当サイトを最適な状態で閲覧していただくにはブラウザのJavaScriptを有効にしてご利用下さい。
JavaScriptを無効のままご覧いただいた場合には一部機能がご利用頂けない場合や正しい情報を取得できない場合がございます。

国際平和拠点ひろしま

私の8月6日
アナウンサーとして伝えられること(中根夕希)



被爆から78年の8月6日ヒロシマ。

年を重ねるごとに身が引き締まります。

実はそう思えるまでに、私は少し時間がかかりましたが、

この夏も大事に過ごしたいと思っています。


はじめに。


「はじめまして。RCCアナウンサーの中根夕希です」

22歳だった9年前、この業界で言う“初鳴き”を終え、

私はアナウンサーとしてデビューしました。

広島での生活が始まったのは2014年の春でした。

小学生の頃からの夢だったアナウンサーになることができて、ちょっとの不安と大きなわくわく感……自分に対する謎の期待であふれていました (笑)。

初めて住む広島は路面電車が走り、いく筋もの川が流れ、緑がとても多くて穏やかな街の印象でした。まだ会社で研修中だった頃、時間を見つけてはよく市内を散歩していました。

当時、「広島で好きな場所はどこですか」と聞かれると「平和公園です!」と、無邪気に答えていたのをよく覚えています。今思えばヒヤッとしてしまうこの答え……。「ここで何が起きたのかちゃんと理解して言ってる?」と、あの頃の自分に説教をしたいくらい未熟でした。

アナウンサーとして広島で過ごした9年の間にRCCラジオ『ごぜん様さま』、RCCテレビでは『ニュース6』『Eタウンスポーツ』『イマナマ!』を担当してきました。

その間で、広島土砂災害や西日本豪雨、広島カープの3連覇、オバマ元米大統領の来広、今年はG7広島サミットなど、広島の歴史に刻まれる多くの出来事に携わってきました。広島のアナウンサーとして、非常に濃い時間を歩んできたと、つくづく感じています。

そして、アナウンサーとして10年目を迎えた今、この度、エッセイを書く機会をいただけました。県外からやってきて、知識も乏しかった入社からの9年間。僅かながらも経験を積んだ私の心の変化をありのままに(ちょっぴり怖いですが)綴ってみようと思います。どうぞ最後まで読んでいただけると幸いです。


初めて見る8月6日


学生の頃、テレビの中では何度か見たことのあった平和記念式典。とは言っても私が見ていたのは全国ニュースで流れる一部分だけ。式典全体をリアルタイムで見たことはありませんでした。入社した2014年、研修の一環として「PRESS」と書かれたパスを携行し、式典が行われる平和公園内に入らせていただきました。この年は、珍しく雨が降る中での式典。実際に見学すると、会場に流れる音楽、訪れる人の多さ、お線香のにおいなど……触れる全てのものが新鮮で、テレビの映像から自分がイメージしていたものとかなり異なる空気が流れていました。さらに驚いたのは式典後、平和公園内を歩いていると、あらゆるところで音楽ライブをしている人、アート展を開いている人、演説をしている人、デモ行進を行っている人たちの姿がありました。

「8月6日は静かにお祈りをするだけではないんだ……! やはり現場に行ってこそわかることがあるというのは、こういうことなのか」と実感させられた瞬間でした。こうして私にとって初めての8月6日は驚きと発見の連続となりました。


8・6をニュースで伝えるということ


入社1年目。何もわからないままの私が、報道番組『ニュース6』を担当。2年目にはメインキャスターの一人になりました。恐ろしくも大変ありがたいお話でした。ただ当時は不安でいっぱいの日々……というのも、福岡県で生まれ育った私は、残念ながらいわゆる“平和教育”を受けたことがありませんでした。父や母の話を聞くと、親の世代は8月6日が登校日になっており、平和学習もあったそうですが、私の世代では登校日すらなくなっていました。

そのため、原爆に関することについて学ぶ時間が極端に不足していました。広島では夏が近づくとともに、毎日何かしらの原爆・平和関連のニュースをお伝えしています。ニュースあとの感想など、コメントすることも増えていくのですが……。

「どのようにコメントすればいいのだろう」

事前に原稿を読み込み、ときには取材担当者に話を聞き、頭をクルクル悩ませながらなんとかコメントを絞り出す日々です。まだまだアナウンス技術もない上に知識も足りず、何を言ってもしっくりこない、中身のないきれいごとばかり口にする自分にうんざり。少しずつ“平和”について向き合うことができなくなり、自ら避けるようになっていきました。

