Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1コラム:広島平和記念資料館の使命
はじめに
被爆後の焼け野原で,リュックを背負い,被爆した瓦や石を集める男がいた。広島平和記念資料館の初代館長となる長岡省吾であった。昭和23(1948)年,広島市は広島文理科大学の地質学鉱物学授業嘱託だった長岡に原子爆弾に関する臨時調査事務を委嘱し,翌24年には,基町の中央公民館内に「原爆参考資料陳列室」を設置する。当初は,机やいすの上に瓦や石を並べただけの展示であった。やがて,中央公民館の隣に「原爆記念館」が開設された。小さな施設だったけれども,被爆直後の広島市街地を再現したパノラマ模型を置き,海外の要人たちも訪れた。復興を模索するなか,広島市民は被爆体験を記録に残し,記憶にとどめる道を選択していく。
1資料館を作る
広島平和記念資料館が平和記念公園に開館したのは,被爆から10年後の昭和30(1955)年8月のことだ。原爆で壊滅的な被害を受けたが,広島では早くから復興に向けた活発な議論がなされ,被爆の翌21年には,「広島復興都市計画」が策定された。ただ,財政難のために,復興事業の進展は必ずしも芳しいものではなかった。
こうした状況を打開したのが,地方公共団体のみに適用される特別法「広島平和記念都市建設法」だ。昭和24年5月,衆参両院の満場一致で可決されたこの法律に支えられ,平和記念公園の整備が始まった。広島市は平和記念公園のデザインを広く一般に公募し,その結果,同年8月,145の作品から丹下健三東京大学助教授らのグループの案が一等に入選した。この案は,原爆ドーム,アーチ,記念陳列館を一直線に並べ,平和大通りからアーチを通して原爆ドームが見えるよう工夫が凝らされたものであった。
昭和26年2月,丹下が設計した「原爆資料陳列館」の建設がいよいよ始まり,やがて「廃墟の中に立ち上がる」イメージのピロティ形式の建物が出現する。とはいえ,資金難ゆえに,毎年少しずつ工事を進めては中断することの繰り返しとなり,完成までに足掛け5年も要した。資料館が開館し,長岡省吾が初代館長に就任したのは前述のように昭和30年8月のことである。当時,展示室はガラス張りで,日光が降り注ぎ,空調設備もなかった。長岡館長や原爆資料集成後援会(後年の原爆資料保存会)が集めた被爆資料や写真など,展示資料は限られていたが,初年度から11万人を超える入館者があった。入館料は,大人(13歳以上)20円,小人(13歳未満)10円だった。
2何を,どうやって伝えるか
実物の資料を中心とした展示の充実とともに,入館者はほぼ毎年増加し,昭和36(1961)年度には年間入館者が50万人を超えるまでになった。昭和39年,海外からの入館者のために,館内の展示を解説する英語版のオーディオガイドが始まった。翌年度以降,オーディオガイドは日本語版をはじめ他の言語にも拡充されていく(平成26年3月現在,中国語やハングル,フランス語など17か国語)。昭和45年には,来館者が感想や思いを書き込める「対話ノート」も置かれた。昭和46年度には,年間入館者が初めて100万人を超えた。入館料は,昭和47年に大人50円,小人30円に改定され,現在に至っている。
昭和48年,開館以来,初めての大規模な改修工事が行われた。このとき,展示室への日差しを遮断するなど資料の劣化防止の措置が施された。また,同じ時期,米軍が占領時代に収集し,本国に持ち帰っていた資料が日本に返還され,これら新資料に基づき,展示内容が一新された。
被爆から50年を前に,資料館は大きく生まれ変わる。平成3(1991)年,2度目の大改修が行われ,大型の映像装置などを取り入れた展示に更新された。そして,平成6年6月,東館が開館し,資料館は2館体制となる。新たに設けられた東館の常設展示では,被爆前の広島の歴史と原爆投下の経緯,被爆後の復興,核時代の現状,広島市の平和への取組などが紹介された。また,東館の地下1階には,企画展を開催する展示室のほか,被爆者が自らの体験を語るホールや会議室を設け,「平和学習の場」としての機能が充実した。さらに,国内外での原爆展も本格的に始まった。
