Hiroshimas
田中泰延
広島駅
夏になった。広島へ、行った。
住んでいる大阪から、眠り込む間も無く新幹線が広島駅に着く。今井さんと荒木くん、そして案内してくださる広島県職員の小勝負さんと落ち合う。
私の父は、大正15(1926)年に広島県尾道市で生まれた。そして昭和18(1943)年、鉄道省の糸崎機関区で蒸気機関車の機関士として働き始めた。
その話をしたら、今井さんと荒木くんが、「2020年の夏に、広島を見に来ませんか」と旅に誘ってくれたのだ。今井さんと荒木くんは、福岡の広告会社に勤めている。荒木くんはつい最近、広島から福岡に転勤になった。
私も、3人も、そして街を行き交う人もマスクをしている。それが2020年だ。そんな世の中になるとは思いもよらなかったが、ともかくも私たちは夏の広島を歩くことにした。
広島駅を外から眺めてみる。以前来たときに、駅に掲げられていた一枚の写真が忘れられなかったのだ。
いま私が見上げている広島駅とは全く違う、瓦礫の中にかろうじて立っている駅舎。
1945年8月6日、世界で初めて原子爆弾が生きている人間の上に落とされた。
爆心地から1.9キロメートル離れたこの場所の惨状を、国鉄労働組合発行の『この怒りを 第8集』は伝える。
「広島駅は本館前のハリボテの出札室がつぶれ、多数の旅客が下敷きとなった。駅長室のある別館は半壊、二階建の車掌区は潰れた。ホームにいた者は、二線路隔てた向こうのホームまで爆風で吹き飛ばされた。各ホームの上屋はほとんど柱が折れ、ねじ曲げられたり路線上に倒れた。」
広島鉄道機関誌『ひろしま34号』は、ちょうど広島駅と同じくらい爆心地から離れた己斐駅、現在の西広島駅の惨状を記す。
「己斐駅は広島市の西玄関口であるから、市内から何千人もの罹災者が殺到し、駅構内を通って西へ、あるいは北へ逃れていった。婦女子は特に悲惨のきわみで、爆風で被服を剥ぎ取られて全裸に近く、頭髪は焼けて丸ぼうずになり、 引き裂かれた皮膚はボロのように全身に垂れさがっていた。正視できないその姿のまま、半狂乱のように急ぎ行く人、フラフラと夢遊病者のように漂っている人、目がつぶれて見えず線路にうずくまる人など数知れず、酸鼻の限りをつくした。」
父は、その日、糸崎機関区で機関車に乗務していた。そして、たまたまその時刻、広島駅へ向かう乗務はなかったので難を逃れた。だが原爆投下の直後、何度も広島駅へ往復したという。
しかし、父がそこで何を見たかは、幼い私が何度尋ねても言葉を濁した。
原爆投下前の話はよくしてくれた。
「7月の終わり頃になってのう、アメリカで新型爆弾ができたいうて噂になったんじゃ。もうすぐ落とされるんじゃいうて、わしらその爆弾に耐える訓練をしたんじゃ。もしピカッと光っても、こうやって目と鼻と耳を全部手で押さえての、息も止めとったら死なん、いうて練習させられてのう」
そう言って父は笑いながら器用に耳と鼻に指を入れ、伏せる仕草をしてくれた。
「そがいなもんで防げるわけなかったけえのう。ピカが落ちた後は…」
すると、必ず父の言葉はそこで詰まった。それは、海軍に招集された母方の祖父とそっくりの仕草だった。
祖父は、輸送船の乗組員となったが、南洋で船を沈められ、200人の乗員のうち、偶然にもわずか数名だけ救助されて帰還した。私はその事実を祖父の戦友だった人から聞いた。しかし祖父はその時のことを生涯語らず他界した。
父も19年前、鬼籍に入った。糸崎と広島を毎日往復していたのに直撃を受けなかった父も、200人のうちたった数名だけ海から引き上げられた祖父も、「九死に一生を得た」のだ。だからこそ私はいまここで生を享けている。
どちらにも、存命のうちに詳しい話を聞きたかった。しかし、おそらく彼らはどんなに問うてもそのことを話さなかっただろう。
荒木くんは広島に3年間住んだ。小勝負さんは言う。
「わたしは、両親も、祖父母の代もずっと広島です。いま広島県庁で働くことになって、思うこと…いろいろあります」
