Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1コラム:高野源進書簡 原爆投下前後の広島県知事の思い
原爆投下時広島県知事であった高野源進が,大阪府次長時代の上司であった池田清(大阪府知事,貴族院議員,衆議院議員など歴任)に宛てた4通の書簡がある。池田清の私設秘書が保存していたもので,現在は広島県立文書館に収蔵されている。原爆投下に直面した広島県知事の思いが伝わるこの書簡を,ここで紹介したい。
昭和20(1945)年6月,本土決戦に備えた行政機構再編の一環として地方総監府が設置され,広島県知事の大塚惟精が中国地方総監に就任した。後任の広島県知事には,大阪府次長の高野源進が就いた。高野の最初の書簡は,昭和20年6月20日付,広島県知事に赴任した直後のものである。すでに大阪空襲を体験した民防空の責任者として当然のことではあるが,書簡から高野の最大の関心事が,空襲への備えにあったことがうかがえる。
当地は今日迄は空襲も比較的少なかりしも何れ近々大空襲あることと覚悟致居り候,当地は地域狭小河川多く殆んど全部木造建築にて火災発生せば如何とも致難き状況にて唯心のみあせり居り候
原爆投下目標となっていたがゆえに広島への空襲が禁止されていたことを県知事は知る由もなかったが,7月20日付の書簡では,広島に空襲がないことを,「却って気味悪き様感ぜられ居り候」としている。
中小都市の總てが焼土と化せる昨今,当広島市のみはさしたる被害も蒙らず,却って気味悪き様感ぜられ居り候,果して間に合ふや否や不明なるも目下大々的に建物の疎開を実施中に有之候
しかし,建物疎開を無意味化するほどの巨大兵器が用意されていたのであり,結果的には学徒,国民義勇隊として動員された建物疎開作業従事者が大被害を蒙ることになった。水主町にあった県庁も原爆で倒壊し,出勤・通勤途上の職員も全滅に近い被害を受けた。8月6日当日,高野は福山市に出張中で難を逃れたが,大塚総監,粟屋仙吉広島市長は死亡した。高野は生き残った行政トップとして,原爆投下後の広島市の処理に当面させられた。臨時の県庁は当初,比治山下の多聞院,7日には東警察署に移転,さらに8月20日に安芸郡府中町の東洋工業内に移転した。
原爆投下,終戦後の9月7日の書簡は,東洋工業内の県庁から出されている。敗戦は誠に無念,と心情を吐露しつつ,天皇の命令を承り皇国の再建を期す,と誓っている。
大東亜戦争も斯かる終結を見るとは誠に無念至極に奉存候,然れ共今や何をか言はむ,只管承詔必謹皇国の再建を期するのみに御座候
一方,県庁職員は出張中の者を除き全部が被害を受け,606人がすでに死亡し,「尚相当数の死者を出すこと」を覚悟している。また,原爆の威力を目の当たりにして,「科学の研究こそ将来戦争の勝負を決する唯一無二の戦法」としている。
当県庁員にて既に死亡せるもの六百六名尚相当数の死者を出すことと存じ居り候,生を全ふせしものゝ多くは出張中の為当地に在らざりし者にて,重軽傷者を加ふれば在庁員の全部と云ふも過言に無之,将来の戦争態形につきては深く考ひさせらるゝもの有之,防空の如きは如何ともすべからざる次第と存ぜられ候,科学の研究こそ将来戦争の勝負を決する唯一無二の戦法かと存ぜられ候
占領軍が矢継ぎ早に改革指令を出しているなかで,10月4日の書簡では,「今明年中には政治上経済上国内は混沌たる状況を招来すべく甚だ憂慮に不堪る次第に御座候」と,不安を述べている。この直後,高野は広島を離れ警視総監に転任する。そして,「混沌たる状況を招来」と予期し憂慮したのが的中したかのごとく,翌年9月公職追放されたのである。
(安藤福平)