広島
幡野広志
東京から広島へは新幹線なら4時間、飛行機なら90分で到着する。早く到着するとおもって飛行機にとびつくのは広島初心者だ。広島空港はとってもアクセスの悪い場所にあり、空港から広島市内まで1時間ほどかかってしまう。
羽田空港までのアクセスや搭乗するための時間的余裕を考えると、結局4時間ぐらいかかってしまうのだ。新幹線で行こうが飛行機で行こうが、着席している時間の長さの違いしかない。広島に行くときに新幹線か飛行機にするか迷ってしまうけど、いまのところぼくが辿り着いた答えは、広島へは新幹線のグリーン席で行くのがベストだ。
料金は飛行機のエコノミークラスとあまり変わらずに、着席している時間の質を大幅に向上できる。隣の席に人が座ることもほぼない。東京駅の大丸で激烈に美味しい玉子サンドを購入して持ち込めば完璧だ。
だけど新神戸を通過したあたりで、やっぱり飛行機にすればよかったと後悔をしはじめて、広島県内の福山を通過したあたりでトドメを刺される。どんだけ広島はでかいんだ。4時間も座り続けるのはやっぱりつらい。東京の人間にとって広島は遠く大きいのだ。飛行機で行く沖縄や北海道や九州の方が圧倒的に近く感じる。
時間をつぶそうと今回のために購入したカメラのレンズをいじくる。1938年のドイツで製造された、エルマーの3.5cmというレンズだ。戦前のレンズがデジタルカメラになった現代のライカに使えることはすごいけど、はっきりいってとても使いにくい。
今回、広島にしばらく滞在して原爆をテーマに写真を撮ることになった。けっこう難しいテーマなので、断ろうかとおもった。そもそもぼくは広島の原爆被害のこともほとんど知らない。
小学生のときに読んだ「はだしのゲン」や、中学生のときに修学旅行で広島平和記念資料館を訪れたり、原爆ドームの前で被爆者の方から当時の話を聞いたという程度だ。内容は断片的にしか覚えていないし、ぼんやりと核兵器はダメだよね程度の認識しかない。
大人になってから何度も広島を訪れているけど、紙屋町か八丁堀あたりで焼き牡蠣をつまみにレモンチューハイを飲み、お好み焼きを食べてカープグッズと生もみじ饅頭をお土産に買うことぐらいしかしていない。
広島に縁もゆかりもなく原爆の知識もないけど、これを機会に縁とゆかりをつくって、原爆のことを広島で勉強しようとおもった次第だ。戦前のレンズを用意したのは、原爆投下の前後数年の広島でも使われていたであろうレンズで、現代の広島を撮影したかったからだ。
昔の写真を見ると、当然ながら荒いモノクロ写真だ。この荒さとモノクロがゆえに、リアリティが薄れてしまうような気がしている。すこし極端なことをいえば、モノクロ写真によって遠い過去の史実にさせてしまっているような気がする。
これを一気にくつがえしたのが、過去のモノクロ写真をAIでカラー化させた、東京大学の庭田杏珠さんと渡邉英徳さんのプロジェクトだ。
著書「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争」はカラー化したことでリアリティが一気に向上する。モノクロ写真では感じられなかった感情が揺さぶられる。過去の景色を現代に引っ張り上げ、過去と現代の時差や溝を埋めるような、とても素晴らしい作品だ。
ぼくは現代の広島を戦前のレンズでモノクロ写真にすることで、過去に引き戻そうと考えている。もちろん写っている景色は現代だけど、過去の方向によらせて現代との時差や溝を少しでも埋めたい。
カラーで撮ることで視覚的に発展や平和は表現できるし、モノクロの陰影で表現をするよりも、カラーの色彩で表現する方が正直なところ楽だ。だけどカラーで撮影したらなんだか、副作用として過去を置いてきぼりにしてしまうような気がするのだ。