2019年、そんな後ろ向きの姿勢を大きく変える出来事がありました。


広島生まれのおばあちゃん


私の祖母は広島県出身です。実家のある福岡県に帰省するときには、必ずもみじ饅頭を買って帰ります。祖母のお気に入りは、粒あん。




「粒あんはね、口に食感があるでしょ。だからね、おいしいの」

子どもの頃から大好きだったようで、いつもおいしそうにパクパクと頬張ります。

祖母は結婚を機に30歳で福岡県に移り住み、母が生まれ、私が生まれました。95歳となった今も福岡で元気に暮らしています。私が中学生の頃、祖母と母、妹の4人で広島に来たことがあります。母によると「一度でいいから、娘たちに祖母の被爆体験を聞いてほしい」という願いがあったそうです。祖母の親戚の方に会ったり、広島平和記念資料館を一緒に見に行ったり。そのとき、祖母は資料館に並べられた展示物の前でいろいろな話をしてくれました。ただ残念ながら、私はそのほとんどの記憶がありません。中学生だった私が唯一覚えているのは「爆風で屋根がストンッと落ちたちょうど隙間におばあちゃんはいて、奇跡的に生き残ったんだ……! おばあちゃんすごい!!!」ということ。その状況の深刻さ壮絶さは何一つわかっていませんでした。


あの時から15年。


夢が叶いアナウンサーとして経験を積む中で、祖母の被爆体験を改めてちゃんと聞きたいなぁという想いが募ってきました。今でも祖母の親戚は広島に住んでいるため、祖母は法事などがあれば、数年前まで一人で新幹線に乗って広島に来ていました。そのときにはいつも一緒にお好み焼きを食べに行き、肉玉そば一枚をぺろりと平らげるのが恒例となっていました。そんなある日、「最近、終活の一つとして被爆体験を綴った手記を書いたのよ」と話してくれました。「夕希ちゃんもよかったら読んでみて」と。広島県で生まれ育っていない、平和教育を十分に学んでいない私に、「伝える資格があるのか。言えることはあるのか」と、ニュースの中で悩みながら伝えてきたヒロシマ――。

6枚の原稿用紙に書き留められた祖母の壮絶な体験に、私は鳥肌と涙が止まりませんでした。

私が受け取った祖母の記憶を、皆さんにもお伝えしたいと思います。


おばあちゃんの戦争の記憶


1945年、祖母は広島女学院専門学校の一年生でした。当時、女学生は学徒動員に駆り出され工場などで働いていました。そして、先延ばしになっていた入学式がようやく行われることになり、たまたま登校日となったのが8月6日でした。

祖母の母は、久しぶりに学校に行く娘のために、新しい靴を買ってくれたそうです。祖母は、そのピカピカの靴を履いて友達に会うのを楽しみに学校へ向かいました。登校途中に一回、空襲警報が鳴り咄嗟に近くの防空壕に避難したそうですが、何もなかったのでそのまま学校へ。

そして、学校の礼拝堂で讃美歌のピアノの音色が響く中、8時15分がやってきました。

ピカーっ! と光って、気が付いたときには瓦礫の中に埋まっていたそうです。辺りは真っ暗。何も見えない中で「ここ空いてるよー! という声が聞こえてね。おばあちゃんはね、ちっちゃかったから、瓦礫の隙間からはい出たのよ」

祖母は瓦礫の中から奇跡的に生き残りました。ただ、礼拝堂には靴を脱いで入っているため、せっかくの靴は瓦礫の中に……。祖母は裸足のまま、広島の焼け野原を歩きました。

目指したのは学校の避難先となっていた牛田山。途中で水を求める被爆者に会い、池の水をすくって飲ませてあげたそうです。ようやくたどり着いた頃には、お腹もペコペコ。そこで見つけた青いトマトの話も綴られていました。

