「ヒロシマ復興に立ち向かった 使命感と市民との信頼」 広島銀行 史料室「記憶の金庫ミュージアム」
広島に原爆が落とされた1945年8月6日、爆心地から約260m東にあった広島銀行の前身である旧芸備銀行本店は、一瞬にして黒焦げになりました。2021年5月、その同じ場所で3代目となる新社屋が完成。建物内には、広島銀行が地域の人々と苦難を乗り越え発展してきたことが分かる資料を展示する史料室「記憶の金庫ミュージアム」が設けられました。史料室を案内していただきながら、ひろぎんグループがヒロシマへ寄せる思いを聞きました。
広島銀行は1878年創業で、140年を超える歴史を物語る約9000点もの資料は、これまで広島県立文書館で保管されてきました。史料室には、開設に合わせて返却されたものと、行員OBから集めたものを合わせて171点が展示されています。また、展示される現物や写真、記録文書で、広島銀行が国立銀行として創業し、経済環境の変化にあわせて普通銀行へと転換、芸備銀行から広島銀行へ、そして現在のひろぎんホールディングス設立に至るまでの歩みが紹介されています。
史料室の中央あたりに、原爆投下直後の廃墟と化した本通り付近の写真パネルが展示されています。解説によると「当時の芸備銀行本店で勤務していた約450人の内、役職員144人が死亡、生存していた職員のほとんども負傷し、本店をはじめ8店が全焼して、3店が半焼した」とあります。
業務を続けるのは不可能かと思われた原爆投下から2日後の8月8日、芸備銀行は日本銀行に営業室を借り受け、営業を再開。極度の人手不足、食糧難、物資不足の中、焼け残ったビール箱を机やイスにして業務を遂行したそうです。血のついたシャツで業務を行う職員の姿や原爆被害を伝える写真パネル、「通帳や印鑑がなくても預金者の言葉を信じて、拇印だけで預金や火災保険の給付金を支払った」「被災した職員がもう助からないと思い、記憶していた預金残高や現金有高など覚えている限りを報告した後に亡くなった」などのエピソードも紹介されています。
「原爆被災から再建、復興へ」のエリアには、ガラスケースの中に色あせた冊子が一つ。爆心地から1500mの場所にあった京橋支店の金庫の中で、蒸し焼きになった現金在高帳です。残された現物が、目を背けることができない事実を今に伝えています。
史料室の立ち上げから携わったひろぎんホールディングス経営企画部の以南雄佑(いなみゆうすけ)さんは、これらの資料を前にして「自分たちも被災者でありながら、広島市民との信頼関係を守り、広島の復興を願って職務を全うした職員の使命感に胸を打たれました」と話します。
また、新社屋の1階屋外の公開緑地には、「旧芸備銀行本店の被爆柱頭」と「物故者慰霊碑」が展示されています。
1927年、当時には珍しいギリシャ風のイオニア式建築として完成した芸備銀行本店は、原爆投下にあっても建物はかろうじて残りました。その後は大改修を経て1962年まで、戦後ヒロシマの復興を支えました。公開緑地に展示されている柱頭は、その建物正面に設置されていた4本の柱の装飾部分です。
慰霊碑は1969年に建立されたもので、これまで本店の屋上にあったため職員しか見ることができませんでしたが、この度の移設で誰でも訪れることができるようになり、道行く人が自由に出入りできます。
毎年8月6日には、役職員が慰霊碑を参拝し、献花を行っています。
史料室にいると、広島銀行の歴史の多くが、被爆後のヒロシマの復興の歴史と重なっていることがよく分かります。また、広島銀行の歴代の通帳やグッズ、イメージモデルやキャラクターの変遷の解説、映像コンテンツも展示され、懐かしさを感じると同時にいかに私たちの暮らしと密接にかかわっているかを実感することができます。
ひろぎんホールディングス経営企画部は、「広島の企業として、ヒロシマの歴史を語り伝える使命があると思っています。史料室や被爆柱頭、慰霊碑が平和を考えるきっかけになれば幸いです。また新入社員が自社の歴史を学ぶ場としても活用していきたい」と話しています。
現在、史料室は一般公開されていませんが、ひろぎんホールディングスが主催するイベントや株主総会などの際に限定的に公開していく予定です。平和を願う新たな拠点として、機会を見つけて訪れてみてください。
ひろぎんホールディングス本社ビル
広島市中区紙屋町1-3-8
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