クドクドとモノクロ写真にした理由を書いているのは、書かないとまったく伝わらんだろうなぁ…とおもっているからだ。言葉がなくとも感情を揺さぶる作品にした、庭田さんと渡邉さんには到底かなわない。
そんなお二人の作品が広島市立図書館で展示されていたので、まず最初に向かってみた。図書館には様々な資料とともに5点のカラー写真が展示されていた。真ん中の二人の子どもは兄妹だそうだ。
撮影された6年後に原爆が投下された。お兄ちゃんは被爆して重症になった妹を背負い、2km以上の道のりを炎から逃げながら、妹を診療所に連れて行った。その後お兄ちゃんは亡くなり、妹も消息不明になったそうだ。
図書館のすぐ近くに原爆ドームがあるので行ってみた。ここにくるのは15年ぶりだ。15年前に日本中を旅してたころ原爆ドームの写真を撮っていた。それを見ていたおじさんに声をかけられ原爆の説明をされたり、こっちから撮るといいよ的な感じで公園内をなかば強引に案内された。
これが海外だと最後にお金を要求されるんだよなぁ…なんておもっていると、おじさんから最後に案内料として2000円を要求された。広島ジョークかとおもって笑っていると、おじさんがマジ切れしてきたので、最終的に1000円に値切って支払った経験がある。あのおじさんはもういない。
たくさんの修学旅行の中学生がガイドさんに案内をされたり、被爆者の語り部らしき方から話を聞いている。ぼくも中学生の頃におなじことをしてもらったけど、そのころは語り部の方が大人になってから被爆をしていたり、若い語り部さんもおおかっただろうし貴重な経験だったのだといまではおもう。
当時8歳で被爆した方でも、現在では84歳と高齢だ。なんとか被爆者の方からお話を聞けないかダメもとでお願いをしてみると、84歳の八幡照子さんが快諾をしてくださった。
PCR検査で陰性になっているとはいえ、東京からきた見ず知らずの若い人と会うのは、きっとご本人もご家族の方も嫌だろう。できれば東京から来たことを隠したいぐらいだ。
こちらが八幡さんに恐縮しきっていると、八幡さんはいつもと変わらぬという感じで接してくれた。八幡さんと会ったことがある人は、みんなおなじ感想を抱くのではないだろうか。とにかく明るくておしゃべりが好きで、どこか自分の心配よりも人の心配をしてしまうような女性だ。
八幡さんが明るい口調で話してくれた内容は、聞いていて苦しくなるものだった。もしかしたら、聞いているこちらの心理的な負担を軽減させるために、明るく話してくれているのかもしれない。
八幡さんは8歳のときに被爆、爆風で意識を失った。気がつくと粉塵で周囲は暗く、なにも見えなかったそうだ。半壊した自宅でお母さんが布団を出して「みんなで死のう、みんな一緒よ」といったそうだ。
このとき2発目、3発目の爆弾が落とされると考えたそうで、まず助からないとおもったそうだ。家族全員で布団にはいって死を覚悟したときに、八幡さんは家族の温もりを感じてしあわせを感じたそうだ。
「はだしのゲン」にこんな描写がある。爆風で倒壊した自宅に主人公ゲンの父と姉と弟が挟まれて身動きがとれなくなり、そこに火の手が迫る。ゲンと母は一緒に死にたいというが、父は逃げて生きろという。
もしも自分が挟まれた立場であったら当然、妻と子どもに逃げろというだろう。だけどもしも、妻と子どもが挟まれていたらぼくは一緒に死のうとするだろう。子どものころは逃げることが正解で、一緒に死ぬことなんて大間違いだとおもっていたけど、大人になり家族ができると一緒に死ぬことが大間違いだとはおもえなくなった。
「はだしのゲン」は作者の中沢啓治さんの実体験を元に描かれている。中沢さんも原爆投下で父と姉と弟を失っている。ゲンの父、大吉は中沢さんの父親がモデルのため、中沢さんの顔と大吉の顔はとても似ている。
