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国際平和拠点ひろしま

Q9 広島の市民の平和への取り組みはどのように続けられてきたか?

戦後,広島では時代の流れの中で,次のような平和への取り組み,模索がなされてきた。

●「空白の10年」
 原爆が投下された昭和20(1945)年から,被爆者の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成される昭和31(1956)年までの約10年間,被爆者は社会から理解されず,行政の支援も不十分で,「空白の10年」だったといわれる。だが広島ではこの時期にも,昭和27(1952)年に世界連邦アジア会議が開催されて原子兵器の禁止を訴えるなど,平和反核運動が少しずつ成長していった。


●運動を加速させたビキニ水爆被災事件
流れを一気に加速したのは,昭和29(1954)年3月,日本の漁船第五福竜丸が,ビキニ環礁での米国の水爆実験で被爆した事件である。全国で原水爆禁止運動が盛り上がり,第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催され,以来,広島は平和反核運動の先頭に立ち,「核兵器廃絶」と「被爆者救済」を訴えてきた。


●原水爆禁止運動の分裂と運動の多様化
日本の原水爆禁止運動は労働運動と連携していたため,当初は超党派の支持を得ていたが,やがて政党間の意見対立から保守政党が離脱。さらに1960年代初めには3つに分裂。平和運動は弱体化の危機に瀕した。
だが,そのことが逆に新しい市民運動の台頭をもたらした。政治に距離をおき,具体的な目標を掲げて実現を共にめざす運動で,原水爆白書の発行や爆心地の復元,原爆ドームの保存,全国での原爆展開催,あるいは米軍の撮影した被爆フィルム買い取りなど,多様な目標を掲げて市民が力を合わせた。メディアも協力し,活動を積極的に報道するようになった。


●運動の国際化
 1970年代後半になると,運動は国際化した。第1回・第2回国連軍縮特別総会(昭和53[1978]年・昭和57[1982]年,いずれもニューヨークで開催)に向けて日本全国から集められた核兵器廃絶を訴える署名は,それぞれ1,800万人,2,370万人分になり,広島の市民代表(500人・1,300人)も渡米して訴えた。以来,広島の市民は国連などでの核軍縮外交に強い関心を寄せている。


●被爆者援護法施行後の課題
被爆者は,「核兵器廃絶」と「原爆被害への国家補償」を求め続けてきた。被爆者援護施策に関しては,いまだ課題は残しているものの,平成7(1995)年の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」の施行により援護の内容は充実したが,一方で,核兵器廃絶が大きな課題として残され,その実現のための努力が続けられている。

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