「あの頃はね、トマトが大っ嫌いだった。でもね、そこにはトマトしかなかったの。青いトマトがたった一つ。だからね、おいしい、おいしいって食べたのよ」

戦時中、家族で「何かあったときには、八本松のお寺に集合しよう」と決めていたそうです。

牛田山で不安な一夜を明かし、再び歩いて山を下りてたどり着いたのは海田駅。そこは人であふれていたそうです。ちっちゃかった祖母は、運よく貨物車両に乗せてもらい、八本松駅で降りて集合場所となっていたお寺へと向かいました。そこで祖母は、二人の姉と母親と再会することができました。ただ、しっかり者の長女と、可愛がっていた中学生の弟は帰ってきません。翌日、みんなで市内へ探しに行ったそうです。負傷者が運び込まれていると聞きつけて向かった似島。救護所となっていた己斐など……夏の太陽が照りつける中、焼け野原を母親と姉と無言で歩きつづけたといいます。残念ながら長女は被服支廠で働いていたときに、弟は建物疎開の作業中に原爆に遭い、亡くなっていました。

「お骨もないのよ。しょうがないねって言って帰ったのよ」

そして2年後、靴を新調してくれた大好きだった母親も、原爆症で亡くなってしまいました。

教科書で学んだ原爆の悲劇が、突然、登場人物として現れる……。そんな感覚でした。「あの焼け野原に、あの火傷をした方々がたくさんいらした中に、お水をあげていた一人に、私のおばあちゃんがいたのか……」と想像すると、その恐ろしさに今でも涙があふれます。
そして、私の中で何かが大きく変わりました。

このとき初めてヒロシマに向き合うことができたのかもしれません。





祖母の話を聞く中で印象的だったのは、祖母は「原爆に遭った思い出」と語ること。
もちろん家族や友達を失う、悲惨で悲しい記憶もたくさんあります。でも、そこにはピカピカの靴を買ってもらってうれしかったことや、もみじ饅頭を大事においしく食べていたこと、大嫌いだったトマトが好きになったこと。戦時下に生きる17歳の少女としての思い出もあったんだと……。

祖母の経験は、2019年の夏に『おばあちゃんから私へ』という一時間の特別番組で放送させていただきました。特集が全国にも放送されたこともあり、他県からもお手紙をいただくなど、その反響に大変驚きました。

生きているからこそ聴ける生の声。命を繋いでくれた祖母に感謝の想いを抱いて。大事に大事に、広島のアナウンサーとして平和の尊さを伝えていきたいと思っています。


取材を通して考える“平和”


祖母の想いを受け取った私は、何か祖母から託されたような……。福岡で生まれ育った私が祖母の故郷=広島でアナウンサーをしていることへの意味を考えるようになりました。そして、積極的に“平和”について考える取材に携わりたいと思うようになった去年、不思議な出会いがありました。

たまたま入ったお好み焼き店の店主から「今度、中東ヨルダンにお好み焼きを教えに行くんだ」という話を伺いました。

「えっ⁉ ヨルダン? ……んんん??!!」

ここから私にとって初となる企画取材が始まりました。

広島のソウルフード=お好み焼きを通した中東・ヨルダンと広島の平和の文化交流。

お好み焼きを追いかけて、私も中東・ヨルダンへと取材に向かいました。

プロジェクトのきっかけは、駐日ヨルダン大使の「中東・ヨルダンに広島のお好み焼きの味と歴史を伝えてほしい」という強い想いでした。

ヨルダン=ハシェミット王国は、イラク、シリア、イスラエルなど紛争当時国に囲まれ、今も多くの難民を今も受け入れている国です。パレスチナ難民キャンプで取材をすると、四世代にもわたって住み続けている家族の姿がありました。今では難民の多くがキャンプ内で生まれていることも初めて知りました。難民三世の方に「あなたの故郷はどこですか?」と聞くと――。

「僕の故郷はパレスチナだよ、それは絶対に変わらない」と強い口調で答えてくれました。

戦争により故郷を離れざるを得ず、地図上からほとんど領土がなくなってしまったパレスチナの人々は、70年以上たった今も「いつか自分の故郷に帰れる」と信じて暮らしています。





草木も生えないと言われた被爆都市広島の復興の歴史と、一銭洋食からはじまったお好み焼きの食文化を重ね合わせ、駐日ヨルダン大使は「国民が平和について考えるきっかけになれば」と、今回のプロジェクトを企画しました。

