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国際平和拠点ひろしま

中心からどれくらいの距離に被害がでたの?

広島に投下された原子爆弾により1945年末までに約14万人が亡くなったと推計されています。また,1945年8月6日当時広島市には,約35万人の人がいたと考えられています。

爆心地の被害について,建物被害,熱線,爆風,高熱火災,放射線による被害,後障害について紹介します。

建物の被害状況

 原爆は爆心地(注)の島病院の上空約600mで爆発しました。

 壁の厚さが1mもあったとされる島病院も,原爆の破壊力にはひとたまりもなく,わずかに玄関周りの円形窓と丸柱だけが,かつての名残をとどめていました。

 (注)爆心地:原爆が爆発した場所の真下の地表面

 原爆が市内中心部の上空で爆発したことと,爆心地から3㎞の範囲内に市内の全建物の約85%があったことから,被害は市内の全域におよび,建物の90%以上が破壊,または消失しました。

被爆前(1938(昭和13)年)の広島市中心部の様子

右側奥の8階建ての建物は百貨店「福屋(新館)」

 

 

1945(昭和20)年 秋 被爆1か月後の広島市中心部の様子 

奥に見えるのが百貨店「福屋(新館)」

( 撮影/林寿麿氏  提供/広島平和記念資料館)

 

熱線による被害

爆発と同時に爆発点の温度は数百万度となり,空中に発生した火球は,0.2秒後には直径400mの大きさとなりました。

この火球から四方に放出された熱線は,爆発0.2秒後から3秒後までの間,地上に強い影響を与え,爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました(鉄の溶ける温度は約1,500度)。

爆心地から約1.2km以内で熱線の直射を受けた人は,皮膚が焼きつくされ,内臓までも障害を受け,ほとんどの人が亡くなりました。また,約3.5km離れたところにいた人でさえ,素肌の部分は火傷を負いました。

また爆心地から600m以内の屋根瓦は,表面が溶けてぶつぶつの泡状になりました。

 

爆風による被害

原爆の爆発の瞬間,爆発点は超高圧となり,周りの空気が急激に膨張して街を爆風が襲いました。

爆心地から半径2kmまでの地域では,ほとんどの木造家屋は倒壊し,鉄筋コンクリート造の建物は,崩壊を免れた場合でも,窓や内部の家具類もことごとく吹き飛ばされ,その後内部はすべて焼失するなどの大きな被害を出しました。

爆風により,人々は吹き飛ばされ,即死した人,負傷した人,倒壊した建物の下敷きになって圧死した人が相次ぎました。

 

高熱火災による被害

原爆の爆発と同時に放射された熱線により,市内中心部の家屋が発火し,続いて,倒れた家屋の台所で使われていた火気などを原因とする火の手が上がり,午前10時頃から午後2~3時頃を頂点に,街は終日燃え続けました。

爆心地から半径2㎞以内の地域はことごとく焼失し,倒壊した建物の下敷きになって,生きながら焼かれ,亡くなった人も数知れません。

 

放射線による被害

原爆の特徴は,通常の爆弾では発生しない放射線を大量に放出し,それによって人体に深刻な障害を及ぼしたことです。

放射線による障害は,爆心地からの距離やさえぎる物の有無によって,その程度が大きく異なっています。爆発後1分以内に放射された初期放射線によって,爆心地から約1km以内にいた人は,致命的な影響を受け,その多くは数日のうちに死亡しました。また,外傷が全くなく無傷と思われた人々が,被爆後月日が経過してから発病し,死亡した例も多くあります。

さらに原爆は,爆発後,広島に長時間にわたって残留放射線(注)を地上に残しました。このため,家族,親戚や同僚などを捜して,また救護活動のために被爆後に市内を訪れた人々の中には,直接被爆した人と同じように発病したり,死亡する人もいました。また,爆発後,放射性物質を含んだチリやススなどが地表から巻き上げられ黒煙となり,空気中の水滴と混じり,黒い雨となって降りました。

この雨の中には放射性物質が含まれており,この地域で井戸水を飲んでいた人の多くは,その後3か月にもわたって下痢をしたということです。

(注)残留放射線:初期放射線を受けた,土や建築資材などから放出される誘導放射線と,核分裂で生まれた放射性物質や核分裂しなかったウランなどの放射性降下物(フォールアウト)から放出される放射線

 

後障害

原爆による放射線は,被爆直後の急性障害(発熱,はきけ,下痢など)だけでなく,その後も長期にわたってさまざまな障害を引き起こし,被爆者の健康を現在もなお脅かし続けています。これを後障害と呼びます。

火傷が治った跡が盛り上がるケロイドは,1946年(昭和21年)から翌年を頂点に現れ,痛みやかゆみを伴い,まわりからの視線や言葉により精神的な苦痛を受けることもありました。

また被爆は,胎児にもいろいろな影響を及ぼしました。死産する例もありましたが,無事に生まれてきた子どもも,乳児期を過ぎても他の子どもに比べると死亡率が高くなっています。中には頭囲が著しく小さく,小頭症と呼ばれ,知的障害を伴う場合もありました。

さらに,被爆から年月を経て,白血病やがんによって亡くなる人が増えていきました。白血病の増加は被爆して2年から3年後に始まり,7年から8年後に頂点に達しました。一方,がんが発生するまでの潜伏期は長く,被爆後5年から10年頃に増加が始まったのではないかと考えられています。

放射線が年月を経て引き起こす影響については,未だ十分に解明されておらず,調査や研究が現在も続けられています。

 

出典:広島平和記念資料館 学習ハンドブック(2018.3)

 

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