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国際平和拠点ひろしま

ノーモア・ヒロシマ

2020年は広島・長崎に原子爆弾が投下され75年目となります。

「広島県史 原爆資料編」に掲載されている原爆に対する国際的反応:海外の新聞論調を紹介します。1945年8月6日に広島,8月9日に長崎に投下された原子爆弾について海外の新聞はどのように報じたのでしょうか。

本県が進めている国際平和拠点ひろしま構想の趣旨と合致しない論調も含まれますが,原子爆弾投下を海外でどのように伝えたか知っていただくため 「広島県史 原爆資料編」に掲載されている新聞論調をそのまま掲載しています。

ノーモア・ヒロシマ

昭和20.9.5 デイリー・エキスプレス紙

[大英博物館新聞ライブラリー蔵]

 

30日目の広島,逃げた者,死に始める

原爆の疫病の被爆者たち

“私はこれを,世界への警告として書く”

医者は治療しながら倒れる

毒ガスの恐れ,みんなマスクをかける

エキスプレス記者ピーター・バーチェットは,原爆都市に入った最初の連合軍記者であった。東京から単身武装もせず,七食分の配給食糧を携帯し——日本では食料調達はほとんど不可能であった——1本の黒い傘と,タイプライターを提げて,400マイルを旅した。これが現地取材からの話である。

ヒロシマ,火曜日

最初の原子爆弾が街を破壊し,また世界を震駭して,30日後の広島では,人がなおも死んでゆく。それは神秘的な,そして恐ろしい死であった。その人たちは,あの大激変の時に無傷であったというのに,何ものかわからない,私には,原爆の疫病としか描写するほかない何ものかによって死んでゆく。

広島は,爆撃を受けた都市の様相を呈していない。怪物大の蒸気ローラーが通り過ぎ,木端微塵に,抹殺壊滅したようだ。私は,これらの事実をできるだけ感情にとらわれずに記述し,それが世界への警告となるべく心から希求する。

この原爆の最初の実験場で,私は4年の戦争期間中,最も恐ろしい戦慄すべき荒廃の姿をこの眼で見た。(これに比べると)電撃戦に見舞われた太平洋諸島は,まるでエデンの園みたいなものである。損害の度あいは,写真で見るものよりはるかに大きい。

広島に着くと,25あるいは30平方マイルを見渡しても,ほどんと建物らしいものが見うけられない。これほどのひどい人間による破壊を見ると,腹の中が空っぽになるような気分にさせられる。

私は道を探り,失われた町の中央部あたりの臨時警察本部に使用されている小屋にたどり着いた。そこから南を臨むと約3マイルにわたって赤っぽい石ころが続いていた。何百メートル続いたであろう市の街路,建物,住居,工場,そして人間,その中で原子爆弾があとに残したものといえば,一面の石ころだけであった。

恐ろしい後遺症

全く何も建っていない。あるといえばせいぜい20本ばかりの煙突,それも工場自体はない煙突である。西の方を見た。5つ6つ外形をわずか止めた建物。そしてその先はまたも,無である。広島の警察署長は,市に入った最初の連合軍記者として歓迎してくれた。そして日本の一流の同盟のニュース通信社の支局長とともに,署長は私を市中,いやむしろ市の上を通って案内した。そして被爆した患者の治療が行われている病院に連れて行ってくれた。

これら病院には,爆弾の落ちたとき,全然傷を負わなかった者が今や,薄気味悪い後遺症で死んでゆく人たちがいた。

はっきりした原因もなく,どんどん病弱になってゆく。食欲がなくなる。髪の毛が抜ける。体には青い斑点が現われた。そして耳,鼻,口からは出血した。

医者がいうには,最初これらは,一般の衰弱の兆候だろうと思ったという。患者には,ヴィタミンAの注射をした。結果はおそろしいものだった。注射針でできた穴の所から皮膚が腐りはじめた。そしてそのいずれの場合も,被爆者は死亡した。

これが,私の見た人間の落とした最初の原爆の後遺症の一例だが,私はそれ以上の症例は見たくなかった。が,1か月後の瓦礫の中を歩きながら,他のものも見ざるをえなかった。

硫黄のにおい

私の鼻は今まで嗅いだことのない奇妙なにおいを嗅いだ。なんだか硫黄に似ているけど,それでもない。くすぶっている火のそばを通り過ぎるときににおった。また破壊の場からまだ遺体を掘り起こしている場所でも嗅いだ。その他すっかり荒廃している場所からも,においがただよった。

