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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1I 軍都広島の歩み

1 軍都広島

広島が軍都として発展する起点となったのは,明治維新の兵制改革に遡る。明治4(1871)年に東京・大阪・鎮西・東北の4鎮台が設置されたが,この時,広島に鎮西鎮台第1分営が設置された。明治6年には全国の鎮台配置が改定され,全国を6軍管に分け,広島には第5軍管広島鎮台が設置された(広島以外では,鎮台は東京・仙台・名古屋・大阪・熊本に置かれた)。その後,明治21年に師団司令部条例が公布され,広島鎮台が廃され,第5師団司令部が設置された。このように広島は中四国を管轄する軍事拠点として位置付けられていた。そして,明治27年に日清戦争が勃発すると,陸軍の派兵基地・兵站基地として,その重要性がにわかにクローズアップされるようになった。

日清戦争では,開戦を前に第5師団に動員が下令され,明治27年6月9日には歩兵第11聯隊第1大隊が宇品を出航した。ちょうどこの年,山陽鉄道が広島まで開通した。これと明治22年に築港された宇品港とが結ばれることによって,広島は朝鮮半島・中国大陸への格好の派兵基地となった。広島駅と宇品港を結ぶ宇品線は2週間余の突貫工事で完成し,戦争に間に合わせた。開戦とともに広島以東の各師団が相次いで広島に集結し,宇品から出航したが,これらの将兵は,広島市内や近郊に分宿した。その員数は軍夫を含め17万1,098人,滞在日数は数日から長期の場合は数十日にわたることもあった。9月8日には大本営を広島に進めることが発表され,15日に明治天皇が来広した。帝国議会も広島で開かれ,広島は顕官名士で充満し,臨時首都の様相を呈した。

この戦争を機に広島は,派兵基地・兵站基地として,軍事施設の拡充が図られる。まず,帰還部隊の受け入れに備えて似島臨時陸軍検疫所が明治28年6月に開庁した。翌年には広島軍用水道の工事が始まった(明治31年8月完成)。上水道の建設は,陸軍船舶への上水補給のほか,伝染病対策として欠かせないものであった(日清戦争後帰還部隊を迎えた広島は,コレラの猖獗に悩まされ,明治28年中に,広島市で1,302人がコレラにより死亡した)。陸軍省は次のように広島軍用水道の必要性を力説する1)。

広島県広島市ハ宇品港ト并ヒ兵略上ノ一策源地タルハ敢テ多弁ヲ要セス,然ルニ同市ノ飲料水汚悪ニシテ往々悪疫蔓延ノ媒介ヲナシ軍隊ヲ危殆ニ陥サラシムルモノ少カラス,故ヲ以テ其土地ノ形勢港湾ト相待チテ頗ル良好ナリト雖モ水道ヲ布設シ此ノ衛生上ノ欠点ヲ除去スルニアラスンハ充分ニ之カ用ヲ為スニ由ナク,軍隊ヲ派遣還送スルニ当リテモ一部団隊ヲ同時ニ此所ニ駐屯セシムルヲ得ス,……水道ヲ同市ニ布設スルハ実ニ忽緒ニ付スヘカラサルモノタリ,依テ一日モ早ク其工ヲ竣ヘ広島ヲ安全ナル策源地トナシ,且宇品港ノ集積倉庫ノ如キモ之ニ伴フテ永久ノ計画ヲ要ス……

上水道建設は,広島市にとっても懸案であり,軍用水道に接続することで市民への給水が可能となったのである。

戦争中フル稼働した宇品港の輸送機能は,戦後も新たに領有した植民地に軍隊が置かれたこともあって,その利用価値を減じることはなく,明治29年3月に臨時陸軍運輸通信部宇品支部が設置された。これが後の陸軍運輸部である。このような宇品の役割と関連して,広島には,糧秣支廠・被服支廠・兵器支廠が置かれた。また,陸軍地方幼年学校が設置されている(明治30(1897)年開校,昭和3(1928)年廃校,同11年復活)。

広島の派兵拠点としての軍都的色彩は,戦時に一挙に噴出する。明治33(1900)年の北清事変に続いて,同37・38年の日露戦争でも,広島は出撃拠点となり,戦争景気を当て込んで,物資と人間が殺到した。とくに宇品の繁盛は目ざましく,開戦前3,200人といわれた人口は,開戦後9,000人に膨れ上がり,ほかに軍事輸送に従事する人夫が3,000人に達したという。また,100軒余の飲食店,30軒近い料理屋,80軒に及ぶ宿屋・下宿屋,人力車夫300人以上,貸座敷40軒余,娼妓200余人という繁盛ぶりであった。満州事変以降,日中戦争・太平洋戦争と戦争が激化するにつれて,広島の役割はさらに増大していく。

