老舗と戦争 オタフクソース
広島で歴史を重ねる企業に着目し、戦時・戦後のあゆみや、平和都市「ひろしま」にある企業としての役割や志などを伺い、広島の未来の手がかりをひも解きます。
今回ご紹介するのは、1922年(大正11年)創業の「オタフクソース」。2022年に100周年を迎える歴史ある企業です。広報部部長の大内康隆さんに、オタフクソースの戦時・戦後のあゆみと展望を伺いました。
原点は「人のお役に立ちたい」
創業当時の佐々木商店前
創業者・佐々木清一が「人のお役に立ちたい」という思いから商いを始め、酒と醤油類の卸小売業として広島市横川町で創業しました。そして、お客様の好みに合わせて数種類の醤油や酒を調合する技術を生かし、「ものづくりを通じて人様に貢献したい」という思いが強くあったために酢造りを始めました。「お多福」の名前の由来となっています。
1945年(昭和20年)の原爆投下により、横川にあった住居兼醸造所は焼失したのですが、幸いなことに、創業者夫婦と息子さんや娘さんらも全員無事でした。焼け野原となった町でありながら、あきらめることなく家族みんなで前向きに生きていこうと食堂を開き、その後、広島市祇園町長束にあった酒屋さんに間借りをして、酢の製造を再開しました。
広報部部長の大内さん
その頃、機材を納入していた方からソース製造をすすめられ、ウスターソースができたのが1950年(昭和25年)のことです。
お好み焼用ソース
しかし、当時はソースメーカーがすでに何社もあり、扱う問屋さんも特約店制度が敷かれていたため、当社が入り込むことは困難でした。そこで、販売先として開拓していったのが、小規模の小売店さんや、戦後に広まってきたお好み焼店さんだったのです。持ち前の人望と明るさでソースはまたたくまに広まっていきました。
「ものごとはすべて善意に解釈し、感謝の心で明るく前向きに積極的に行動します」という考えは、現在も「社員心得」として全社員が心掛けています。
社員全員が平和と向き合う
当社にある石碑には、「真の道を悟り 深くざんげし合い 世界平和を 心から 祈りましょう」という創業者の言葉が刻まれています
戦後、お好み焼の原型となった一銭洋食をきっかけに、昭和30年代になると住宅の一部を改装してお好み焼を提供する新しいスタイルが増えました。そうして広島の人々のお腹を満たす食事として発展してきた「お好み焼」に関わる企業として、当社では毎年8月6日、会長や相談役など戦争や原爆を経験された方に自身の体験を直接話していただき、当時のことを若い社員に伝えるようにしています。また、当社のホームページでは「お好み焼の語り部」
(https://www.otafuku.co.jp/okonomiyaki/history/kataribe/)という形で、戦後にお好み焼店を営んだ方にヒアリングを行い、お店の歴史や思い出を掲載しています。広島お好み焼が発展した頃の貴重なお話を残しておくことに使命を感じ、こうした取り組みを行っています。
また、今年被爆75年ということで、お好み焼が広まった昭和30年代のお好み焼にまつわる皆さんの思い出を残しておきたいと考え、広くエッセイを募集する企画を行いました。RCCラジオ特別番組「お好み焼のある風景」(https://radio.rcc.jp/okonomi/)番組内で、ラジオドラマとして紹介する予定です。
オタフクソース株式会社
1922年(大正11年)、佐々木清一氏が広島市横川町で、酒、醤油類の卸小売業「佐々木商店」を創業し、その後、醸造酢の製造を開始。ブランド名を「お多福」とする。1945年(昭和20年)の原爆投下により全焼するが、1946年(昭和21年)には広島市祇園町長束の酒造蔵を借り受け、醸造酢の製造を再開する。その後、1950年(昭和25年)にソースの製造・販売を始め、現在に至る。
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