私たちは思い思いに遠くを見る。その日も、この線路は広島と、その先の街をつないでいたのだ。
この旅は、もう話せぬ父と私の対話になる。父がいったい、広島で何を見たかを見ようとする旅になるだろう。
広島城
駅舎だけがかろうじて残っていた広島駅以外にも、気になっていた建物があった。広島城だ。現在の広島城は鉄筋コンクリートで再建されたもので、かつての国宝だった天守閣は、一瞬のうちに崩れ落ちたのだという。
広島城の学芸員・山脇一幸さんに話を伺う。
── 私は、2016年に、広島に何年かぶりに伺った時に、広島城は天守閣があるし、特に疑問も持たなかったんですが、実は原子爆弾で何もかも失われましたという話をきいて、そうだったのかと思って。原爆の話をする時に、広島城も倒れちゃったんだよっていう話はあんまり知られてないと思うんです。
「広島城天守閣というのは今でいうと重要文化財に該当するんですけれども、旧国宝に指定されていました。よく勘違いされるんですけれども、広島城は原爆によって燃えてしまったんですね?って言われるんですけれども、いや、違いますと。爆風によって倒壊したんです。残された証言の中には、多くの木が一度にドドドドーって崩れ落ちる音が山の上から聞こえたと」
「天守閣の様子ですね。こういった瓦礫となっていました。でも、秋から冬にかけてこの瓦礫はなくなっていきました」
── なくなったんですか?
「推測なんですけれども、あたり一面焼け野原ですので、格好な木材ですよね、家のバラック建てるのにも必要なもの、それからだんだん寒くなってきたりとか、電気ガスなどはないですから、燃料として使われたんじゃないのかと思います」
── 爆心地からはどれくらい離れているんですか?
「1キロメートル以内です。熱線よりも、衝撃波が先にきます。それで倒壊したんです」
── 僕は昭和40年代生まれなので戦後生まれもいいとこなんですけども、僕らはアメリカは空襲や原爆で一般市民を殺傷したけれども国宝や文化財はあまり狙わなかったというようなことも耳にしたことがあるんですが。
「それはないですね。逆に爆撃目標にされていました。広島城は陸軍の関係施設が天守閣を中心に周辺を固めていたんです。多くの城郭も同様で、軍隊の施設が置かれました。だから、間違いなく攻撃目標になっていました」
── 戦争ですから、これは文化財だとか、そんな意識は相手には なかったんですね。
「この写真を見てください。衝撃的なのは昭和20年7月25日に米軍が撮影したものなんですよ」
── 原爆投下のわずか10日ぐらい前ですよね。
「そうなんです。制空権が全然ないようなものです」
私の父は、原爆投下の後、8月8日に福山の大空襲の炎を見た。自宅のある尾道市の丘の上からその炎は見えたという。父が原稿用紙に書き残した日記がある。
八月八日 夜は大原の家で、表の庭の番台で坐っていた。
「おーい福山の方が空襲で燃えているど」
と宮地歳夫や水野浅見等が、昂奮した声を発し、岩屋山の頂に向かって走った。その数人の群れを追って山坂を登り頂きから東に目をやれば、空の彼方、福山市の上空は眞赤と云える程広い幅に赤く染まっている。
「ありゃ、人が燃えとる火ぢゃ、あの火の中に人間がおるんぢゃ」
水野浅見が言った。
「広島にはピカぢゃ。福山にはB29ぢゃ。この次は尾道ぢゃ」
これほど詳細に日記をつける父が、広島で見たものについては何も書き遺していない。この福山大空襲で、旧国宝の福山城の天守閣が失われた。ほかにも日本各地の城郭では、旧国宝や重要文化財の名古屋城、和歌山城、大垣城の天守閣、水戸城の御三階櫓が空襲で焼失した。
それどころではない。原子爆弾の最初の投下目標は、京都だったのだ。これは、憶測でもデマでもない。当時のアメリカの公文書として誰でも閲覧できる。
戦争には、文化財の保存はない。歴史の保護もない。あるのは破壊だけだ。
山脇さんと天守閣に登る。
── いま、我々がいる天守閣はいつできたんでしょう。