2 満州事変から日中戦争へ

昭和6(1931)年9月,南満州鉄道爆破事件(関東軍による謀略)をきっかけに,軍部の主導による満州(中国東北部)への侵略が始まった(満州事変)。中国は国際連盟に提訴し,国際世論は日本の非を鳴らした。しかし,新聞報道や軍部のキャンペーンの影響を受けて,国民世論は一気に戦争支持に傾いた。9月26日には帝国在郷軍人会広島市聯合分会と中国新聞社の主催で軍事大講演会が開催された。11月3日には広島市町総代聯合会が時局問題市民大会を比治山御便殿広場で開いた。ふたたび軍都の姿を取り戻した広島では,宇品から中国大陸に向けて出発する増援部隊の歓送で大繁忙を極めた。11月17日の第8師団の宇品出発には10万人が歓送した。12月21日には郷土師団である第5師団の「出征」で歓送の熱狂は最高潮に達し,この日の宇品付近の人出は13万人にのぼった。

昭和12年7月,中国との全面戦争に突入し,政府は内地3個師団の増派を決定,第5師団にも動員が下令された。まさに大動員で,応召者たちは,盛大な見送りを受け,8月1日から順次宇品港から華北の戦線に向かった。

日中戦争の緒戦においては,日本軍は圧倒的に優勢であった。しかし,中国側の抵抗も頑強で,予想外の苦戦を強いられ,多数の戦死者を出した。8月末には早くも戦死した兵士の遺家族の談話が「陛下のお召だ」「当人も本懐」「本望です」「平然と語る」「戦死は覚悟」などの見出しつきで美談調に脚色されて新聞紙面を賑わすようになった2)。

可哀さうとは思ひますが,陛下のお召しにより出征,名誉の戦死をとげたのですから決して惜しいとは思ひません……

かねて覚悟はしてをりました,私のやうなものゝ子供でも天子様のお役にたてば幸せだと思ってをります……

10月2日には第5師団最初の遺骨が広島駅に到着,このころから年内にかけて,ほぼどの町村にも戦死の知らせが届くようになる。遺骨が郷里に戻ると,盛大な町村葬が営まれた。

戦死者の増加とひきかえに,日本軍は中国の重要都市を次々と攻め落とし,12月13日には国民政府の首都南京が陥落した。広島市では10万人の市民が提灯行列に繰り出して,戦勝気分にひたった。「敵の首都南京陥落」だけに,戦争終結の期待も高まって手放しの戦勝祝賀行事が行われたのであったが,その後も中国側の抵抗は続き,戦争は終わらなかった。日本軍は中国大陸の奥深く進攻を続け,長期にわたる戦争に突入していく。

大規模かつ長期にわたる戦争を支えるため,経済の戦時体制化を必至とした。昭和13(1938)年には国家総動員法が制定され,総力戦遂行のためすべての人的・物的資源を統制運用できる権限が政府に与えられた。軍需産業への傾斜,企業統制,物資・物価統制,労働統制(徴用)など経済統制がしだいに強化され,一般消費物資が極度に規制され,国民は耐乏生活を強いられていく。

3 本土決戦体制

日中戦争が泥沼化し,米英との対立が深まるなかで,昭和16(1941)年12月8日,日本軍はマレー半島に上陸,ハワイ真珠湾を奇襲攻撃し,対米英戦に突入した。これを受けて,10日には県・市・大政翼賛会県支部の主催により対米英宣戦必勝広島県民大会が広島護国神社前で開催され,「われらは深く忠勇なる皇軍に信頼し最大の感謝を捧げるとともにいかなる困苦欠乏をも断じてこれを克服しもって将兵をして後顧の憂ひなからしめんことを期す」などの決議があげられた。

日本軍は大攻勢により開戦後半年あまりで東南アジアから太平洋一帯の広大な地域を占領したが,それ以後は,連合軍の本格的反攻が始まり,太平洋の島々で日本軍が次々と「玉砕」し,やがて日本本土が米軍の空襲を受けるようになった。絶望的抗戦となったが,戦争指導部は有利な講和にこだわり,本土決戦に備えた。

昭和20年4月,連合軍の上陸で本土が分断された場合に備え,東日本の諸軍を統轄する第1総軍(司令部・東京)と西日本の諸軍を統轄する第2総軍(司令部・広島)を設置した。第2総軍は,第15方面軍(司令部・大阪)と第16方面軍(司令部・福岡)を統轄し,広島市二葉の里の元騎兵第5聯隊跡に司令部を置いた。6月には第59軍(第15方面軍隷下)が創設され,広島師管区司令部が中国軍管区司令部となった。軍管区制にあわせ,国の出先機関や県庁を指揮する地方総監府を設置することになり,中国地方総監府が広島市に設置された。

