「興南寮跡」碑 ~広島の南方特別留学生~
広島市中区大手町の元安川緑地には,「興南寮跡」碑が建立されています。この地は,かつて興南寮でした。興南寮は,1944年から1945年(昭和19年から20年)にかけ,広島大学の前身である広島文理科大学や広島高等師範学校に在籍した東南アジアの南方特別留学生が住んでいた宿舎でしたが,1945年(昭和20年)の8月6日,原子爆弾のせん光を浴びて焼失しました。ここでは,広島で学んだ南方特別留学生の当時の留学生活や被爆の状況についてご紹介します。
(報告者:広島県平和推進プロジェクト・チーム職員)
1 南方特別留学生について
南方特別留学生は,太平洋戦争中に「南方」と総称された東南アジアの各占領地区などから招へいされた日本最初の国費留学生です。当時,日本は中国や満州などの東アジアの地域と「南方」地域を合体させて,その指導下に「大東亜共栄圏」を築こうとしていました。南方特別留学生は「大東亜共栄圏」の将来の指導者を育成するために「南方」地域から選抜され,1943年と1944年の2期に分けて205人の若者が来日しました。
留学生の人選は,主に占領下の南方諸地域の軍政当局に一任されましたが,各地の名家や有力者の子弟が多く選ばれたといわれています。派遣前に現地で準備教育が実施され,日本語の授業や厳しい訓練を受けて来日しました。
来日後,東京の国際学友会で再度,日本語も含めた準備教育を受けました。国際学友会は,日本語教育の実施や上級学校への進学の指導など南方特別留学生の受入れのための推進母体となりました。また,南洋協会(ジャワ),ビルマ協会,フィリピン協会などの地域文化団体が,寮生活や日常生活などの補導教育を行いました。翌年,文部省で進学のための試験を受け,試験の成績や本人の希望などを考慮して進学先が決定され,各地の高等教育機関に進学していきました。
広島大学の前身校の一つである広島高等師範学校(広島高師)(1902年設立)は,当時,西の教育の総本山として全国から優秀な人材が集まっており,その評判により留学生数も増えていきました。また,1929年には広島文理科大学(広島文理大)が設立され,南方特別留学生についても,広島高師・文理大はその主要な受入先の一つとなり,文科系や教育学を希望する学生を中心に,1944年度には広島高師に20名,1945年度には広島文理大に9名(内5名は広島高師から進学)が進学しました。
2 広島での留学生活と興南寮
広島高師・文理大では,南方特別留学生のためにそれぞれ文科興南部,特設学級が新設され特別なカリキュラムが編成されました。広島での滞在は4か月から長くても1年半にも満たない短い期間ではありましたが,留学生たちは教授の自宅に招かれたり,日本人学生に対してブンガワンソロなどの歌を教えたりと教官や日本人学生との交流がありました。
南方特別留学生のための学生寮である興南寮は,木造二階建てで,21室ありました。広島高師・文理大(広島市中区東千田町)から現在の平和記念公園方向へ徒歩で約10分,萬代橋(よろずばし)の東詰近くの元安川に面したところにありました。
興南寮は原爆により焼失しましたが,戦後,南方特別留学生と親交のあった花岡俊男氏が「興南寮跡」碑の建立を決断し,各方面へ協力を呼びかけ,元安川の河川敷の管理者と時間をかけて交渉し,1976年5月に「興南寮跡」碑が建てられ除幕式が行われました。
3 広島での被爆
1945年8月6日午前8時15分,広島に原爆が投下された時,広島文理大には9人の南方特別留学生が在学していました。原爆投下当時,広島市郊外の病院に入院していたムスカルナ・サストラネガラ氏を除き全員が被爆しました。二期生の4人は広島高師の音楽教室(爆心地から約1.5㎞)で授業中に被爆しました。アリフィン・ベイ氏とハッサン・ラハヤ氏は物理学の授業を,また,アブドゥル・ラザク氏とペンギラン・ユソフ氏は数学の授業を受けようとした時に,目がくらむようなせん光が走り,木造二階建ての音楽教室は崩壊し,留学生は教官とともに建物や落下物の下敷きになりました。一期生4人は一時限目の授業はなく,ニック・ユソフ氏,サイド・オマール氏,シャリフ・アディル・サガラ氏の3人が興南寮(爆心地から約900m)で被爆しました。
4 被爆死した二人の南方特別留学生
(1)ニック・ユソフ氏
ニック・ユソフ氏はマレーシア,マラヤ・クランタン州の貴族ダトー家の出身でした。興南寮で被爆し,広島から西部郊外に避難しましたが死亡(享年19歳)し,他の多くの犠牲者とともに広島市佐伯区五日市の光禅寺に埋葬されました。光禅寺の星月晨人(ときと)住職は,1964年に彼の名を刻んだイスラム教式の墓を建立しました。毎年8月6日には,有志や広島大学関係者により慰霊行事が執り行われています。また,令和2年(2020年)9月3日,ニック・ユソフ氏の遺影が,国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区中島町1番6号)にて登録されました。
(2)サイド・オマール氏
サイド・オマール氏はイギリス領マラヤ,ジョホール州の王族アルサゴフ家の出身でした。興南寮で被爆し,生き残った留学生と一緒に広島文理大の校庭で野宿をして,行方不明となった同級生のニック・ユソフ氏を捜索するとともに,被災に苦しむ広島市民を助けました。終戦後,東京へ戻る途中で病状が悪化し,京都で途中下車をして8月30日に京都帝国大学附属病院に入院し,9月4日早朝に原爆症により亡くなりました。遺体は当時の市営墓地である南禅寺,大日山に埋葬されました。現在は,京都の洛北圓光寺にイスラム教式の墓碑が建立され,毎年9月上旬にオマール忌が実施されています。
5 戦後の南方特別留学生
終戦により多くの南方特別留学生は,学業半ばして混乱の日本から母国に帰国していきました。戦後,彼らは母国の様々な分野において指導的立場で活躍するとともに,親日家,知日家として日本との友好関係の強化に貢献しました。また,被爆した留学生は自らの被爆体験を母国で語り伝えるとともに,原爆展の実施などを通じて平和への思いを海外に伝えてきました。
彼らが広島で抱いた勉学への志や平和への思いを風化させることなく次の世代に伝えていくことは,私たちの世代に課せられた使命であるといえます。
【参考文献】
『被爆した南方特別留学生への名誉博士号授与の記録』広島大学
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