「昭和30年代になりますと、高度経済成長時代がやってきます。『広島復興大博覧会』というものが開かれまして、お城のかつての姿を取り戻そうということで復元されたのが今の広島城です。ただ、完成したのは昭和33(1958)年ですので、築60年をゆうに超えてるんですけどね」
「最上階からは、原爆ドームが見えます」
「私は広島生まれなんですが、東部の人間なんですよ。福山です。だから親や親戚が被爆者だということはないんです。当時の話というのは実体験としてはなかなか身近には聞くことはないので、ここに置かれている書籍に書かれた証言、そういった話を伝えていこうと思っています」
「ここを出たら、その日に耐えて今も生きている被爆樹木があります。見ていってください」
75年前の夏、衝撃波と熱線を受け、それでも生き残ったユーカリが、青々と葉を繁らせていた。
「75年は草木も生えぬ」と言われた街に、75年目の夏が来る。
昼食に、尾道ラーメンを食べる。私の父が尾道生まれ育ちだということで、荒木くんが案内してくれたのだ。
塩味の強いスープで、私は父を思い出した。広島へ乗務した父も、崩れ落ちた広島城を目の当たりにしたのだろうか。
広島平和記念資料館
今井さんも、荒木くんも、言葉がない。私も言葉がない。広島平和記念資料館では、いろいろ質問したり、話を伺いながら回ろうと思っていたのだ。しかし、言葉が出てこない。
ここからは広島県庁の栗原さんも加わった。だが、お互い言葉を交わせない。
私はぐるりと見回せる場所で、あの日の広島の街に立った。誰もが無言のまま、すべての展示を見て回り、広島平和記念資料館学芸課の谷本真由美さんにお話を伺った。
── いろいろ聞きながら、回ろうと思ってたんですが、もう立ってるのも精一杯というくらいで、我々も何の会話もないという状態で。
「ええ、ええ」
── 2016年に僕は1度お伺いしたんですが、中身がぐっと変わられて。4年前来たときには、どうだった?って人に聞かれたら、僕は「人形が怖かった」って言ったんですよ。あれは、つまり何かの事実に即しているというよりも人形の展示だから怖かったんでしょうけど。
「はい。以前は人形の展示がありました。ですが、今回のリニューアルでは、遺品など実物資料を中心にした展示になっています」
── 確かに、今日拝見した展示に人形があったらだいぶ違和感があったでしょうね。今は、「被害にあったどこそこの誰々さんの顔が見える」っていう展示になってると思いました。
「具体的に名前とお顔を記して、遺品と並べて展示することで、より何か身近に感じられるというか、自分の回りの人とかに置き換えて感じられるとかいうのはあると思うんです」
── モノクロの写真と遺品というのは、最初僕はこれでどう伝わるのかと思ったけど、ひとつずつ読んでいくと前の比じゃない、心に具体的に迫ってきました。
「そうですね、写真はやっぱりモノクロがほとんどで、色に関しては一緒に被爆者自身が描いた絵を並べています。火傷の写真のそばには火傷を負った人の絵、目を治療している写真があれば、目を負傷している人を描いた絵。一緒に見ていただくことで、当時の惨状をよりイメージしやすいようにしました」
── だから、絵と写真が交互にあるんですね。
「お名前とお顔と、亡くなった人の言葉や家族の言葉、そして遺品をセットで展示して、ひとりひとりに焦点を当てています」
── はい、やっぱりすごく心に響くというか、自分のこととして自分の家族と重ねて考えることができた。
「本館に続く渡り廊下の突き当りには、焼け跡に立つ当時10歳の少女の写真があります」
──この女の子は、資料館の最後の最後に、戦後の幸せそうなお姿の写真と並べられています。ああ、よかった。戦争が終わって、幸せに生きられたんだと思ったら、最後の二行が衝撃で…。42歳でがんで亡くなったと…。
「そうですね。戦後もずっと健康の不安を抱えて生きていかれて」
── あともうひとり、1955年に亡くなった佐々木禎子さんのことも、僕は初めて知りました。
