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国際平和拠点ひろしま

Hiroshima’s Reconstruction Vol.6広島の復興シリーズ Vol.6:広島の復興計画

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されて75年。

原子爆弾により壊滅的な被害を受けた広島は,今日,国内外から「復興を成し遂げた街・平和を模索する都市」というアイデンティティが認知されています。

広島の復興の過程をとりまとめた「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻」を基に,広島の原子爆弾による被害からの復興を紹介します。

Vol.6では,「広島の復興計画」について紹介します。

広島の復興計画

広島市の復興計画は,広島県と広島市の双方で行われたが,戦後の民主化の中で行政権限が広島市にシフトしていき,広島市自身の復興計画が本格化していった。

昭和21年(1946年)1月8日に,広島市に復興局が創設されるのに併せて市長の諮問機関として広島市復興審議会が設置され,活発な議論が行われていった。

復興審議会の中ではもちろんのこと,新聞や雑誌など様々な場で多くの復興構想が提案された。きわめて多くの構想が提案されたことは広島の復興計画の特徴と言える。

復興構想の主なものの中には,都市移転構想,峠三吉案,丹下健三案,ジョン・D・モンゴメリー提案などがあり,日本人だけでなく外国人からも提案があった。また,提案された多くの構想の中で採用されたものはごくわずかであった。

道路計画や公園緑地の計画が進められていったが,当時の広島市は財政難であり,思うように事業が進められなかった。

初期の復興状況は,昭和21年(1946年)8月に行われた広島市の調査によると,半焼・半壊以上の建物は7万147戸であったが,1年後の復興建物は3万2,242戸となり,復興割合は約4割6歩という値が出ていた。内訳は新築1,585戸,修理1万8,486戸,バラック建1万2,171戸という結果であり,修理・バラック建の数値が高いことが特徴である。そして復興計画には,公共用地を確保するために区画整理を伴う形となっており,区画整理においてバラックの数値が高い事は障壁となっていった。

日本の復興過程の特徴としては,次のことが言える。

行政の仕事は土地の基盤を整備することであり,その土地を利用については土地の所有者自身に任されてしまうことであった。行政が整備した土地をどのように利用するかは民力に頼るしかなかったのである。


参考

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-19/

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-20/

 

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