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国際平和拠点ひろしま

Hiroshima’s Reconstruction Vol.8広島の復興シリーズ Vol.8:平和記念都市建設計画

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されて75年。

原子爆弾により壊滅的な被害を受けた広島は,今日,国内外から「復興を成し遂げた街・平和を模索する都市」というアイデンティティが認知されています。

広島の復興の過程をとりまとめた「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻」を基に,広島の原子爆弾による被害からの復興を紹介します。

Vol.8では,「平和記念都市建設計画」について紹介します。

平和記念都市建設計画

vol.7で紹介した広島平和記念都市建設法の制定に基づいて立てらてのが,「広島平和記念都市建設計画」である。

広島平和記念都市建設計画は広島市長室が中心となり作業が進められた。昭和25年(1950年)4月に発行された「広島平和都市建設構想試案」の中では,平和記念都市ではなく,平和都市を建設すると表現され,平和施設として平和会館,平和公園だけでなく橋梁,文化施設,レクリエーション施設なども計画対象に含まれていた。

さらに昭和25年10月には「広島平和都市建設構想案」が発表されたが,この中でも平和都市が度重なり登場している。

「広島平和記念都市建設計画についての意見書」(昭和26年8月6日)の中で百メートル道路を「平和記念百米道路」と呼んでおり,広島平和記念都市建設法適用に当たり,平和記念施設に関連づけることで高比率の補助対象としようとしていたという意図がうかがえる。

広島平和記念都市建設法という特別法の制定により可能となったことがもう一つある。それは,記念施設の決定である。これは全国的に例がない決定であった。具体的には,爆心地から約500メートル圏内の中島本町,天神町付近に平和記念公園と,記念公園内の平和記念館と慰霊碑を記念施設として決定した。「広島平和都市建設構想案」の中では,平和施設という表現であったが,最終的には平和記念公園,平和記念館,慰霊碑のみが記念施設として決定された。

現在の平和大通り

参考

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-24/

 

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