私が理想とする平和 医療×情報発信で社会貢献を目指して(宇江 美沙希)
宇江 美沙希
広島の象徴ともいうべき建物、原爆ドーム。この遺構を目にする時、毎回違う感じ方をしている自分に気付きます。
初めて見たのは、平和学習で広島を訪れた中学2年生の時。爆風と熱線を浴びて大破した建物を眺め、「この地に本当に原爆が落ちたんだ」と、素直にそう感じました。
2回目は、大学進学で広島に住むようになり、道を覚えようと自転車で市街地を訪れた時。自分の足で街を巡り「こんな街中にあったんだ」と、ようやく原爆ドームがどこにあるかを正確に把握して、とても驚きました。
そして3回目は、大学の課題で出された平和レポートを仕上げていた時。戦争や平和をよりリアルに感じたいと、平和記念公園へと足をのばしました。あらためて見上げる原爆ドームの横には、悠々と川が流れ、いつもと変わらない市電がのんびりと走っていました。「ああ、今はこんなに平和だけれど、当時の人々の苦しみや悲しみはどれほどだっただろう」と、水を求めて川に飛び込んだという被爆した人たちのことを思いながら、胸がつぶれるような気持ちになったものです。
広島という街で暮らすうち、私の一部は、いつの間にかこの土地とシンクロするようになったのかもしれません。私が目にしてきた原爆ドーム、そして、その時心に湧きおこった感情を振り返りながら、平和への想いを綴りたいと思います。
家族の愛情を受け、幸せに暮らした幼少期
1999年、私は岡山市で宇江家の長女として生まれました。父は小学校の教員、母は高校教員というごくありふれた家庭で、4つ下に弟がいます。両親ともに多忙だったため、小学校の頃は自宅から徒歩1分の祖父母の家へ、しょっちゅう遊びに行っていました。祖父は大らかかつ豪快な人で、「夢を大きく持て。大人になったら海外へ飛び出すのもいいぞ」と、私に口癖のように語っていたものです。温和な祖母は料理や裁縫が得意で、大きなおにぎりをよくおやつに作ってくれていました。
「あんたは本当にできる子じゃなあ」と、私がテストで良い点を取った時や、何か賞をもらった時、2人はいつも手放しで褒めてくれました。喜んでくれる顔が見たくて、私はまた頑張ろうという気持ちになったものです。今、私がきちんと自分というものを持てているのは、祖父母の余りあるほどの愛情のお陰だと思います。
また、父は忙しいながらも家族のためにキャンプやバーベキューを計画し、よく遊びに連れて行ってくれました。母は子どもの夢を全面的に応援してくれる存在で、小さい頃に私にいくつもの習い事をさせてくれたのも、いろんな可能性の芽を育てたいという気持ちからだったのでしょう。そんな家族がいることに感謝を感じると共に、私は本当に恵まれた家庭で育ったのだと痛感しています。
曾祖父から聞いた戦争の話
私が初めて戦争というものをリアルに感じたのは、小学校低学年ぐらいのことだったでしょうか。お盆に曾祖父の家へ皆で集まっていた際、曾祖父が戦争時に命からがら満州から戻ってきた話になりました。具体的に何があったかまでは口にしませんでしたが、「生きて帰れて良かった」「もうダメかと思った」と大人たちが話すのを見て、「そうか、ひいおじいちゃんが生き延びることができたから、私たちが今ここにいるんだ」と、ぼんやり理解したのを覚えています。
その後、「これが戦争に行った証だよ」と国から贈られたという表彰状を見せてくれ、そこに当時の総理大臣の名前が刻まれていることに驚きました。戦争は怖いもの、それはなんとなくわかっていたけれど、本当に大きな出来事だったんだとしみじみ思いました。曽祖父はその時、お気に入りの緑茶で喉を潤しながら語っていたのですが、「ひいおじいちゃんが大好きなお茶を楽しめるようになって良かったな」と感じる程度にしか、当時の私は、戦争の恐ろしさというものをわかっていなかったのだと思います。
学校での平和学習を経て
戦争と恐怖という感情がしっかり結びつくようになったのは、学校の平和学習がきっかけでした。岡山では多くの小中学校が、総合の時間などで平和教育を行っています。歴史を学び、証言者たちの声を聞く中で、時に子どもたちの理解を深めようと、アニメや漫画といったものを教材に用いることがあります。
初めて見たアニメは、「はだしのゲン」だったか、「火垂るの墓」のどちらかだったと思います。リアリティを伴った悲惨さ、グロテスクともいえる凄惨さに、私はどうしても最後まで視聴することができませんでした。クラスの女子の一部は、私と似たような状態だったと記憶しています。ぎゅっと目をつむり、言いようのない不安や恐怖の嵐が過ぎ去るのをひたすら待ちました。乗り物が好きな男子たちが、戦闘機の話で盛り上がっていたけれど、そのことがどこか遠くにあるように感じたものです。
中学生になった私は、学校の平和学習の一環で、一泊二日で広島を訪れることになりました。平和記念公園で原爆ドームや原爆死没者慰霊碑、折り鶴の子の像などを巡り、ここが被爆地であることをあらためて実感しました。
