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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1II 広島平和記念都市建設法制定による平和記念都市建設計画への 展開

1平和記念都市建設計画の内容

当初の法定計画としての復興計画は,3章に述べたような内容であった。次いで広島平和記念都市建設法制定に基づいて当初計画を改定して,新たな法定計画が立てられることとなるのであり,その計画は昭和27(1952)年3月31日をもって確定された「広島平和記念都市建設計画」であった。ここに至る大まかな過程を説明しよう(表4―3)。

表4―3 各種平和記念都市建設計画

各種計画

番号 計画名 計画主体 計画発表時期

広島平和記念都市建設綜合計画書(案)

広島市 昭和24年9月23日

広島平和記念都市建設事業計画案

広島市 昭和24年10月3日

広島平和都市建設構想試案

広島市役所市長室

昭和25年4月

広島平和都市建設構想案

広島市役所市長室

昭和25年10月

広島平和記念都市建設計画についての意見書

広島平和記念都市建設専門委員会

昭和26年8月6日

広島平和記念都市建設計画を策定するために市当局,とりわけ広島市長室が中心となり,丹下健三や浅田孝らも加わって,昭和24年11月1日から昭和25年2月4日まで集中的に計画策定作業が進められた。このなかで平和公園計画として中央公園を含めた計画図が作成され,「広島平和都市建設構想試案」がまとめられ,同25年4月に発行された。平和記念都市ではなく平和都市を建設すると表現され,第1章の「平和都市としての広島」において「広島を平和都市として建設する理由」をとうとうとして論述していること,平和施設として平和会館,平和公園とともに平和緑道,橋梁,平和記念苗圃1)も含めていること,文化施設(図書館,科学館,美術館,野外劇場,学術施設),児童センターだけでなく,レクリエーション施設(休養,慰楽,保健,衛生,体育運動並に交歓に供し得るような施設)も計画対象に含めていること,等である。

次いで「『広島平和都市建設構想案』(昭和25年10月)」が発表され,この構想案の特徴は,平和都市というキーワードの方が重用されていることである。内容をみると,「平和都市としての広島」,「平和都市建設計画の中心的課題」として平和都市法と絡めながら平和都市の理念を展開し,具体的な平和施設を機能や面積を含めて提示している。ここではのちに平和記念施設と呼ばれる平和施設,当初の復興計画における中島公園と中央公園とを合わせた平和公園,のちに平和大通りと呼ばれる平和緑道などが提案されている。

広島平和記念都市建設専門委員会は『広島平和記念都市建設計画についての意見書』(昭和26年8月6日)という全16頁の小冊子を作成しているが,広島平和記念都市建設計画に関する広島市長の諮問に答申する形でまとめられたもので,昭和25年10月11日の第1回から,同26年6月5日の第5回までの検討結果が記されている。内容として注目されるのは,平和記念都市を建設する上で注意すべきこと,とりわけ平和記念施設計画の考え方が提示されていることである。もう一つ注目すべきは,百メートル道路を

「平和記念百米道路」と呼んでいることである。広島平和記念都市建設法適用に当たり,平和記念施設関連に名付けることによって少しでも高比率の補助対象としようという意図もうかがえる。このように,広島平和記念都市建設法制定から平和都市建設への多くの構想が設定され,平和記念都市建設計画への法定計画への準備が整ったのである。

2平和記念都市建設計画への計画改定

昭和27(1952)年3月29日に開催された第48回都市計画広島地方審議会において,都市計画道路,都市計画公園および都市計画緑地,記念施設,墓地,下水道,街路事業,区画整理区域等が審議・決定された。都市計画道路については,当初計画における幅員百メートルの比治山庚午線を含む27路線となった。

公園緑地計画に関しては,当初計画では区画整理の換地設計が進んでいなかったため,区域内の公園計画が不可能な状態であった。平和記念都市建設計画の段階になると区画整理も相当程度進捗してきたので,小公園も計画決定できるようになってきた。さらに,当初計画ではなぜか計画決定していなかったいくつかの大公園も改めて計画決定扱いとなった。以上により,当初計画で3か所の大公園,32か所の小公園,4か所の緑地,1か所の墓地,計40か所であったが,平和記念都市建設計画では6か所の大公園,72か所の小公園,8か所の緑地,2か所の墓地,計88か所と飛躍的に増大したのである。なかでも特徴的なのは13.14ヘクタールの東部河岸緑地,8.18ヘクタールの西部河岸緑地の計画であった。元宇品公園,比治山公園,江波山公園,総合運動公園は実質的には存在していたので,大公園の主な変更は,中島公園を公園から外して記念施設扱いとしたことである。

