Hiroshima’s path to reconstruction過去を知る – 広島復興への道
原子爆弾投下前の広島
1589年:毛利輝元が,太田川のデルタに広島城を建築
都市としての広島の歴史が始まる。江戸時代,地方都市では名古屋,金沢などに続く大城下町だった広島。明治維新以降,広島県庁や広島鎮台が置かれたことにより政治都市・軍事都市として地域の中心地として発展。
1888年:第5師団設置
鎮台廃止に伴い、第5師団が設置された。
1889年:宇品港竣工
港に加え,鉄道や道路網が整備された。広島には第1次世界大戦後から第2次世界大戦中にかけて重化学工業の大工場が点在し,広島の産業の主役として発展。
1902年:広島高等師範学校開校
「教育の西の総本山」と称され,日本の教育界をリードする存在であった。併せて,中央官庁や地方機関などが多数設置され,行政拠点都市・軍都・学都としての歩みが,近代都市広島を形成していった。
原子爆弾の投下
1945年8月6日 午前8時15分
人類史上初めて,「リトル・ボーイ」と命名された原子爆弾をB29エノラ・ゲイ号が投下。爆弾は約43秒間落下した後,投下目標の相生橋よりやや南東の島病院の近く,地上約600メートルの上空で核爆発を起こした。爆発の瞬間,巨大な火球から強烈な熱線が放出され,周辺の地表面は3,000 ~ 4,000度にも達した。最大風速440m/秒の強烈な爆風が放射状に広がり,約10秒後にはほぼ市街全域に達した。
熱線の放出は短時間であったが,極めて強烈で,爆心地から1キロメートル地点にいた人々は即死するか重度の火傷を負い,3キロメートル以上離れた地点でも,服を着ていない部位に火傷を負った。爆心地から2キロメートル以内の木造建築は全壊し,多くの人々がその下敷きになるなどして命を落とした。
広島の原爆被害の概要
原子爆弾投下時刻 |
昭和20(1945)年8月6日 午前8時15分 |
被害状況 |
●特徴: ・瞬間的・無差別的な大量破壊,殺りく。 ・放射線による後障害がその後も続く。 ●熱線:約3,000 〜4,000℃(地表面)( 鉄の溶ける温度1,500℃) ●爆風:秒速440m(爆心地近く)( 大型台風秒速約30 〜 40m) ●放射線: ・初期放射線(爆発から1分以内の放射線) ・残留放射線(地上に残った放射線) →間接被爆(入市被爆)による発症,死亡 |
死者(昭和20[1945]年12月末) |
約14万人±1万人(長崎は約7.4万人±1万人) |
被爆者の現状(平成31[2019]年3月末)※ |
人数:全国145,844人(うち広島市内47,632人) 平均年齢:全国82.65歳 |
「ポケット版ヒロシマ平和情報」(広島市市民局国際平和推進部平和推進課作成)より抜粋
※厚生労働省,https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000049130.html
被害の状況などは情報アーカイブスの被爆証言検索(要会員登録)で被爆時の年齢,爆心地からの距離など検索できます。被爆者の方々の声をお聞きください。
広島の復興
被爆直後の復興
広島の街は原子爆弾により,建物や交通施設,通信施設,上下水道などの都市インフラ施設が徹底的に焼失・破壊された。広島市の復興は,全国115の戦災都市の一つとして国の戦災復興事業による都市基盤の整備として着手された。
1945年8月8日(被爆2日後):山陽本線(国鉄) 広島駅と横川駅間の運転を再開
1945年8月9日(被爆3日後):一部路面電車区間の運転再開
1945年8月10日(被爆4日後):上水道の送水ポンプの稼働再開
再開後も漏水に悩まされた。水道管の補修も難工事であり,市周辺部にまで給水ができる状態に復旧するまでに9か月を要した。
広島市の復興計画については,市の復興審議会や新聞紙上などで,市民や行政関係者,外国人などから34件もの復興構想が提案された。復興がほとんど不可能と思われたほど破壊された都市で,復興計画は,当時として可能な限りの理想を追求していた。幅員百メートルの道路といった意欲的な道路計画や公園緑地計画が策定され,その用地を確保するため,土地区画整理が必要とされた。復興計画の推進は財政難の中で,関係者と市民の並大抵ではない努力と,時には市民に大きな負担が強いられる難事業であった。同時に,様々な形で寄せられた諸外国からの支援や励ましなどにも支えられながら,広島市民は被爆直後の数年間の危機を乗り越えようと奮闘した。 |
広島平和記念都市建設法
1949年:「広島平和記念都市建設法」制定
当初の復興計画(広島復興都市計画)は,財政難や人材難,資材不足,公有地不足といった様々な困難に直面した。被爆による壊滅的な打撃のため,広島ではほとんど税収が上がらず,財政難を極めていた。こうした事態に対処するため,濱井信三市長や市議会などの地元関係者が苦慮を重ね,国や国会に働きかけた結果,法により国から広島市に特別補助や国有財産の無償譲渡などへの道が開かれ,復興が推進された。加えて,同法第一条で広島市は「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴」たる「平和記念都市」として位置づけられ,「平和」を新たなアイデンティティとする今日の広島が形作られることとなった。
1952年:「広島復興都市計画」を「広島平和記念都市建設計画」に改定
平和記念施設の建設という特別の事業が認められ,復興計画として特徴的な平和記念公園の建設が可能となった。
1955年:陳列館(のちの平和記念資料館本館),平和記念館(のちの平和記念資料館東館)竣工
資金不足のために工事は長期間にわたって,中断し未完成の状態のまま放置された時期もあったが,着工から4年後に竣工した。
日本における復興は行政によるインフラ整備が中心であり,できあがった土地にどのような建物を建設し,生活を再建していくかは,地主や建築主,住民といった民間の力に頼らなければならなかった。平和記念都市建設計画の実現の過程では,区画整理に対する反感など,市民の批判や不満が表出することもあった。このように復興は,そこで暮らす市民の負担や犠牲を伴うものであったことも忘れてはならない。
分野毎の復興の状況
「広島の復興の歩み」からの抜粋
産業経済の再建被爆者医療支援メディアと復興平和を模索する都市
広島県と広島市は連携し,「ひろしま復興・平和構築研究事業」を行いました。この中で,広島の復興について詳細に調査・研究し報告書としてとりまとめました。また,紛争終結国からのニーズが高い,教育現場の復興や,原爆による医療の崩壊と再生に関する2次研究などを行っています。こちらもぜひご覧ください。
本記事は,ひろしま復興・平和構築研究事業で作成した「広島の復興の歩み」を参考に作成
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