「佐々木禎子さんの話は海外でも有名です。禎子さんは2歳で被爆したけど、その後もお元気なお子さんだったのに、10年後に白血病で亡くなりました。病気になったときに、お父さんお母さんに、『禎子は親不孝だね。病気でたくさんのお金を使って。』といつも言っていたそうです。」
── ……。
── ……。
── 今日感じたことを、ちょっとずつ、何かこう断片的にでも、伝えたいなと思います。
── ……。
私の嗚咽が、ICレコーダーの音声に入っていた。
── 東館の「平和な世界をつくる」にも大きな比重が置かれていますね。核兵器廃絶を目指す世界の取り組みを伝えています。
「この先、被爆者の方が、近い将来確実に居なくなられて実際にお会いして話を聞くことができなくなるので、そうなった時にどのように被害を伝えていくか。被爆者が居なくなった世界で、どう核兵器廃絶を目指していくかというところが課題になっていきます」
「平和ボケ」という言葉がある。
「核兵器は抑止力であるから必要だ」という人。「核兵器があるから平和が維持できているのだ」という人。「日本も核武装すべきだ」という人もいる。
彼らのような人は、自分と反対の意見を持つ者を「平和ボケ」と斬って捨てる。
一面ではそうかもしれない。正しいのかもしれない。しかし、一発でも核兵器がある世界で、それを発射する権限を持つ人間がいる世界で、その抑止力になんの保証があるのか。
私は1969年に生まれ、幼い頃を東西冷戦の真っ只中で過ごした。映画や漫画の中では、繰り返し最終戦争のイメージが増幅されていた。人類滅亡の予言書なるものも流布され、私は信じて疑わなかった。いつか必ず終末が訪れるのだ、と思いながら私は育った。
ベルリンの壁が崩壊し、ソヴィエト連邦が解体される直前、世界にはじつに70,000発の核兵器が存在していたのだ。
人類はその数を減らすように話し合いを続けてきたが、現在、世界にはまだ13,400発の核兵器がある。
予告なく広島に落とされたのは、たった一発の原子爆弾だ。一発でも核兵器がある世界は、私たちが予告なく死ぬ世界だ。
「平和ボケ」と他人に叫ぶ人は、「戦争ボケ」しているのだ。あなたがたは戦争を知っているのか。見たのか。核兵器が使われたら、何が起こるか知っているのか。自分や肉親が死ぬということが、想像できない。そんな「戦争ボケ」からは目を覚ましてほしい。
カナダの心理学者リサ・フェルドマン・バレットは、「人間の感情を生み出しているのは「コア・アフェクト」と「概念シミュレーション」だと提唱する。
コア・アフェクト理論による考え方では、ある刺激や事態に遭遇すると、記憶に貯蔵された概念知識から類似する刺激や事態にまつわる過去経験(自伝的記憶)や外界からの感覚刺激・感覚様相(視・聴・味・触・嗅の感覚)などの概念が再生され、意識に表象される。その意識表象が「今現在」の状況や「将来」の状況で生じる感覚・知覚・主観や行動のシミュレーションとなる。
つまり人間は、「悲しかったり」「痛かったり」「嬉しかったり」という過去経験に基づいて「今現在」の状況を捉え、さらに「将来」をシミュレーションするものなのだ。「今現在の感情」は過去と未来という両側の時間で構成されている。だからこそ人間は時間も空間も隔てた「他者に共感」できるのだ。
あのキノコ雲の下で起こったこと。
想像力の欠如こそが、次の原子爆弾を炸裂させる。
今井さんが口を開く。
「私も中学生くらいの時に来て以来、今日来たんですけど、大人になってからも来るべきだなと思いました。知ってるつもりだったし、詳しく知るとしんどくなるから、知りたくないみたいな気持ちもあったりして。でも出口に置いてあったノートに、『何でもっと早く来なかったんだろう』って書いてる人もいて。あぁ、本当だなって」
「遠い昔の出来事ではなくて、今も核兵器がある。使われたら同じことが起きてしまうんだっていうのを自分のこととして、自分自身の問題として考えてもらえるように。単なる過去の出来事じゃないっていうところをしっかり考えて、自分たちはどうすればいいのか、未来に向けて何ができるかっていうのを考えて欲しいという気持ちがあります」
