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国際平和拠点ひろしま

今も残る被爆建物とともに。
人々の体験を後世に伝える―江波・海宝寺




戦国時代の1568(永禄11)年、現在の広島市中区江波に創建された浄土真宗本願寺派の海宝寺。寺はさらに古くからこの地に建っていたといわれ、長く地元の人々に慕われてきた歴史ある寺院です。


広電江波電停から徒歩約11分の距離にたつ海宝寺


本堂の襖絵。開基450年を記念して画家 船田奇岑(ふなだ きしん)さんが制作した


境内の入口に立つ、築110年の木造の山門は、爆心地から約3.5kmで爆風にさらされた被爆建物として登録されています。そんな海宝寺の15代目住職、長門義城(ながと ぎじょう)さんは、被爆建物である山門を守りながら、先代の住職、地域の人々から伝え聞いた話を、地域の小学生たちに伝える活動を行っています。


海宝寺15代目住職の長門義城さん


「広島に原爆が投下された1945(昭和20)年、当時築221年だった本堂は、被爆して瓦がほとんど飛ばされ、建物も傾いていたそうです。近隣住民の方のお話によると、この辺りの民家も壁が飛ばされ、畳が飛び上がって2階の天井を突き破ったと聞いています。当寺の本堂もしばらくはトタン屋根でしのいでいましたが、1984(昭和59)年に建て替えられました。山門は今も当時の姿を保っています」

住職は、こうした話を年に1度から2度、地元の小学生が平和学習や町探検で訪れる際に話しています。被爆した山門や、境内の戦没者慰霊碑に刻まれた319人の名前を見せながら話をすると、子どもたちの表情が変わるといいます。「やはり、現物があることで子どもたちも感じるものがあるようです」と住職。


お話用にまとめられた資料。昔の様子がわかる貴重な写真なども保存されている


境内にある戦没者慰霊碑。今でも地元の江波遺族会の人々がきれいに掃除し、花を供えられているそう


戦没者慰霊碑の裏側。亡くなられた方の名前が刻まれている


住職によると、原爆投下の日、地元の小学校は窓ガラスが割れるなどの被害を受けましたが、やけどやケガをした人が大勢運び込まれ、大混乱となりました。軍の医療団とともに、校長先生も学校に泊まり込んで人々を助けたそうです。またその日は、江波地域の夏祭りの日でもありました。祭りの仕事があるからと、広島市の中心部での建物疎開(※1)の作業を替わってもらった人が被爆して亡くなり、そのことをずっと後悔し続けている人もいたそうです。

(※1)建物疎開 空襲により火災が周辺に広がるのを防ぐために、あらかじめ建物を取り壊して防火地帯を作ること。

ほかにも、当時小学生で、疎開先から江波に一時戻っていた娘さんが父親を看取ることになってしまったという話もありました。娘さんが疎開先に帰る予定だった日、父親から「ごちそうを作るから」と引き留められました。しかし翌日、広島市の中心部へと出かけた父親は被爆して帰宅し、そのまま看取ることになってしまったといいます。「混乱のさなかですから、亡くなったお父様を、娘さんが一人浜辺で火葬したと聞いています」と住職。

すぐ近くの本川の河口では、被爆して全身にやけどを負った人々が、いかだの上で片膝をつき、おそらくやけどの傷みから、両手を万歳するように上げた体勢で亡くなっていたという手記も残されています。

「お寺には、地域の皆様が体験されたことや被爆当時のお話しなどが自然と集まるのですよね。戦争は昔の話だと思っていましたが、今のウクライナの状況を見ると決して他人事ではありません。地域の皆様のお話を子どもたちや後世の人々に伝えるのも、お寺の大切な役割だと思います」

海宝寺では、山門だけでなく境内にある鐘楼もかつて被爆建物リストに登録されていました。しかし2004(平成16)年の台風で柱が崩壊し、建て替えたために現在はリストから除外されました。被爆当時の部材は一部再利用されており、色が褪せているため今も見てわかるようになっています。


海宝寺の鐘撞堂


梵鐘は戦時中に国から金属供出を求められて回収されていましたが、1958(昭和33)年に、原爆で家族を失った地域住民の光廣三郎(みつひろ さぶろう)さんが平和への想いを込めて梵鐘を寺に寄進しました。光廣さんと当時の住職が、京都で「一番音色が良いものを」と選んだという梵鐘は、今も朝夕に美しい鐘の音を江波の街に響かせています。


寄進された梵鐘には「世界平和之鐘」と刻まれている


海宝寺では、被爆や戦争の歴史を伝える山門とともに、街の人々の話や鐘楼に込められた願いを大切に語り継いできました。「山門は瓦の下の木材が古くなり、修理をしなければなりません。ただ、そのためには屋根瓦を替える必要があり、被爆建物としての費用補助の対象外となってしまうので、どうしたものか悩んでいます」

保存工事が高額になってしまうため、市などの職員と相談しながら良い方法を模索している被爆建物の管理者は多いといいます。

山門に残された記憶や地域の人々から集まった話を、今の子どもたちや、さらに後世まで、いかに残していくか。長門さんは、同じように人々の戦争体験を語り継ぐ他のお寺の住職たちとも情報共有しながらその方法を模索しています。


海宝寺

広島市中区江波南1-11-12

082-232-0767

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