もっとも衝撃的だったのは、改修される前の平和記念資料館です。何とも言えないおどろおどろしい雰囲気で、血痕がべったりとついた蝋人形は、卒倒するほど恐ろしかったものです。本当に気を失うかと思ったのは、放射能を浴びたケロイド状の人間の舌の標本を見つけた時。人間の舌?本物の?と、理解が追いつかなかったけれど、まぎれもなくそれが当時被爆した誰かのものだと悟った時、地獄のような光景が頭に浮かび、言いようのない苦しさや恐怖で胸がいっぱいになりました。
翌日は宮島で観光をし、「街で遊びたい」と言う同じ班の子たちと一緒に本通り商店街へと向かい、喫茶店でお茶をしました。その頃には胸にくすぶっていた悲しみや恐怖の感情はいくぶん薄れ、仲間と過ごす楽しさや幸せを感じていたものです。前日の感情とはずいぶん大きなギャップがあったけれど、平和とは、こんなささやかな時間を指す言葉なのかもしれないと思ったりしました。
医学部進学を志し、広島の地へ
それから時が流れ、いよいよ進路を決めるという高校2年生の冬、私は医学部進学を決意しました。幼い頃、近所に住むかかりつけの小児科の女医さんが、優しく凛々しくて、とても格好良かったのに憧れを抱いたからです。
また、小さい時から生き物が大好きで、特に魚に興味を持ち、魚の耳石集めをするという一風変わった趣味も持ち合わせていました。テレビで活躍する「さかなクン」の姿を見ては、「だったら私はさかなチャンになろう」と、医学部受験を目標に据える前までは、ひそかにそう決めていました。探求心を持って何かを突き詰めるという行為は、医療の道にも通じるものがあると思います。そういった私の性格もまた、医学部を志した背景にあるのかもしれません。
進学先に広島大学を選んだのは偶然の要素も多く、オープンキャンパスで訪れた際の雰囲気が良かったからというのがおもな理由です。一人暮らしをしたかったこと、実家からあまり遠くではない近隣エリアが良かったことなども挙げられます。
平和学習時以来だと、高校1年生の頃に好きなアーティストのコンサートで広島を訪れたことがありました。エディオンスタジアムで開催されたコンサートは素晴らしく、熱気冷めやらぬままに帰途についたことを今でもはっきりと覚えています。広島という土地には数えるほどしか思い出がなかったけれど、不思議とこの街で暮らす自分が、すんなりと想像できたのです。
とはいえ、医学部受験はまったく一筋縄ではいきませんでした。現役時代は鳥取大学医学部を受験するも不合格を喫し、浪人という辛酸を舐めました。それから私は、1日12時間という勉強量を自分に課しましたが、勉強しても勉強しても不安が払しょくされることはなく、迎えたセンター試験は緊張で手の震えが収まらないほどでした。
そうして勝ち取った広島大学医学部「合格」の二文字は、努力することの大切さや、自分自身に打ち勝つ強さを、喜びと共に私に教えてくれたのです。
充実の大学生活、ミスコンの挑戦
広島大学医学部のある広島市南区の霞キャンパスで、絵に描いたような大学生活をスタートした私は、勉強に、サークルに、遊びにと、大いに青春を謳歌しました。友人と一緒に初めて居酒屋を訪れた時は、少し大人になったような気がして、すっかり浮かれてしまったものです。
しかし、そんな大学生活も長くは続きませんでした。2020年の冬から猛威をふるいだした新型コロナウイルスがあっという間に日本列島を飲み込み、講義もサークルもイベントも、いろんなものがバタバタと中止になってしまったのです。人に会うこともままならず、なんだかふさぎ込んだ気持ちで毎日を過ごしていたところ、実家に帰省していた際に、母がこんなことを口にしました。「若いうちにやれることは、何でもやっておいたほうがいい。私もミスコンにでも挑戦しておけばよかったわ」と。
そうか、制約のある中でも挑戦できることはあるんだ――。そう気付いた私は、さっそく「ミスコン」のワードでネット検索をかけました。驚くことに、その日がちょうど締め切りだった「MissJapan2021」の募集要項を偶然にも発見。運命に似たものを感じ、慌てて書類を作りその日のうちに応募しました。
その後は書類選考をパスし、あれよあれよという間に本選への出場が決定。自分でも行動的な性格だと思うのだけれど、せっかく挑戦するなら本気で挑みたい。武器を作るためにTikTokで動画配信を始め、ウォーキングやスピーチの練習もずいぶん重ねました。
迎えた日本大会では、まさかの準グランプリを獲得。信じられない思いでいっぱいになったのと同時に、少しだけ自分を認めてあげたいような気持ちになりました。幼い頃の私はアトピーがひどく、ボロボロの肌で悩んだ期間が長かったからです。コンプレックスから脱却した私の人生は、ここから大きく動き始めました。
広島に住む人としての自覚
あれから私は、医学生とタレントやSNSでの活動をしています。
TikTok、YouTube、Instagramの総フォロワー数は数十万人規模になり、色々な世代や立場の人からさまざまな反応をもらいます。仕事の幅も大きく広がり、町おこしや子宮頸がんワクチン接種の啓発など、多様な現場で役を与えてもらえるようになりました。