八幡さんとご家族はその後、山口県で避難生活をおくった。家族は全員無事でお父さんは明治製菓に勤めていたが、生活はとても苦しかったそうだ。闇市での物価高騰、着物など食料と交換するものもなく、畑もないため食べるものがまったくなかったそうだ。戦時中よりも圧倒的に食糧事情は悪化した。
少しのお米をお水いっぱいで炊いて、それを家族でわける。重湯をたくさん飲んで、スプーン2杯程度のお米を食べるという生活だったそうだ。小学生だった八幡さんは状況を理解して我慢をしたけど、3歳だったちいさな弟は「すくってもすくっても、ごはんがない」と泣いていたそうだ。あのとき弟に自分のご飯をわけてあげればといまでも後悔するけど、あのときは自分のことで精一杯だったそうだ。
八幡さんの話を聞いていて言葉に詰まる。中学生のときに八幡さんの話を聞いていたら、八幡さんの立場になった感想だったかもしれないけど、ぼくには5歳の子どもがいる。八幡さんのご両親の立場になってみると、自分の空腹を耐えることができても、ちいさな子どもが極限といっていいほどの空腹になっていることに耐えられるだろうか。
八幡さんはこのときの反動なのか、美味しいものを人に食べさせるのが大好きだそうだ。広島で被爆したことを他府県の人にいうことで、嫌な経験もしている。東京から来たぼくと会っても嫌な顔をまったくしなかったのは、そういう経験があるからこそなのかもしれない。写真を数枚撮らせてもらって八幡さんとわかれた。
広島平和記念資料館に行ってみた、2019年にリニューアルをして展示をガラリと変えている。リニューアル前は皮膚が垂れ下がった人形などが展示されていて、怖かった印象がある。現在は徹底的に実物主義にこだわり、作り物の展示はやめたそうだ。
大きく引き伸ばされた子どもたちと教師の集合写真がある。彼らはみんな笑顔だ、なんと声をかけて撮ったのだろう。この写真をファインダーごしにのぞいて見ると、本当に彼らを撮影しているような錯覚になる。撮った写真をパソコンで見返してもそんな錯覚はない、ファインダーをのぞいたときだけ錯覚する。
展示の入り口に顔と右手を負傷した苦しそうな表情の少女の写真がある。これがもしもカラー写真だったら、直視ができないかもしれない。
被爆直後の広島市内の写真もある、被爆直後ということは広島の方が撮影をしたのだろう。縁もゆかりもない地域の惨状は、心を他人事にすることで撮影することができたりする。でも自分の街の惨状を撮ることができるだろうか。きっと顔と右手を負傷した少女の写真だって、少女の親は撮れないだろう。
「鬼畜に見られようが、冷酷なやつと思われようが一枚でも写真にするのだ…」当時の新聞には撮影した報道カメラマンの苦悩がこう綴られている。もしかしたら当時はこの撮影者が批難されたかもしれない。ぼくは写真を撮ってくれて感謝をしている。ぼんやりと核兵器はいけないものという認識が、ハッキリと鮮明になる。
薄暗い展示室に、お弁当箱と水筒が展示してある。被爆で亡くなった13歳の少年の遺体を母親が見つけたとき一緒に発見されたそうだ。お弁当箱も中に入ったご飯とジャガイモの油炒めも実物だ。レプリカのお弁当箱はあるけど、実物主義を徹底させている。
「実物の保存状態を守るために照明を暗くしているんですよ」そう教えてくれたのは館長の滝川さんだ。なんでわざわざ館長さんが案内役なんじゃ…おもわず広島弁で心の中でつぶやいた。ありがたいんだけど、こういっちゃなんだけど新人ぐらいでいいんよ。
「ちょっと前にバッハ会長を案内しましたよ」と笑いながら気さくに話してくれる。どんどんこちらのプレッシャーがはね上がる。