── 個々人の意識が変わらない限り、世の中は変わらないし。まずは自分を変えないといけないですもんね。
「知っていただかないといけないので」
── たくさん段階がありますね。この世の中が、ほんとに自分たちが思っているようによくなるまでには、めっちゃ段階があるってことですよね。知らないといけないし、考えないといけないし、変わらないといけないし、そこからやっと何か言うってこととか、行動することとか。この資料館が「知る」っていう最初の段階になったらいいですね。
「そのことを正しく伝えていくことが資料館の使命だと思っています」
── この、絶句する感じを知ってもらうのはね、来てもらうしかないんですよね。人類の義務化できないですかね。全員一回見に来たほうがいいと思う。
「そうですね。自分のこととして」
ドーム
私たちは原爆ドームまで歩いた。会話が少なかったのは、雨が土砂降りになっていたからだけではなかった。
ふと、広島平和記念資料館で感じた違和感が心をよぎる。
先述したように、資料館で私たちは、被害にあった個々人の名前を知り、顔と向かい合う。しかしそこで語られる原爆は、まるで「天災」のようなのだ。1945年8月6日、凄惨なことがあった。ややもすると、自然災害について語っているようにも感じられる。
資料館は、「怖いことがあったんだね」「いやだね」と恐怖と悲しみを味わうためのテーマパークではない。そんなディザスターランドではないのだ。
むろん、広島の街で敵と交戦することなく日常生活を送っていた「無辜の」人々にとってそれは「天災」と何も変わることがないのかもしれない。
しかし、原爆は「落ちた」のではない。人間が人間に対して「落とした」のだ。
『この世界の片隅に』を描いたこうの史代は、『夕凪の街 桜の国』のなかで死にゆく被爆者にこう語らせている。
『わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ』
歴史について、また戦争の被害について、さらには加害について、学び、補い、自分自身の視座を確立することは、見る者の努力にゆだねられている。
原爆ドーム。原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。投下目標とされた相生橋のたもとにあったこの建築物は、戦前の繁栄した広島で豪壮な姿を見せていた。いま私たちが歩いてきた広島平和記念公園一帯は、元はいちばんの繁華街だったのだ。
破壊された広島県産業奨励館は原爆ドームと呼ばれるようになり、可能な限りその姿を留めるように保存され、ユネスコの世界遺産になっている。
当時の瓦礫もそのままだ。
荒木くんも、だれも、相変わらず口を開かない。
このとき私は、突然、その理由がわかった気がした。
私たちが資料館で見たものは、「恥」だったのだと。
それは父が言わなかったことでもある。祖父が言わなかったことでもある。
父も、祖父も、偶然にも助かり生き残ったことに、うしろめたさを抱えていたのだ。
私たちは、朝、駅で誰かに衣服を脱がされてしまっただけでも恥ずかしい。人前で殴られ鼻血を垂らしてしまっただけで恥ずかしい。
広島の人たちは、衣服をはぎ取られ、皮膚を垂れ下がらせ、血を流し、炎に焼かれて死んだ。彼らは恥辱のうちに死んだ。
それを見た私たちの中に、どうしようもない恥の感覚が湧き起こったのだ。彼らは、恥ずかしかったのだ。そしてただ見ている私たち自身も、恥ずかしいのだ。自分は、いま安楽に生きているという恥。それが私たちから会話を奪った。私たちを黙らせたのは、悲しみではない。哀れみでもない。だれかの、無数の、恥だ。自らの恥だ。
天災ではそうは思わない。人間が人間に味わわせた恥に対してのみ、この感覚は湧き起こる。
肌は、恥である。
血は、恥である。
骨は、恥である。
誰かに強いられた死は、恥である。
