広島平和記念公園のバラ 2回目
ヤン・レツルという人物をご存知でしょうか。広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)を設計した人と言えば、ピンとくる方もいるでしょう。では彼の故郷であるチェコ共和国から平和を願って広島市に寄贈されたバラがあることを知っていますか? 今回はそのバラのお話です。
先鋭的だった広島県産業奨励館
ヤン・レツル氏は1880年(明治13年)に現在のチェコ共和国で生まれました。プラハの美術専門学校で近代建築を学んだ後の1907年(明治40年)、横浜市にあった設計事務所に職を得て、来日することになりました。その後、神戸市のオリエンタルホテル(空襲により焼失)や宮城県の松島パークホテル(火災により焼失)など数々の建造物の設計を手掛け、1915年(大正4年)には広島県産業奨励館を竣工させました。しなやかな丸みを帯びた外観や窓枠の飾りなど、当時としては先鋭的なデザインだったようで、たちまち評判となり、広島の名所となりました。
1915年(大正4年)に帰国したヤン・レツル氏は、その10年後に病死しますが、彼の残した広島県産業奨励館は、原爆による被害を伝える遺構として今に残ることは皆さんもご存じのとおりです。
(提供)広島市公文書館所蔵
戦争の惨禍を乗り越えて
1978年(昭和53年)、亡きヤン・レツル氏が取り持つ縁で、当時のチェコスロバキア連邦議会のアロイス・ビンドラ議長が来広しました。その際、当時の荒木武広島市長との間で友好と平和を願い、バラの苗を交換する話がまとまりました。広島市からは1979年 (昭和54年)、日本作出のバラの苗18株がプラハ郊外のリディツェ・バラ園に贈られました。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの占領下にあったリディツェ村は、ドイツ要人襲撃の冤罪で500人近くの村人が虐殺され、村自体も地図上から消し去られるという悲劇に見舞われました。戦後、イギリスの平和運動家の呼びかけで村の跡地に平和の象徴としてバラ園が造られ、広島から贈られたバラもそこに植えられたのでした。
その返礼として1979年(昭和54年)、当時のシュトロウガル首相が訪日した際に携えていたバラの苗木95本が、外務省経由で広島市に届けられました。タヒチやモラビアなど10種のバラの苗木は翌年、平和記念公園の動員学徒慰霊塔付近に40本、広島市植物公園に20本、残りの35本は広島市内の高等学校4校に分けられ、それぞれ植栽されました。
現在、ヤン・レツル氏が手掛けた原爆ドームの南側花壇に植えられたそのバラは、元安川沿いの遊歩道を歩く人たちの目を楽しませています。
広島平和記念公園
住所 広島市中区中島町1-1(ヤン・レツル氏のバラは上記マップ内のピンの位置)
電話 082-504-2390
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