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国際平和拠点ひろしま

7 被爆者医療支援

原子爆弾は,広島の医療機関と医療従事者にも壊滅的な打撃を与えた。市街地の医療機関は,鉄筋コンクリートの病院を除いてことごとく破壊され,広島市内にいた医療従事者2,370人のうち,91パーセントに当たる2,168人が被爆した。
当時,空襲時の救護対策に支障をきたさないよう,医師の疎開が禁じられていたため,原爆投下の直前,広島市内には298人の医師が残っていた。このうちの実に90パーセントが罹災し,健全な状態で救護活動を行えた医師はわずか28人にすぎなかった。歯科医や薬剤師,看護師も皆同様に被災しており,傷病者の治療に当たるべき専門家集団そのものが壊滅的な打撃を受けていた。
こうした危機的状況下で,九死に一生を得た広島の医療従事者たちは,被爆した医療施設や学校,寺院だけでなく,橋や道路,公園などを利用して急ごしらえした救護所で,自らの負傷も顧みず被爆者の治療に当たった。また,県内はもとより,岡山,山口,島根などの近隣県や,大阪,兵庫などからも救護班が応援に駆けつけた。赤十字国際委員会の駐日主席代表として昭和20(1945)年8月9日に来日したマルセル・ジュノー博士は,原爆被害の惨状を知ると,直ちに連合国軍総司令部(GHQ)と救援を折衝し,調達した約15トンの医薬品を持って9月8日に広島入りし,4日間の滞在中に自らも治療に携わった。
原爆投下から間もない昭和20年代初期,被爆者医療が組織的に行われる以前から,広島の医師たちは被爆者医療や研究に少しずつ取り組んだ。彼らの地道な活動は,被爆者の無料治療の開始にもつながった。昭和29(1954)年3月1日,米軍による水爆実験で日本の漁船,第五福竜丸が「死の灰」を浴び,船員が被災する。この「ビキニ水爆被災事件」を契機に,原爆被爆者に対する国の負担による援護を求める運動が起こった。こうした国民的な運動が追い風となって被爆者医療の法制化が実現し,被爆者の保健,医療,福祉が前進することになった。
他方で,医療施設については,戦前の広島は,県内に医療の高等教育機関やその附属病院もなく,公的病院も少なかったが,陸海軍関係の病院が多く存在するという特徴があった。戦後は,軍関係病院や日本医療団病院を転用して国立病院・県立病院などが開院されたことなどにより,1950年代前半に存在した広島県内の公的病院は74機関を数えた。広島市では,昭和27(1952)年に新たに社会保険広島市民病院が開院し,広島大学医学部附属病院をはじめ,公的病院を中心に保健・医療機関が少しずつ充実していった。昭和31(1956)年には,広島赤十字病院構内に原爆症を専門とする広島原爆病院が開院した。さらに,昭和36(1961)年には,被爆者の健康管理や生活援護施設として,広島原爆被爆者福祉センターが開所した。
このような発展は,広島の医師たちの,苦しみにあえぐ被爆者を前にして何もできなかったという自責の念に基づく努力の結晶ともいえ,彼ら先人たちの願いは,被爆者医療の蓄積によって世界の被曝者の治療に貢献するなど,今日まで受け継がれている。

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