ヨルダンでは、現地の人にお好み焼きを振る舞ったり、料理学校でお好み焼きの作り方だけでなく、ヒロシマの歴史も教えたりする店主の姿を追いかけました。





被爆者の高齢化が進み、いかに原爆の歴史を継承していくのかという大きな課題がある中、日本国内だけでなく、海外の人にも広島の歴史と平和について考えてもらう。新たな平和の継承のカタチなのかもしれない、そう感じました。

G7広島サミットでは、ウクライナからゼレンスキー大統領が来広しました。私が最近強い想いで取材に臨んでいるテーマがあります。ウクライナから避難してきている姉妹です。ファジリャさん(姉)とマリアさん(妹)。とても仲の良いチャーミングな姉妹です。





ロシアのウクライナ侵攻が始まり、去年9月、広島に来ました。戦争が始まった日のことを聞くと――。

「ある日、朝起きたら突然戦争が始まっていて。今の時代に戦争? って実感がわかなくて。お母さんに『学校はどうしよう?』と聞いたら、『行かなくていいんじゃない?』と言われたの」


その日を境に生活が一変。

本当に突然、日常が奪われました。

実際にミサイルによって建物が破壊される音も聞いたといいます。自宅ではミサイルの攻撃を直接受けないように、外壁から1部屋以上奥に入ったところにいなさいと言われ、お風呂の浴槽に布団を敷いてしばらく寝ていたそうです。

姉妹は、そんな生活をしていた戦禍のウクライナから安全な広島に避難してきたわけですが……。家族や友人の安否、日常を奪われた怒りと悲しみ、自分たちの将来がどうなるのかわからない不安――。心が落ち着くことはありません。彼女たちを取材していると、戦争は罪のない普通の人たちを巻き込んでしまうものだと強い憤りを感じます。

いま彼女たちは故郷に早く帰りたいという想いを抱きながらも、広島の企業で働いたり、スーパーで買った日本の食材でなんとかウクライナ料理を作ったり、ジムでお友だち作りに励んだり……。懸命に広島での生活になじもうと頑張っています。

先日は姉妹の母親がウクライナから来日し、一年ぶりの再会を果たすという少し心休まる出来事もありました。

空港の到着口で待っていた二人は、母親の姿を見た瞬間ピョンッっと飛び上がり、会うとすぐに母親の両腕の中へ――。涙を流しながらぎゅーっと抱きしめる姿に胸を締め付けられました。

これまで一年間、知らない土地で姉妹だけで頑張ってきた二人。母親と再会して“娘”に戻った安心した表情がとても印象的でした。



想いに寄り添い、それを伝えられるアナウンサーでありたいと思っています。


広島に来て10回目の8月6日


蝉の音が鳴り響く中、今年も暑い8月6日を迎えそうです。

ここ数年、ご高齢のため参拝できなかった被爆者や、亡くなってしまった祖父母や両親に代わり平和公園を訪れる被爆二世、三世の方々が増えています。確実に平和への願いは受け継がれていると8月6日の平和公園に流れる清らかな空気を感じます。

今年は新型コロナウィルスによる感染が少し落ち着き、ようやく通常の式典が戻ってきます。

音楽ライブをしている人、アート展を開いている人、演説をしている人、デモ行進をしている人……。みなさんの平和への想いが世界に届くように、私も伝えていきます。

今でも平和公園は、私の大好きな散歩コースです。

世界各国から来る観光客、ランニングをする人、ベンチで休むカップル、ラジオでカープ戦を聞いている人など……、あらゆる人の憩いの場所。

慰霊碑の前を通るときは、ここで起きたあらゆる光景が思い浮かびます。そして会ったことはないけれど、祖母の家族に近況報告をします。

いろんな想いが集結する公園。

「広島で好きな場所は?」と聞かれると、「平和公園です」と、今も答えるかもしれません。

祖母が語ってくれた被爆体験を胸に、そして取材で出会った多くの方の想いを大事に、広島のアナウンサーとしてこれからも力になりたいと思っています。

ここまで読んでいただきありがとうございました。


【Profile】

中根夕希(なかね・ゆき)

1991年生まれ。福岡県出身。2014年RCC中国放送入社。テレビ『イマナマ!』(水・木・金曜日メインMC)、『ゴルフざんまい』。ラジオ『平成ラヂオバラエティごぜん様さま』(水曜日パーソナリティ)。特別番組「おばあちゃんから私へ」で、2019年度JNNアノンシスト賞ナレーション部門優秀賞を受賞。

この記事に関連付けられているタグ