土地区画整理に関しては,昭和21年当初計画として総面積1,322.5ヘクタールを「広島特別都市計画事業復興土地区画整理」として決定されていたが,昭和27年にその表現を「広島平和記念都市建設事業復興土地区画整理」と改めるとともに,東部復興区域を579.0ヘクタールとし,西部復興区域を481.1ヘクタールとして,合計1,060.1ヘクタールとなったのである。そして東部復興は広島市長執行とし,西部復興は広島県知事執行としたのであった。

用途地域については,建築基準法の施行により工業地域を,準工業地域と工業専用地区とに分け,中央の百メートル道路以北と広島駅裏の一部を商業地域とし,また吉島本町刑務所以南と丹那の一部ならびに宇品埋立地を準工業地域に変更するとともに,旧吉島飛行場を準工業地域に追加等の変更を行っている。この審議会におけるもう一つのきわめて特徴的な内容が,記念施設の決定であった。すなわち,平和都市法の制定に従来なかった特別の枠組みが可能となったのである。

このとき提示された具体的な記念施設は,爆心地からほぼ500メートル圏内の中島本町,天神町付近に12.21ヘクタールの平和記念公園と,記念公園内の平和記念館と慰霊碑であった。さらに平和記念館については,建物延坪2,825坪(テラス718坪)で,集会場,記念陳列室,本館を含むとされていた。先に述べた「広島平和都市建設構想案」では,記念施設でなく平和施設という表現であったが,その他平和アーチ,慰霊堂,原爆遺跡も含めていて,また平和記念公園でなく約85ヘクタールの平和公園としていたことからいえば,かなりの後退であったが,記念施設としての決定は全国的に例がなく,このような制度は特別法制定によって初めて可能になったのである(図4―1)。

3平和記念公園の形成過程

(1)平和記念公園コンペティション

広島平和記念都市建設法の成立によって新たな事態が出現した。先の都市計画を改定するという都市計画決定もその重要な事態であったが,それと前後するように広島にとって,大きな設計・計画に至るコンペティション(以下コンペ)が行われた。昭和24(1949)年,広島平和記念都市建設法の国会通過が確実となった時点で,平和記念公園コンペが実施されることとなったのである。この過程については,詳細は省くが,戦災復興計画で大公園の一つであった中島公園を公園の扱いからはずして平和記念施設として特別に扱い,国からの特別の補助の元に平和記念資料館,平和記念館を建設する動きが始動したのである。ここではまさに平和記念思想が定着したといえる。

「広島平和記念公園及記念館競技設計についての座談会」において寺崎幸助(当時広島市土木課長)は,「二十三年(昭和)の八月頃から募集の範囲,構想実現の方途等について種々相談した結果,二十四年五月二十日に募集計画を発表した次第であります」と述べている。

募集要項(要綱ともされる)で明らかにされた設計方針としては,1募集の主旨に叶ったもので環境に適応させること,2平和記念館と公園との総合的な計画とすること,3造園,苑路,広場,植樹の設計をすること(樹林については針濶を区別すること),4平和記念館,各種国際会議が出来る集会室,原子爆弾災害2)資料の陳列館,平和の鐘を釣る塔,集会場(収容人数2,000人),小会議室,事務室,図書室,大食堂等を計画すること,というものであった。

さらに,「建設月報1949年6月号」に掲載された「募集要綱」における「予定地の現況」3)では,「元産業奨励館の残骸があるが,これは適当修理の上存置する予定である」と,極めて重大な記述があるが,この内容がコンペ応募者に十分に伝わっていたかは不明であり,現に応募者の多くががこのことを踏まえた計画案に到達していなかったといえるのである。