宇品には陸軍の船舶輸送作戦の業務を遂行する船舶司令部(運輸部と二身一体)があり,内地・外地240隊,30万人を超える部隊(暁部隊)を指揮する役を担った。広島は戦争末期にいたって,ますます陸軍の重要拠点となったのである。なお,広島湾をはさんだ至近距離にある呉市は,呉鎮守府と東洋最大の兵器工場である呉海軍工廠を擁する海軍の拠点であった。

一方,本土決戦に備える地域組織として,地域単位に在郷軍人を招集して編成する地区特設警備隊が置かれた。広島県では26隊(うち広島市2隊)が編成された。また,新たに国民義勇隊を創設し,国民学校初等科修了以上で男子は65歳以下,女子は45歳以下の全国民を編成することになった。組織は地域組織と職域組織に二本立てとし,地域組織として市町村に市町村国民義勇隊が組織された。広島市では,東西の2部隊と軍管理工場を単位とする職域義勇隊を編成した。これとは別に,中等学校・専門学校の生徒は学徒隊に組織された。

本土空襲必至となるなかで,建物疎開(防空空地を設けるための強制的建物除却)が行われた。広島市は,昭和19年11月,133か所・8,200坪の建物疎開が告示され,同年中に第1次建物疎開400件が完了した。同20年には,第2次から第5次にわたり5,901件が実施され,第6次2,500件の実施中に,8月6日を迎えた。建物疎開作業には,地区特設警備隊,市内および周辺町村の国民義勇隊,学徒隊(市内各中等学校,国民学校高等科)などが動員された。

空襲対策として,大都市では学童集団疎開が実施された。広島市も昭和20年3月に指定され,国民学校3年から6年までの学童が集団疎開することになった。7月ごろまでに,集団疎開8,500人,縁故疎開1万5,000人と合わせ疎開学童数は2万3,500人に及んだ。このうち,幟町国民学校からは1,095人の学童が山県郡壬生町,八重町へ,竹屋国民学校からは650人の学童が山県郡加計町・安野村・戸河内町・筒賀村・殿賀村へ集団疎開した。しかし,その後の疎開学童には過酷な運命が待ちうけていた。8月6日の原爆投下で肉親の多くが死亡し,帰るべき家を失った。

4 8月6日の広島

広島市は,太平洋戦争勃発直後の昭和16(1941)年末,人口41万3,889人を擁していたが,戦争の推移につれ,市民の数はしだいに減少していった。昭和19年以降,兵役により1万6,208人,疎開により10万1,200人が広島を離れた。さらに学童疎開もあり,同20年6月末現在の米穀配給登録人口は24万5,423人にまで減少した。

一方,中国地方の中枢都市としての機能は,他都市が焼土化するにつれて,ますますその重要性をたかめていた。広島は,西日本における決戦の中枢として第2総軍司令部,陸軍の船舶輸送の中枢としての船舶司令部,中国地方陸軍諸部隊の中枢としての中国軍管区など,多数の部隊を擁しており,8月6日当日の在広の陸軍軍人数は約4万人と推定される。広島地域の全被雇用者数は約13万人,うち工場関係では,日本製鋼所広島製作所・東洋工業・陸軍被服支廠・三菱重工業広島造船所・同広島機械製作所などの10大工場で5万3,361人が働いていたのをはじめ,6,191の工場で8万3,671人が生産に従事していた。戦争末期には,動員学徒および朝鮮人徴用工の比重が増していた。

8月6日の広島では,早朝から建物疎開作業が行われていた。防空対策として実施されたものであったが,結果として,そのため大被害を蒙ることになった。建物疎開には,県内の地区特設警備隊・国民義勇隊・学徒隊の出動が命じられ,8月6日には,広島市内の地域国民義勇隊は2万2,500人,郡部の地域国民義勇隊7,062人,動員学徒9,111人が出動していた。主な作業場所は,小網町・鶴見町・雑魚場町・水主町付近の4か所で,この4地域に約1万8,000人が出動していた(戦後行われた調査による)。

8月6日原爆投下時,広島には居住者,軍人,通勤等による入市者を含め35万人ほどの人がいたと推計されている。


注・参考文献

1)陸軍省「壱大日記」1895 年 10 月(防衛省防衛研究所戦史研究センター蔵)

2)『中国新聞』1937 年8月 23 日

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