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国際平和拠点ひろしま

原子力の犯罪性

2020年は広島・長崎に原子爆弾が投下され75年目となります。

「広島県史 原爆資料編」に掲載されている原爆に対する国際的反応:海外の新聞論調を紹介します。1945年8月6日に広島,8月9日に長崎に投下された原子爆弾について海外の新聞はどのように報じたのでしょうか。

本県が進めている国際平和拠点ひろしま構想の趣旨と合致しない論調も含まれますが,原子爆弾投下を海外でどのように伝えたか知っていただくため 「広島県史 原爆資料編」に掲載されている新聞論調をそのまま掲載しています。

原子力の犯罪性

昭和22.8.23 シカゴ・トリビューン紙

[大下応氏蔵]

対日戦勝記念日を利用して,トルーマン大統領は,今一度広島と長崎の原子爆弾投下について弁明した。それは,罪を感じる良心が語らせたものと思われる。彼は,日本上陸にあたり,25万人の米兵の生命を助けるため,原爆を使う必要があったと述べた。
この恐るべき兵器が使われたことに対する弁解が,1946年12月,科学戦争の顧問団スポークスマン,カール・T・コンプトン博士により行なわれた。また,1947年2月には,前陸軍長官スティムソン氏により,また同月,トルーマン大統領自身によってもなされた。コンプトンとスティムソンの主張する点は,日本の原爆投下が百万人もの米兵の生命を,また数百万人の日本人の生命をもおそらく救ったであろうということであった。トルーマンは今や,損害の見積りを25万人の米兵と切り下げているが,問題点は依然として同じである。すなわち,日本は原子爆弾が使用される以前にはまだ敗北していなかったこと。ポツダムから日本に対し無条件降伏の警告を発したが,日本はこれを無視した。そこで2つの都市の破壊が正当化できること。原子爆弾の投下は,大きな焼夷弾攻撃と非人道的であるという点からすれば同じであり,原子爆弾こそ戦争を終結させたのだと。
広島,長崎が被爆する1か月前,スティムソンは,大統領あてのメモに,日本は,引続く大規模な空襲と海軍による封鎖で全く傷ついており,飢餓と経済的無政府主義のどん底に陥っているところだと述べた。コンプトンは,日本の空襲に対する無力さ加減を次のように発表した。すなわち,東京空襲の1回分で12万5千人を殺害し,今一つの場合は,10万人を殺し,面積にして都市の85平方マイルを完全に抹殺したと。
日本は,原子爆弾の落ちるずっと前に,すでに敗北していた。そしてワシントンは,はっきりとそれを知っていた。スティムソンは1945年の夏,日本がソ連政府を通じ,「交渉による講和」を求める暫定的提案をしていたことを認めた。ルーズベルト大統領の虚栄心に満ちた無条件降伏の要求は,カサブランカで書かれた。それがかえってヒットラーに対するドイツ地下運動の謀略を大いに邪魔し,そのあげくがドイツ全体をして挙国一致団結の方向に導き,あの激しい終戦前の抵抗を生んだものである。しかし,そのルーズベルトの執拗な無条件降伏の要請が,日本と交渉による講和を実現する上でのこえがたい障碍物となったのであろうと,ワシントン筋では考えたようである。
先月,マッカーサー元帥の元軍秘書官であったボンナー・フェラーズ准将が公表したところによると,日本はまず原爆投下および戦争終結の6か月前,1945年2月に最初の降伏を試みている。彼は,裕仁天皇が,ソ連を仲介に立てて平和を求めるべくしいて日本政府に指示したと述べている。しかしソ連は,最後の瞬間に参戦することの代償に,ルーズベルトがかつて約束してくれた領土的利益を得ることのため,仲介人としての手数料として途方もない値をふきかけて,交渉を長引かせていた。裕仁はこの方法がうまくいかないので,4月7日には,アメリカにその意思を表示するため,平和主義者の鈴木貫太郎を首相に任命した。その翌月,ハーバート・フーバーは,ワシントンの最高幹部グループに,鈴木の任命は明らかに白旗を掲げたものだとし,これは日本に降伏の用意があるという証拠であると主張した。
7月10日には,日本はふたたびソ連の仲介をとりつけるために必死の試みをしたが,スターリンとモロトフは4日後,謎めいた沈黙のまま,ポツダムに向け出発した。そしてそこで,彼らは偽善的にも,同じく偽善的なトルーマンと会同して,過去2か月間も降伏のため,あらゆる手段を尽くして苦闘していた敵に,降伏を要求する宣言をつきつけたのである。
フェラーズ将軍は,東京駐在ソ連大使メリクとの最初の(2月)交渉を除いて,すべての日本の手の内を,その起きている時点で,アメリカ政府は承知したと言っている。さらに,上手な皮肉をこめて彼はつけ加えた。「米国が,原爆を投下する以前の,5月から7月に至るこの有利な時期——そのとき,天皇がすでに講和を求めていることがわかっていた——を,どのように利用したかわたしは知らない。」
かくしてトルーマン,スティムソン,そして彼らの同僚は,自らを立証する根拠,足場を失った。彼らの敵は,原爆が使われる数か月以前に,降伏する意志があった。そしてそのことを彼らは知っていた。この何か月もの間,無数の日本人が全く不必要に殺され,それもただ原爆投下によるためだけでなく,高性能爆弾や焼夷弾投下によっても殺傷された。この人間性を踏みにじった犯罪に,彼らは責任を負わなければならない。トルーマン,スティムソン,そしてスターリンは,その期間中に死んだすべてのアメリカ人の死に対しても同様罪を犯したのである。
日本軍の攻撃をひき出すための人質として,2,326人のアメリカ人を供え,真珠湾で彼らを殺させ,それで米国を戦争に突入させたという,ルーズベルトとその一味の罪。それとならんで,敵方が必死になって降伏に努力を傾け,敵対関係に終止符を打とうとしている時の1945年に,それを拒絶したという事実。ともにアメリカ戦争犯罪の目録のなかで筆頭に記されるべきものである。

(小倉 馨訳)

出典 広島県史 原爆資料編

 

 

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