地図から消された島 大久野島
左:1932年測量1947年発行 右:1932年測量 1938年発行
大久野島が不自然に消されていることが分かる。
出典:国土地理院発行5万分の1地形図
国立公園に指定される周囲約4kmの大久野島(広島県竹原市)は、約900羽ものうさぎが生息する「うさぎの島」として知られ、国内外を問わず毎年多くの観光客が訪れます。しかし、そんな大久野島は、かつて「地図から消された島」と呼ばれていました。その理由は、1929~1945年(昭和4~20年)まで、日本の化学兵器製造拠点として第二次世界大戦で使用するための毒ガスの製造を行う、重大な国家機密の島として地図からも消されていたことにあります。大久野島には現在も毒ガス製造に関わる史跡が残り、戦争の悲惨さを訴え続けています。
大久野島の戦争遺跡_発電所跡
第二次世界大戦時、毒ガスを製造するための電力を供給していた発電所で、当時は重油を燃料とした発電機が8基設置されていました。朝鮮戦争時には米軍の弾薬庫として使用され、壁面には弾倉を指す略語「MAG2」の文字が今も残ります。
大久野島の戦争遺跡_長浦毒ガス貯蔵庫跡
島内の毒ガス貯蔵庫跡の中で最も大きいのが、毒ガスが約100t入るタンクが6基置かれていた長浦毒ガス貯蔵庫跡です。現在も巨大な貯蔵タンク跡とコンクリートの台座が残っています。戦後、毒性除去のため火炎放射器で焼き払われました。
大久野島の戦争遺跡_北部、中部各砲台跡
日清・日露戦争時、瀬戸内海を防衛するために、島内の3カ所に砲台が設けられました。北部砲台(写真左)には24cm砲4門と12cm砲4門が、中部砲台(写真右)には主力だった28cm砲6門が、南部砲台にはスカ9速加砲4門が設置され、現在も砲座跡が残ります。
大久野島の戦争遺跡_火薬庫跡
芸予要塞時代(1904年・明治37年頃)の砲台の弾薬や火薬を保管していた火薬庫で、第二次世界大戦時は毒ガスの製品置き場でした。壁はレンガ造りですが、屋根は爆発事故を考慮して軽めに作られています。また、目隠しのため海側には土塁が築かれています。
毒ガス資料館
かつて大量の毒ガス兵器を製造していた大久野島は、国民休暇村として開発され、砲台跡や発電所跡、毒ガス貯蔵庫跡など当時の面影はわずかしか残っていません。そのため、毒ガス資料館は大久野島で毒ガスが製造されていた事実と、その過程で多くの犠牲者を出すに至った現実、そして、その悲惨さを訴え、恒久平和を願うために1988年(昭和63年)に建設されました。館内には工員手帳や作業服、液体毒ガス製造装置など貴重な資料が展示されており、代表的な平和学習の場の一つとして数えられるようになりました。
竹原市の担当職員の方からは「大久野島で過去に毒ガス製造が行われ、多くの人が命を失いました。今もなお苦しんでいる事実(※1)があることを知っていただき、また一方でウサギとのふれあいを楽しむことができる現在の平和のありがたさ、大切さを学んでほしいと思います」とコメントをいただきました。大久野島を訪れた際は、ぜひ毒ガス資料館と毒ガス製造に関わる史跡を巡ってみてください。愛らしいうさぎたちの姿がより一層尊いものに見えるはずです。
TEL/0846-26-3036
住所/竹原市忠海町5491
時間/9:00〜16:30(入館は16:00まで)
休み/年末年始
入館料/19歳以上一般150円、団体(20名以上)120円
※19歳未満の方および身体障害者手帳・精神障害者保健福祉手帳・療育手帳の交付を受けている方は入館料免除
□大久野島DATA/
TEL/0846-26-0321(休暇村大久野島 9:00~17:00)
住所/広島県竹原市忠海町大久野島
HP/https://www.qkamura.or.jp/ohkuno/
アクセス/JR呉線忠海駅から徒歩7分の忠海港から、大三島フェリーで約15分。JR呉線竹原駅からバスで5分、または徒歩15分の竹原港からうさぎの想い出航路で約20分。
※1)1974年(昭和49年)に国が「毒ガス障害者に対する救済措置要綱」を制定し、毒ガス製造に従事した工員以外も含め障害者全員が社会保障対象となった。また、1952年(昭和27年)に広島大学の前身である広島医科大学がボランティアで始めた集団検診は平成28(2016)年度で終了したが、平成29(2017)年度からは指定医療機関での個別検診が引き続き行われている。
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