人々は,このにおいは,ウラニウム原子の分裂で放出された放射能が地面に滲みて,そこから放出される毒ガスから出たものと思っている。

かくして今日の広島の人は,かつて誇りにしてきた都市の,今や寄るべない,荒廃に変り果てたそのなかを,口や鼻にガーゼのマスクをかけて歩いている。おそらくこれも体のためにはなんら助けとはならないのであろうが,精神的には慰めになるのであろう。

広島にこの荒廃がもたらされた瞬間から,生き残った人は白人を憎んだ。その憎悪の激しさは,原爆そのものに決して劣らないものである。

警報解除

計上された死者数は,5万3千。他に3万人が行方不明。これは「死亡確実」ということだった。私が広島に滞在した1日で——それは被爆後,ほどんど1か月を経過していた——100人が,原爆の影響で死亡した。

彼らは,爆撃によって重傷を負った1万3千人のなかの者である。彼らは1日100人の割りで死んでゆく。そしておそらく皆死亡することだろう。さらに4万人が軽傷を受けている。

この死傷者数は,一つの悲劇的過ちさえなかったならば,それほど高くなくてすんだであろう。当局は,この爆撃を,いつものB29の攻撃だと思った。飛行機は爆撃目標の上空を飛行し,爆弾をつるしたパラシュートを爆発地点の上に落とした。

アメリカの飛行機は視界から離れた。警報は解除され,広島の市民は防空壕から出てきた。1分たったころか,爆弾は高度2千フィートの空中点まで来ていた。そこで爆発するよう時間が合わされていた。そしてそれは,広島のほとんどの人が外に出ていた瞬間であった。

何百もの人が折り重なり,原爆による猛烈な熱度でひどく火傷した人は,男か女か,年寄りか若いのか,識別することすらできない。

また爆心地に近い所では,何千とあったはずの死者の痕跡がない。消失したのだ。広島での説では,原子力の熱度があまり高いので,瞬間に灰燼に帰したのだと——ただそこには灰すら残らなかった。

広島に何が残ったかを見た人は,ロンドンを見て爆弾攻撃を受けた街だとは思わないであろう。

瓦礫の山

天皇の城〔これは大本営も置かれたことのある広島城のことを指しているものと思う〕は,かって威風堂々たる建造物であったのだが,今は3フィートのうず高い瓦礫の山となり,一つの壁を残すのみである〔これは城趾の礎石をいうのであろう〕。天井,床,すべてが塵埃となっている。

広島には無傷の建物がある。日本銀行である。これは市内にあるが,その広島市は戦争の始まるころ,31万の人口を擁していた。

過去3週間の間,ほとんどの日本の科学者は広島を訪れ,人々の苦しみを治す方法を見出そうと努力した。今やその人たちもまた被害者となった。原爆が落ちて最初の2週間,この科学者たちは,この陥落した市内に長く留まることができないことが分かった。時折り目まいを起こしたり頭痛がしたりする。ちょっとした虫にさされると,そこが大きく腫れあがり治らない。

そして健康状態がゆっくりと悪化していった。

そして今一つ,この空から落下してきた新しい恐怖がもたらした異常な影響を発見した。

多くの人は,飛んできた煉瓦や鉄片の端切れで小さな傷だけを負ったものである。当然すぐ治る性質のものであった。が治らなかった。急激に病状が悪化した。歯ぐきから出血が始まった。そして吐血した。そしてついには死亡した。

すべてこれらの現象は,彼らが私に語るには,ウラニウム原子の核爆発により放出された放射能に帰因しているとのことである。

毒性化した水

彼らは水が化学反応によって毒性化したことを発見した。今日でも広島で消費される水はすべて他の都市から送水されている。広島の人はまだ恐れを抱いている。

科学者たちは私に広島と長崎の原爆による影響の大きな違いを指摘してくれた。

広島は平坦なデルタ地帯にある。長崎は丘陵が多い。爆弾が広島に落ちたときは天候が悪く,落下直後大きな風雨がやって来た。

そこで彼らが信じていることは,ウラニウム放射能が地中に深く沈潜した。そしてあまりにも多数の人が病気にかかり死んでゆくので,その放射能が,この人間のつくり出した疫病の原因であると信じている。

一方長崎では,当日天候が快晴で,科学者が思うには,このために放射能が大気の中に早く飛散したのだと。そのうえ,爆発の威力が大部分海上に向って拡がったため,ここでは魚が死んだにすぎない。

この理論を裏づけるため,科学者たちは,長崎では死が突如急速にやってはきたが,広島で苦しんでいる後遺症のごときものはなかったという事実を指摘している。

(小倉 馨訳)

出典 広島県史 原爆資料編

 

 

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