,000ドル(当時72万円)が広島市長宛てに送付され,対象となった広島戦災児育成所の子どもたちへ届けられた。その後,他の施設や一般家庭に引き取られた子どもたちへ資金の送付は広がり,約500人の子どもたちが援助を受けたと言われている64。精神養子運動は,昭和26年度の市勢要覧に「広島の家」の活動と共に海外から寄せられる具体的な支援として紹介されており,1949年は広島に特徴的な2つの海外からの支援が始まった年でもあった65。

シュモー氏たちは,広島市役所のカズンズ氏を歓迎する昼食会に参加し,「ヒロシマ・ピース・センター」の起工式にも参加した。この起工式の様子は,8月の終わりにアメリカのNBCラジオで放送された。

9月に入り,時間と資金の面から住宅を2棟完成できるか心配することもあったが,住宅の建設は進み,計画通り完成した。完成した時点では,既に学生ボランティアの何人かは夏休みが終わり東京に戻り,アンドリュース氏とティブズ氏も許可された滞在期間が過ぎ,帰国の途についていた66。

完成した住宅は,6畳の和室が2間,台所,トイレという間取りであった。当初,シュモー氏は調理台や給湯設備,水洗トイレをつくることを考えていたが,当時の日本の習慣や生活環境を尊重し,広島市が設計した案を採用した。玄関に下駄箱を設置し,台所には窓側にレンガ造りのかまど,流し,食器棚が置かれ,床板を外すと米や野菜を貯蔵できるようになっていた。トイレは大と小の2つに分かれていた。和室には押入れがあり,部屋の1つには床の間が設けられ,2つの部屋の間はふすまで仕切られていた。道路に面した部屋に出窓,裏庭に面した部屋には縁側がつくられた。

10月1日には住宅の寄贈式が行われた。寄贈式では濱井広島市長,シュモー氏のあいさつの他,シュモ一氏に感謝状,原子焼の花びんなどの記念品が贈呈された。住宅は,広島市によって「シュモー住宅」という名称が予定されていたが,多くの人々の協力によって建てられたものであったため,シュモー氏の希望で「平和住宅」と変更された。住宅の敷地には,地元の庭師の手助けを受けて庭園も造られた。小さな池がつくられ,石のベンチ,石灯ろうが置かれた。灯ろうにはシュモー氏の想いを込め,日本語で「祈平和」,英語で「That There May Be Peace」と刻まれた。シュモ一氏たちが建てた住宅には,3,800の家族が入居を申し込み,広島市が抽選で4家族を決定した。1カ月の家賃は700円(1.85ドル)であった。

計画通りに住宅を建てることができただけでなく,多くの友人も得た。シュモ一氏は「広島の家」の活動のもう一つの重要な意義である理解と善意を生み出すという点でも成功したと感じた67。シュモー氏が,募金に応じた人たちへ宛てた文書では,日本の多くの人たちが感謝の念を示し,濵井広島市長が「寄贈された家が広島市の歴史の中で最も形ある偉大なもののひとつ」として称賛していることが伝えられた。合わせて依然として広島には住宅が不足しており,物理的な支援だけでなく精神的な面でも支援が必要と考え,「広島の家」の活動を続けていくために再び協力を求めた68。


36 安積仰也氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち 
37 安積仰也氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
38 富子・シュモー氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
39 Floyd Schmoe,“A HOUSE FOR HIROSHIMA,″Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008,Box12, Folder1.
40 デイジー・ティブズ氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
41 “Emery E. Andrews Diary” ブルックス・アンドリュース氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
42 『朝日新聞』 1949年8月5日
43 『毎日新聞』 1949年8月1日
44 Floyd Schmoe,“A HOUSE FOR HIROSHIMA,″ Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008,Box12, Folder1.
45広島市編 『広島新史 市民生活編』1983年 78頁
46 Floyd Schmoe,“A HOUSE FOR HIROSHIMA,″Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008,Box12, Folder1.
47 Hiroshi Sakamoto, “Send Streptmycin by air mail To save a life of 7-year-old Hiroshima girl,” Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008,Box13, Folder1.
48 “Emery E. Andrews Diary” ブルックス・アンドリュース氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
49 Letter from Floyd Schmoe to friends, January 1, 1950, Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008,Box12, Folder16.
50 Letter from patients in Hiroshima Memorial Hospital to Emery Andrews, January 4, 1951, Emery E. Andrews papers, 1925-1959, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.1908-001, Box4, Folder14.
51 “Emery E. Andrews Diary” ブルックス・アンドリュース氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
52 “Emery E. Andrews Diary” ブルックス・アンドリュース氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
53 安積仰也氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
54 デイジー・ティブズ氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
55 安積仰也氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
56 安積仰也氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
57 Letter from Floyd Schmoe to Miss Thompson, September 14, 1949, Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder16.
58 安積仰也氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
59 “Emery E. Andrews Diary” ブルックス・アンドリュース氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
60 “Emery E. Andrews Diary” ブルックス・アンドリュース氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
61 “Emery E. Andrews Diary” ブルックス・アンドリュース氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
62 Floyd Schmoe,“A HOUSE FOR HIROSHIMA,″ Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008,Box12, Folder1.
63 “Emery E. Andrews Diary” ブルックス・アンドリュース氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
64 広島市衛生局原爆被害対策部 『広島市原爆被爆者援護行政史』 1996年 56頁
65 広島市『市勢要覧 昭和26年版(1951)』 1952年 7頁 
66 “Emery E. Andrews Diary” ブルックス・アンドリュース氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
67 Letter from Floyd Schmoe to friends, January 1, 1950, Floyd W. Schmoe Papers, 1903・1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder16.
68 HOUSES FOR HIROSHIMA Report from Floyd Schmoe to friends, March 1950, Floyd W. Schmoe Papers, 1903- 1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder16.

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