「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑」 ~原爆投下後に襲った枕崎台風~
広島市の中心部から国道2号線を西におよそ30㎞。瀬戸内海を臨む温泉地として親しまれる広島県廿日市市宮浜温泉の米山広場に,「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑」が建立されています。この碑は,1945年(昭和20年)9月17日,現地を襲った枕崎台風によって起きた大規模土砂災害で亡くなった方々の慰霊碑として建てられました。この中には,当時,原爆の被害調査を陸軍から依頼された京都大学の調査班が広島を訪れ,この調査中に土砂災害の犠牲となった班員11名も含まれています。
広島への原爆投下から1か月余り後,原爆の惨禍をくぐり抜けながらやっとの思いで生き延びた被爆者にとって,台風による大災害は二重の災厄というべきものでした。今回は原爆の直接的な慰霊碑ではありませんが,原爆関連の慰霊碑としてご紹介します。
(報告者:広島県平和推進プロジェクト・チーム職員)
広島県廿日市市宮浜温泉の米山広場にある
「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑」
1 枕崎台風について
枕崎台風とは,1945年(昭和20年)9月17日,九州南部の枕崎(鹿児島県枕崎市)付近に上陸した台風です。枕崎台風は,17日の14時35分頃,九州南部に当たる枕崎付近に上陸し,九州を横断,佐田岬(愛媛県),伊予灘(愛媛県),広島を襲い,米子(鳥取県),松江(島根県)を荒らして18日朝,能登半島の西側から日本海に抜け,新潟の北から東北地方へ再上陸して太平洋を抜けました。雨が最も強かったのは,17日21時7分から22時7分までの1時間で57.1mmの雨量を観測しています。被害が最も大きかったのは,広島市,呉市及びその周辺で,広島県全体では死者総数2,012人に及び,大野村(現広島県廿日市市大野町)では丸石川で大規模土石流が発生し,この丸石川が下流部の大野陸軍病院を直撃したのです。
2 「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑」の由来
当時,大野村尾立(現廿日市市宮浜温泉)には約800人を収容する大野陸軍病院があり,その中央の病棟に約100人,また,国民学校(現大野西小学校)に約1,500人の被爆者が収容されていました。
1945年(昭和20年)8月27日,原爆被爆者災害の調査と早急な対策を講じるため,中国軍管区司令部から研究員派遣の要請を受けた京都大学は,直ちに医学部の教授陣を中心とし,理学部物理学者を加えた研究班を組織して来広しました。同年9月3日から大野陸軍病院に本拠地を置き,診療・研究を開始しました。しかし,同年9月17日からこの地方を枕崎台風が襲い,同夜10時30分頃,土石流が発生し,一瞬にして大野陸軍病院の中央部を壊滅させ,山陽本線を越えて海に押し流しました。
これにより,大野陸軍病院に入院中の被爆者のほとんど全員と職員あわせて156名の尊い生命が奪われました。この中には日夜原爆への対策,調査,研究に献身した研究班11名の殉職者が含まれています。
1970年(昭和45年)9月,この記念碑が建立され,碑文と京大関係殉職者11名の名前が碑の中央部にはめ込まれています。この碑は,三角形のコンクリート造の壁4面を四方からそびえ立つように組み合わせた形になっています。このデザインは,碑文にもあるように,「大地から天に向けて舞い上がる人間の復活を象徴しており,京都大学関係者を含め,犠牲者の方々の追悼と恒久平和の祈りを表しています。」碑前では,毎年9月17日前後の休日を選んで慰霊行事が行われています。
【参考文献】
「昭和20年9月『枕崎台風』」広島県
「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑の由来」碑文
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