3人間的悲惨を語り継ぐ
平成18(2006)年7月,戦後の建築物として初めて,平和記念資料館本館が国の重要文化財に指定された。広島市は,市民から意見を募りながら,学識経験者や被爆者などで構成される検討委員会での検討を経て,平成22年7月に「広島平和記念資料館展示整備等基本計画」を策定,観覧動線の変更を伴う建物の改修や全面展示更新の概要をまとめた。被爆者が高齢化し,戦争体験のない世代が多くを占めるなか,被爆の実相を伝える施設としての平和記念資料館の使命が強く意識された。平成22年の基本計画では,常設展示を「導入展示」,「被爆の実相」,「核兵器の危険性」,「広島の歩み」の4つのゾーンで構成し,「被爆の実相」を資料館の中心的な展示と位置づけている。「被爆の実相」は,原爆の悲惨さを人間(被爆者)の視点から伝えることを基本に据え,被爆者の遺品や当時の被害写真,映像も含めた実物資料の展示を重視し,原爆の非人道性,原爆被害の凄惨さ,被爆者や遺族の苦しみ,悲しみをこれまで以上に伝えることを目指している。
4国立原爆死没者追悼平和祈念館
平成14(2002)年8月,原爆死没者慰霊碑の東に国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館した。「原子爆弾死没者を心から追悼するとともに,その惨禍を語り継ぎ,広く内外へ伝え,歴史に学んで,核兵器のない平和な世界を築くことを誓います。」―祈念館の入口には,こう書かれた銘文が掲げられている。この施設は,原爆死没者の尊い犠牲を銘記して追悼の意を表し,原爆の惨禍を後世に受け継ぐために,国が広島(そして長崎)に設置したものだ。祈念館には,原爆死没者の氏名と遺影を公開する遺影コーナーや被爆体験記,証言映像,原爆被災写真などを公開する体験記閲覧室のほか,企画展の会場となる情報展示コーナー,そして平和祈念・死没者追悼空間があり,被爆体験継承のための充実した施設となっている。
平和記念資料館と追悼平和祈念館とは,それぞれの機能を補完し合いながら,より連携を深めていくことだろう。
(大瀬戸 正司・永井 均)
参考文献
・広島都市生活研究会編『広島被爆40年史-都市の復興』(広島市企画調整局文化担当,1985年)。
・広島平和記念資料館編『30年のあゆみ』(広島平和記念資料館,1987年)。
・被爆50年記念史編修研究会編『被爆50周年図説戦後広島市史-街と暮らしの50年』(広島市総務局公文書館,1996年)。
・財団法人広島平和文化センター編『広島平和文化センター20年誌-センターの歩み』(財団法人広島平和文化センター,
1997年)。
・原爆死没者追悼平和祈念館開設準備検討会編『原爆死没者追悼平和祈念館開設準備検討会最終報告』(厚生省保健医療局企画課,1998年)。
・広島平和記念資料館編『被爆60周年記念事業・広島平和記念資料館開館50周年企画展廃墟の中に立ち上がる-平和記念資料館とヒロシマの歩み』(広島平和記念資料館,2005年)。
・広島市都市整備局都市計画課編『広島平和記念都市建設法-理念を未来へ』(広島市都市整備局都市計画課,2008年)。
・広島市都市整備局都市計画課編『ひろしまの復興』(広島市都市整備局都市計画課,2005年)。
・『広島平和記念資料館更新計画』(広島市企画総務局国際平和推進部平和推進担当,2007年)。
・『広島平和記念資料館展示整備等基本計画』(広島市,2010年)。
・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館ホームページ。