佐々木禎子さんが入院中に折った鶴が展示されていた。禎子さんは2歳で被爆し、小学6年生の冬に白血病と診断される。禎子さんのお父さんが小学校の卒業証書を受けとり、中学校に通うことはできず中学1年生の秋、12歳で亡くなっている。白血病が発覚して8ヶ月あまりだ。
禎子さんは千羽鶴を折れば元気になると信じて鶴を折りつづけた。折り鶴が展示されているけど、ここには禎子さんの祈りが展示されていた。
ぼくは白血病の親戚のような、多発性骨髄腫という血液のがん患者だ。禎子さんの時代から飛躍的に医療が進歩したおかげで、生きてはいるが残念ながら治る病気ではない。いつか来る死をのんきに待ちながら生きている。
ほんの少し、本当にほんの少しだけど、禎子さんの心情も身体の苦しみも理解できるつもりだ。悔しさも怒りも理不尽さも、気が遠くなるほどの苦しみも。死んだ方がマシだとおもうことがあるほど苦しい病気だ。
現実的なことをいえば鶴を折って元気になるほど優しい病気ではない。だけどもしも禎子さんとおなじ病院に入院していたら、きっとぼくも禎子さんのために毎日鶴を折るだろう。禎子さんの展示は自分と重なりすぎて苦しかった。
展示の最後にまた顔と右手に負傷した少女の写真があった。隣には笑顔の女性の写真がある。2年前のリニューアルで負傷した少女の写真を検討しているときに、もしかしたら自分の母親かもしれないと申し出があったそうだ。写真を鑑定した結果本人だと判明した。
負傷した少女は生きていた。大人になって家族もいる。最後にこんなに救われるような気持ちになるとはおもわなかった。素晴らしい展示だ。しかし42歳でがんで亡くなったと説明された。
またググッと気持ちが落ち込むが、彼女のことも禎子さんのこともぼくは不幸だとはおもいたくない。他人から不幸だとおもわれることが、苦しさの一つであることをがん患者として知っているからだ。
館長の滝川さんは原爆被害のことを伝承していくことがこれからの課題だという。被爆者の高齢化は止めることができない。
76年前に原爆が投下されて、被爆した方々がいる。被爆者のお子さんもお孫さんもいる。世代が変われば変わるほど、そして広島から物理的に距離が離れるほど、どうしても過去の記憶は薄れてしまうだろう。
あたらしい世代にはあたらしい世代の記憶が鮮明にあるからだ。広島の被爆者にとっての“あの日”という言葉は8月6日のことだろう。長崎の被爆者にとっては8月9日があの日になる。玉音放送を聞いた人たちのあの日は8月15日かもしれない。
阪神淡路大震災や東日本大地震を体験した人にもあの日がある。家族や大切な誰かを失った日があの日にもなる。新型コロナウイルスが蔓延した時期があの日になった人も大勢いるだろう。生活が一変した日があの日になる。ぼくも自分の病気がわかった日があの日になっている。
広島と長崎の原爆投下から終戦になったことで“あの日”がきっかけで戦争が終わったものだとおもっていた。だけど広島と長崎の方々は“あの日”から始まってるのだ。人それぞれの、見知らぬ誰かの“あの日”を大切にしたい。
館長の滝川さんはとにかく展示を見てほしいという。ぼくもまったく同感だ、展示を日本中の人にも世界中の人にも見てほしい。核兵器については様々な意見があるだろう。ぼくは核兵器の根絶は現実的には不可能だとおもっている。核保有国が手放すとは考えられないからだ。核兵器を製造する技術がある以上、これから核兵器を持ちたいという国だってあるだろう。
広島平和記念資料館の展示を見れば、核兵器を使ってはいけないということがよくわかる。核保有国に核の抑止力があるならば、広島の核の抑止力は広島平和記念資料館の展示だろう。
修学旅行で広島平和記念資料館で訪れた人もぜひまた訪れてほしい。大人になってからみるとまったく感じ方が違う。「はだしのゲン」を子どものころに読んだときは、主人公ゲンの視点で読んでいた。大人になって読み直してみると、親の視点で読んでしまう。視点が変わると、受けとり方も感じ方も変わる。