(2)入選した丹下健三案

このコンペにおいて丹下健三グループ(代表丹下健三)案が入選する。平和記念公園の設計コンペは, 戦後のきわめて早い時期に実施されたコンペであったが,大きな話題を呼び,とりわけ広島という都市で 実施されたコンペは注目を浴びた。前年の広島市幟町に位置するカトリック教会(後に世界平和記念聖堂 と名付けられた聖堂)の設計コンペとともに,「広島」と「平和」というキーワードをもって,建築設計 分野での新たな潮流として注目されたのであった。平和記念公園コンペについては,昭和 24 年7月 20 日(一説には7月 18 日)に締め切られ,8月6日に結果が発表された。もっとも早い結果発表である同年8 月7日付中国新聞をみれば,図4―2のように「四萬坪に文化の粋,広島平和公園・當選作決る」の見出 しのもとに,「(前略)さきに平和記念公園および平和記念館設計図を全国 から懸賞募集したが,東大教授〔ママ〕丹下健三,浅田孝,大谷幸夫,木 村徳国四氏(東京在住)の共同作品が審査会の結果百四十五点の応募品の うちから輝く一等(賞金七万円)に入選した」と報じたのである。二等は 山下壽郎(東京都),三等荒井龍三(横浜市),佳作として山口和男(東京 都),杉本朝次(東京都),河内義就,藤本次郎(広島市),橋本文夫(東 京都),間野廣吉(東京都)の5組となっていた。ここに丹下を含む4人 グループの案が一等入選したのである。当時,このコンペは多くの注目を 集め,広島の設計業界でも当然関心が深かった。広島から応募した暁設計 の建築家グループの応募入選があったことが注目される。

そして,一等案についての説明としては,「同設計によると公園予定地 は公園面積三萬七千坪に対し,東から西に抜けて広島市自慢の百メートル 道路を正面として南向きに平和記念館を配置,同館は廊下によって本館と 集会場の二建物がつながれ,公園の中央には平和記念碑ともいうべきアー チの塔をつくり随所に緑樹が配されており百メートル道路に観光客が立 てば記念館の廊下―アーチの塔をすかしてアトムの残骸旧産業奨励館の ドームを見通し得るようになっている」と解説されていたのである。

昭和 24 年の補正予算によって平和記念公園の整備が始まった。そして 丹下健三が広島ピースセンターと呼んだ建物の建設が開始された。まず, のちに平和記念資料館本館となる陳列館が昭和 26 年2月に着工され,の ちに平和記念資料館東館となる平和記念館が同年3月に着工された。ところが予算規模が小さく,工事は 長期にわたった。未完成状態のまましばらく放置されていた時期もあったのである。

 一方,コンペ当初に集会所と呼ばれた建物は広島独自の記念施設といえないとして国の補助対象となら ず,最終的に地元財界からの寄付によって昭和 28 年 11 月,地元の設計事務所が大幅に設計変更して着工 となった。それは当初計画の集会場というものでなく,後に公会堂となるもので,しかもホテルと組み合わされた建物としての建設であった。

 建設中の陳列館の写真は,戦後の,広島の,復興過程の苦悩を表現するような光景を映し出している。建設途上ではこの資料館は鳥かごと揶揄されたように,がらんどうの躯体を晒していた(写真4―1)。一方,公 園内には立ち退きを迫られたままの多くの民家が残っていた。この民家が見えないように幔幕を張って平 和記念式典を挙行している光景もまた,広島の戦後復興過程を象徴している。

これらの建物も昭和 30 年になると相次いで竣工することとなる。もっとも着工が遅かった広島市公会 堂が最も早く同年3月に,平和記念館が同年5月,陳列館が同年8月竣工であった。また,公園内から民 家が昭和 34 年にはすべて取り除かれ,このころほぼ形を整えたことになる。なお,昭和 33 年4月,この 平和記念公園,資料館を会場として,復興大博覧会が開催された。戦前人口を超え,復興がかなりの程度 成し遂げられたと判断されたのである。


注・参考文献

1)「広島平和都市建設構想試案」(昭和 25 年 4 月)において「世界的諸行事の開催を記念して,また国際人の来訪記念として, 更に平和都市を緑化する為の補充用としての苗木を育成する為,平和記念苗圃を造成する」としている。

2)当時の表現のままである。

3)「建設月報 1949 年 6 月号」では「予定地の現況」として,「現況は広島市の中央部中島町一帯及び細工町の一部を加えた約123,750 平米で二つの川に挟まれた大体平坦なデルタ地帯を主体として川を隔てた対岸の一部には元産業奨励館の残骸がある が,これは適当修理の上存知する予定である。南部は百米計画道路に接し北端は丁字橋で相生橋に連続している。」としている。

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