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国際平和拠点ひろしま

4 広島平和記念都市建設法

当初の復興計画(広島復興都市計画)は,財政難や人材難,資材不足,公有地不足といった様々な困難に直面した。被爆による壊滅的な打撃のため,広島ではほとんど税収が上がらず,財政難を極めていた。こうした事態に対処するため,濱井信三市長や市議会などの地元関係者が苦慮を重ね,国や国会に働きかけた結果,昭和24(1949)年に憲法第95条に基づく特別法(特定の地方公共団体のみに適用される法律)として「広島平和記念都市建設法」が制定され,住民投票を経て,同年8月6日に公布・施行された。
この特別法によって,広島市に国からの特別補助や国有財産の無償譲与などへの道が開かれ,復興が推進された。加えて,広島市は同法第1条で「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴」たる「平和記念都市」と位置づけられ,この法律制定に伴い,昭和27(1952)年に従来の「広島復興都市計画」は「広島平和記念都市建設計画」に改定された。その過程で平和記念施設の建設という特別の事業が認められ,復興計画として特徴的な平和記念公園の建設が可能となった。

平和記念公園の建設にあたっては,昭和24(1949)年に設計・計画のコンペティション(コンペ)が行われ,丹下健三グループの案が入選した。このコンペは,前年に実施
された広島市幟町のカトリック教会(のちに世界平和記念聖堂と命名)の設計コンペとともに,「広島」と「平和」というキーワードが強く意識され,建築設計分野での新たな潮流
として注目を集めた。
昭和26(1951)年2月に陳列館(のちの平和記念資料館本館)が,続いて3月に平和記念館(のちの平和記念資料館東館)が着工したものの,資金不足のために工事は長期間にわたって中断し,未完成の状態のまま放置された時期もあった。着工から4年後,昭和30(1955)年に陳列館と平和記念館が相次いで竣工した。当時,公園敷地内には,立ち退きを迫られた不法建築の民家が多く残っていたが,昭和34(1959)年にはすべて退去し,このごろには,ほぼ平和記念公園としての原型が整えられた。
広島平和記念都市建設法の効果は大きかった。国からの特別補助という財政的側面だけでなく,国から見守られ,支援されているという精神的な支援が復興を加速させたと思われる。広島自身の取り組みだけでなく,このような支援の仕組み,物心両面での支援が重要であった。
他方で,日本における復興は行政によるインフラ整備が中心であり,できあがった土地にどのような建物を建設し,生活を再建していくかは,地主や建築主,住民といった民間の力に頼らなければならなかった。公的資金の融資制度こそあるものの,財力の乏しい人々にとっては住居の建設は極めて困難で,生活に追われてしまうことも少なくなかった。さらに,平和記念都市建設計画の実現の過程では,区画整理に対する反感など,市民の批判や不満が表出することもあった。このように復興は,そこで暮らす市民の負担や犠牲を伴うものであったことも忘れてはならない。

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