老舗と戦争 マルニ木工
平和都市・広島にある数々の老舗企業は、戦時下、そして戦後をどのように乗り越えてきたのでしょう。創業当時の様子や、戦前戦後のあゆみを振り返りながら、企業がどのように平和都市と関わり、模索してきたのかを紐解きます。今回は、昭和3(1928)年創業『マルニ木工』、代表取締役社長の山中武さんにお話を伺いました。
マルニ木工の真髄である「工芸の工業化」
私たちの会社は、創業者の山中武夫が木の持ち味を生かした宮島細工などの伝統工芸に魅せられたところから始まります。まるで手品のように形を変える木の不思議さに魅了され、家具メーカーであるドイツのトーネット社などの技術を参考に、「木材の曲げ技術」を確立。
現在の九州工業大学を卒業している創業者は、独学で機械や家具づくりの勉強を重ね、マルニ木工の真髄である「工芸の工業化」を打ち立てたのです。職人が手作業で一つひとつ作るような工芸品を機械で量産できれば、より多くの人にハイクオリティーの家具を安価でお届けすることができます。
こうして創業年である昭和3(1928)年に誕生した「曲木椅子(銀行椅子)」を皮切りに、角椅子と総称された「38号(別名サンパチ)」、国鉄に多く納められた「113号(鉄道回転)」など、次々とヒット商品を生み出しました。
技術を買われ指定軍需工場に
しかしながら1930年代後半に入ると、戦争の足音がすぐそこまで忍び寄ってきます。確かな技術を買われた当社は軍需工場に指定され、多数の軍需品製造にあたるようになりました。軍馬用のかいば桶、テント用支柱棒、輸送用のなわばしごなど。戦争末期には戦闘機の尾翼や、燃料タンクである落下増槽まで木製で手掛けており、それらの事実から、どれほど戦況が追い詰められていたかが伺えます。
男は戦地へ赴き不在だったため、学徒動員で来ていた女学生が製作にあたっていたそうです。当時の記録に人々の心情までは記されていませんが、「お国のために」と、ただただ一生懸命に取り組んでいたのでしょう。8月6日の原爆投下時は、会社が木材港のある広島県廿日市に位置していたため、かろうじて原爆の被害から逃れることができました。また、この頃、設計の正確性や強度が求められる尾翼や燃料タンクの製造を手掛けたことで、当社の技術は格段に飛躍したといわれています 。
「HIROSHIMA」の名と共に世界へ羽ばたく
戦後、再興のきっかけとなったのは進駐軍からの家具の大量注文でした。提示された仕様書に基づいて生産された家具は、当社の洋家具の方向性を明確にしました。
その後、デッキチェア「オアシス」が爆発的なヒット製品となり、当社の生産能力拡大の大きなきっかけとなりました。そして、家具は日本の経済成長と共に生活の豊かさを反映するように、より華やかに豪奢に成長します。
しかしバブル崩壊後は、海外から安価な木材や家具が流れ込み大変な窮地に追い込まれました。会社の存続の危機も一度や二度ではありません。その度に地元の企業の方々が手を差し伸べてくれ、何とか踏みとどまることができたのです。「会社は過渡期にきている、変わらなければ」。
そう感じた私たちは、原点である「工芸の工業化」に立ち返り、外部デザイナーと手を組みプロジェクトを開始。
思いを誰よりも理解してくれたデザイナー・深澤直人さんに依頼し、新しい代表作である「HIROSHIMAアームチェア」を平成20(2008)年に発売しました。 シンプルでありながら、技術力があるからこそできるデザインの美しさと機能性を極限まで高めたこの椅子は、発表と同時に評判が広がりました。
現在HIROSHIMAアームチェアは、アップル本社をはじめオーストラリアのホテル「Pier One Sydney Harbour」や、コーヒーショップ「Blue Bottle Coffee」など、世界のトップ企業やハイブランドホテルなどで使用されています。
命名にあたり、「広島という地名が戦争の凄惨な過去を思い起こさせる負のイメージを与えるのでは」と心配もしましたが、今ではこんなに良い名前はほかになかったと感じています。
平和都市・広島の名が、この椅子と共に世界で認知されるようになればこれほど嬉しいことはありません。もしもどこかで、この椅子を使ってくれている誰かが、広島のことや平和について思いを馳せてくれたら本望です。
会社紹介
株式会社マルニ木工
昭和3(1928)年、「職人の手によらない分業による家具の工業生産」を目指し『昭和曲木工場』として創業。その後『沼田木工所』と合併、『株式会社マルニ木工 』として再出発し2つの輪をリンクさせた社章を掲げる。現在は佐伯区湯来町にある本社をはじめ、3つのグループ企業を経営。100年経っても「世界の定番」として認められる木工家具づくりを目指し、発信している。
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