大好きなサンフレッチェ広島の公式サポーターとしてグッズ開発に携わり、地元のテレビ情報番組でMCを務めるなど、街のことを知り、地域の人たちと触れ合う中で、ますます自分が“広島人”に近づいているのを感じるこの頃です。
広島県民のまっすぐで熱い気質は、私のよく知ったものになりました。2023年5月、G7広島サミットが開催されましたが、気付けば私は、食い入るようにテレビの中継番組を観ていました。中学生のあの日、戦争の恐怖、平和の尊さを知った平和記念公園の地を、各国の首脳たちが訪れているのです。あの時とは一新されているけれど、より発信力を増した平和記念資料館の扉を、世界のリーダーたちがその手で開けているのです。
資料館の中での様子が放送されることはありませんでしたが、首脳たちはそれぞれに、何かを感じ、情報を得たことでしょう。それは身震いするほど歴史的に意味のある瞬間で、広島で暮らす人、被爆二世や三世の方ならばなおのこと、心動かされる出来事だったに違いありません。
私が理想とする“平和”
平和という言葉について、自分なりに色々と考えてみました。それは、みんなが笑顔になれる世界?争いのない世界?自分という軸に置き換えて出た答えは、「誰もが自分のやりたいことに思い切り挑戦できる世界」です。ある人にとって、それは当たり前の世界であり、またある人にとっては、それはとてつもなく遠い世界なのでしょう。
自分自身に関して言えば、至極当然にその世界を享受してきました。もちろん、自身の努力は重ねてきたつもりです。受験時に死ぬほど勉強したこともそうだし、ミスコンに挑戦したのもそうです。SNSの情報発信においては、楽しいことばかりではありません。心無い言葉を投げかけられることもあるし、人が離れていってしまったこともあります。けれど、例えば受験経験を発信した時、医学部についての情報を届けた時、「勉強頑張ろうって思えました」「医学部目指します」と、うれしい声をいただくこともあるのです。
そして、「自分のやりたいことをできているか」に関して言えば、答えは間違いなく「イエス」です。挑戦できる環境が整っている今の状況が、幸せで恵まれていることにほかなりません。飢えも、紛争も、貧しさも、流行り病も、それらがほとんどないここ日本で、私たちは穏やかに暮らすことができています。
もしかすると、同じ国に暮らしていても、幸せではない原因をその身に抱えてしまっている人も少なくないのかもしれません。だったら私は、出来る限り、その人たちを応援しようと思います。私のつたない言葉の中にも、誰かに届く何かがあるかもしれないから。
医療×情報発信で社会の役に立ちたい
以前に大学の課題で平和レポートを制作した時、私は医療と平和を結び付けた内容を書き綴りました。多くの人の尊い命を奪ってしまう戦争は、医療と相対します。そんな戦争においても、治療や手術をもって救える命はあります。けれど、助かった命は、戦場に向かうためや、誰かを傷つけるために生かされているわけではないはずです。
私は平和な世界で、医療という行為を提供したい。この先も生き続けていきたいと感じられる世の中、自分自身の夢を叶え、思い切り好きなことをやってみたいと思える人生においてこそ、医療は真の価値を発揮するのだと思うから。
将来、大学の仲間から、専門知識に長けた医者や、後進育成に励む教授が生まれるのでしょう。そんな中で、私は私にしかできないことをしていきたいと思います。医学の知識をベースにした、誰かを支える情報発信、誰かを励ます言葉の投げかけを、続けていきたいと考えています。
今はまだ、「医大生あるある」を発信してみたり、勉強についてのお助け情報を話すぐらいだけど、いつかしっかりとした医学知識に基づいた、本当に役立つ内容を必要な人に届けたい。今は情報発信のやり方を学んだり、エネルギーを溜めている真っ最中。自分の活動がもっともっと広がりを見せ、社会に貢献できる何かができたら、私は喜んで自分の時間も経験も捧げたい。その一歩が、もしかしたら平和と呼べる世界の、小さな1ピースになるかもしれないから。
私の人生のいろんなシーンで、平和についての想いを深くしてくれた原爆ドーム。次に私が、何らかの感情を伴って原爆ドームを見るのは、いつになるのでしょうか。自身の生き方が定まった時なのか、あるいはこの腕にわが子を抱く時なのか――。
どうかその時が、今よりももっと平和で、幸福な世の中でありますように。そして自分自身も少しだけ、社会の役に立てていたらと願わずにはいられません。
【Profile】
宇江 美沙希(うえ・みさき)
1999年、岡山県岡山市生まれ。広島大学医学部進学を機に広島在住。「2021ミス・ジャパン」コンテストにおいて、広島県代表を経て準グランプリを獲得する。趣味は動画作成と料理。TikTokやYouTubeなど各SNSで情報発信を行い、テーマ決めやアクセス解析なども自身で行う。広島ホームテレビ『届け!ひろしま応援歌』でMCを務めるなど、活躍の場を広げている。
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