3 動き出す復興計画
広島の街は原子爆弾により,建物や交通施設,通信施設,上下水道などの都市インフラ施設が徹底的に焼失・破壊された。広島市の復興は,全国115の戦災都市の一つとして国の戦災復興事業による都市基盤の整備として着手された。広島市民は被爆による壊滅的な被害からの応急復旧に取り組み,復興計画を策定し,事業化に取り組んでいった。
インフラの応急復旧の中では,電車の復旧は比較的早かったといわれる。電車網の回復や維持に向けて懸命な努力がなされ,その結果,被爆3日後の8月9日(長崎に2発目の原爆が投下された日)には,一部区間の運転が再開された。他方,被爆2日後の8月8日には,国鉄の山陽本線が広島と次駅の横川間で運転を再開した。幹線道路はとりあえず通行できるように障害物が取り除かれ,次いで橋の手すりや路面の改修が進められた。
上水道の被害も甚大であった。送水ポンプの稼働は被爆後4日目に再開されたものの,人々は至る所で漏水に悩まされ,また水道管の補修も難工事であった。市周辺部にまで給水ができる状態に復旧するまでに9か月を要したといわれる。そのため,人々は手押しポンプによって地下水をくみ上げるなどして急場をしのいだ。下水道についても,抽水所の応急復旧,下水管の清掃・整備などにより,少しずつ改善が図られた。
広島市の復興計画については,市の復興審議会や新聞紙上などで,市民や行政関係者,外国人などから34件もの復興構想が提案された。復興がほとんど不可能と思われたほど破壊された都市で,復興計画は,当時として可能な限りの理想を追求していた。幅員百メートルの道路といった意欲的な道路計画や公園緑地計画が策定され,その用地を確保するため,土地区画整理が必要とされた。復興計画の推進は財政難の中で,関係者と市民の並大抵ではない努力と,時には市民に大きな負担が強いられる難事業であった。同時に,様々な形で寄せられた諸外国からの支援や励ましなどにも支えられながら,広島市民は被爆直後の数年間の危機を乗り越えようと奮闘した。