この恥をだれにも、自分にも、抱かせたくない。
「過ちは繰り返しませぬから」この言葉が投げかける謎も、私の心を捉えて離さない。この言葉の主語はだれなのか。日本の為政者なのか。敵国の指導者なのか。それとも今ここに暮らす人々なのか。ここに立つ私たち自身なのか。過ちとはなんなのか。
ただ私は、自分自身のとらえる世界と共にここに立っている。この言葉は、いったいこれはどういう意味なのかと何度も考えさせるため、あえて問い直させるための仕掛けなのだ。
Hiroshimas
「ノーモア・ヒロシマ」。
この言葉を英語で表記すると、“ No more Hiroshima. ” ではないことを知っているだろうか。
「広島は繰り返すな」「二度と広島のような街があってはならない」という意味なので “No more Hiroshimas.” と複数形にしなくてはならないのだ。
ただ、私たち自身は、この言葉にも複雑な感情を持つ。私たちには、長崎という街もあるからだ。
2016年5月27日、第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマは広島を訪問した。
「空から死が降ってきて、世界は変わってしまいました。」
やはり天災のように語りはじめる。謝罪の言葉はない。そんなことはさすがに期待できない。だが彼は言った。
「私の国のように核を保有する国々は、恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければなりません。」
「私の生きている間に、この目標は実現できないかもしれません。しかし、たゆまぬ努力によって、悲劇が起きる可能性は減らすことができます。」
しかし、彼の感動的な演説には大きな矛盾があった。傍らに黒いブリーフケースを持った軍人が立っていたからである。
それは大統領が核攻撃を許可する装置が入ったもので「核のフットボール」と呼ばれている。その日、世界で初めて原子爆弾が投下された広島が、核兵器の発射基地になっていたのだ。それは唯一の被爆国でありながらアメリカの「核の傘」の下で生きる日本の姿をも表している。
私は、この矛盾を責めることはできない。またオバマ氏の願いを嘘だとして冷笑することもしない。合衆国大統領はこう締めくくった。
「私たちが広島を訪れる理由、それは私たちが愛する人のことを考えるためです。朝起きて最初に見る子どもたちの笑顔や、食卓での伴侶との優しい触れあい、親からの心安らぐ抱擁のことを考えるためです。」
私たちは、そうだ、その通りだ、私もそう思う、という気持ちを、言葉を、大切にしなければならない。
私の生きている間にも、それは実現しないかもしれない。だが、私も一発であろうとも、核兵器がない世界を夢想しないではいられない。
長い一日の終わりに、私たちはこの地の名物を食べた。みな心の中は複雑だが、今日一日のこと、そしてこれからのことを話す。
その途中で突然、疲れすぎていたのか、私は気を失うように崩れ落ちてしまった。向かいに座っていた今井さんが驚いてカメラを構える。
私は腰を強打し、肘の皮膚を大きく擦りむいてしまった。しかし、この痛みは数十万人の痛みの、数十万分の一の痛みとして、私の「コア・アフェクト」として刻まれるであろう。偶然ではないような気がしている。
私の小さな「恥」に、みんなが優しい言葉をかけてくれる。椅子から落ちた私に、お店の人が驚きながら鉄板で焼いてくれた料理に、こんなマークを描いてくれた。
「なかよく分けてくださいね」
文・写真
田中泰延(たなかひろのぶ)
1969年、広島県生まれの父と香川県生まれの母との間に大阪で生まれる。
1993年に株式会社 電通に入社、コピーライターとして24年間勤務後退職し、ライターとして活動を始める。2019年6月、初の著書『読みたいことを、書けばいい。』を上梓。
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