子どものころによく見たジブリ映画や、サザエさんだってそうだ。子どものときはカツオの視点で見ていたけど、いまではマスオさんの視点で見ている。マスオさんの人格者っぷりを自分と比較して落ち込むほどだ。
広島のことを伝えていく上で被爆者の高齢化は懸念材料かもしれない、だけど伝えられる側の年齢的な成長にも期待をしてもいいのかもしれない。
8月6日の平和祈念式典に参加できることになった。コロナ禍の影響で来賓客も報道関係者も人数制限しているところを、記者としてプレスパスと席が用意された。宿泊しているホテルには国内外の要人が泊まっていたようで、前日から警備が厳重になりSPが何人もいた。ロビーを移動するだけでジロリとチェックされる。
式典の時間よりもはやく平和記念公園に向かった。原爆ドームの前では拡声器を使ったデモ隊が核兵器反対のシュプレヒコールを叫んでいる。それはわかる、ぼくも反対だ。だけど日本は核兵器を所有していないし、所有の動きもない。所有の動きがあれば国民も野党も大反対だろう。それどころか核保有国のアメリカも中国も許さないはずだ。
8月6日は静かに祈ろうというプラカードを掲げた無言のデモ隊もいる。拡声器を使ったデモ隊とは対立関係にあるのか、両者の間には警官隊がいる。静かに祈ろうというデモ隊だって警官隊だって核兵器は反対だろう。拡声器を使ったデモには疑問を感じた。
式典がはじまる直前、慰霊碑に献水がされた。被爆した人々は水を求めた。ただでさえ今日とおなじように真夏の暑い日だ。水を飲んで亡くなった人も、最後まで水を飲めずに亡くなった人も多かっただろう。
式典がはじまると4800人の新たに亡くなった原爆死没者の名簿が奉納された。合わせてこれまでに32万8929人の名簿が慰霊碑に奉納されている。
菅総理がスピーチ原稿を読み飛ばしたことがニュースになっていたが、現場で聞いていたぼくは気づかなかった。テレビと違って字幕があるわけではないし、それよりも静まりかえった会場で菅総理がスピーチをしているときに「菅、帰れー!!」と叫ぶデモ隊の声が気になってしまった。
このタイミングを狙ってのヤジなのだろうけど、なにもいまこのタイミングでヤジを飛ばさんでも…。ぼくは記者という立場だったけど、式典に参加した一人としては静かに祈りたかった。デモ隊の拡声器は毎年あるのだろうか?広島の方々はこれを許容しているのだろうか。
式典が終わったあとに八幡さんを見かけた。声をかけるとぼくのことを覚えていてくれた。「コンタクトレンズを落としちゃって今日はメガネなのよ」と笑いながら教えてくれた。
あれっ?前に会ったときもメガネだったよなとおもったけど、前に会ったときよりも度の強いメガネをしていることに気がついた。普段は強い度数のコンタクトレンズをつけて、弱い度数のメガネをしているのだろう。八幡さんのお洒落なのだ。
「あなたお水持ってる?お水あげるわよ」そういいながら、カバンからペットボトルの水をだしてぼくに渡そうとする。記者の立場で式典にお邪魔しているのに、来賓の八幡さんからお水を貰うわけにはいかないし、ぼくのカバンにも水のペットボトルが入っているので断るが、八幡さんは何度もお水を渡そうとする。
八幡さんと挨拶して別れたあと、お水を貰わなかったことを少し後悔した。八幡さんはお水をあげたかったのだ。ぼくがお水を貰って感謝をすることで、八幡さんの76年前の後悔や恐怖の記憶をほんの少しでも薄めることができたのかもしれない。
次にもしも八幡さんと会うことができたら、お言葉に甘えよう。来年の夏もまた広島を訪れよう。
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