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国際平和拠点ひろしま

Hiroshima’s Reconstruction Vol.2広島の復興シリーズ Vol.2:8月6日の広島

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されて75年。

原子爆弾により壊滅的な被害を受けた広島は,今日,国内外から「復興を成し遂げた街・平和を模索する都市」というアイデンティティが認知されています。

広島の復興の過程をとりまとめた「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻」を基に,広島の原子爆弾による被害からの復興を紹介します。

Vol.2では,「8月6日の広島」と題して,戦時中の広島や原子爆弾が投下された時の広島の街について紹介します。

8月6日の広島

軍都としての広島

工業都市や学都として知られた広島だが,広島はまた軍都としても知られていた。例えば,広島城は,軍の拠点として使用されていた。昭和20年(1945年)4月には,本土決戦に備え,第1総軍を東京に,第2総軍を広島に設置した。宇品(広島市南区)には陸軍の船舶司令部があり,30万人を超える部隊を指揮していた。呉市は呉鎮守府と東洋最大の兵器工場である呉海軍工廠を擁する海軍の拠点であり,広島は軍の重要拠点となっていった。

建物疎開

本土空襲が迫る中で,防空空地を設けるために強制的に建物を除去する建物疎開が行われた。広島市では,昭和19年(1944年)11月から建物疎開が行われ,原子爆弾が投下された8月6日は,第6次建物疎開の実施中であった。この作業には多くの学徒隊(市内各中等学校,国民学校高等科)も動員されていた。

学童集団疎開

空襲への対策としては,そのほかにも学童集団疎開が実施されていた。広島市も例外ではなく,国民学校3年から6年(現在の小学3年生から6年生)の学童が集団疎開をしていた。集団疎開をした学童には原子爆弾により肉親が死亡し,家を失った学童も多くいた。

8月6日に広島にいた人数

昭和16年(1941年)末,広島市の人口は41万3,889人であった。戦争が進むにつれ,市民の数は減少し,昭和20年(1945年)6月末の米穀配給登録人口は24万5,423人までに減少していた。

8月6日当日に広島にいた陸軍軍人数は約4万人と推定されている。また,広島の全被雇用者数は約13万人であった。

8月6日の広島では建物疎開の作業が朝早くから実施されており、このことが大きな被害を蒙ることとなった。建物疎開には、広島市内の地域国民義勇隊は2万2,500人,郡部の地域国民義勇隊7,062人,動員学徒9,111人が作業をしていた。

原爆が投下された8月6日には,広島に約35万人がいたと推計されている。

1938年(昭和13年)の相生橋周辺の様子
(提供)広島市公文書館所蔵

参考

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-14/

 

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