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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1II 高度経済成長期

1 調整期間から朝鮮戦争特需へ

昭和23~24(1948年~49)年にかけて,わが国の産業経済は大きな転機を迎えた。連合国占領下においては当初,計画経済的・統制経済的政策が進められてきた。しかし,昭和23年12月に均衡予算や物価・賃金の統制を求めた「経済安定9原則」の発表,同24年3月に「ドッジ・ライン」の実施,翌4月に1ドル360円という固定為替レートの導入など,アメリカの方針転換もあって,しだいに自由主義的政策に重点が置かれるようになった。なかでも「ドッジ・ライン」は,当時の異常なインフレの抑制を目的に金融・財政の急激な引き締めを実施したものであるが,それによって全国に深刻な不況がもたらされた。

たとえば,わが国全体の完全失業者数は昭和23年に24万人であったのが,同24年に38万人(58.3%増),25年には44万人(15.8%増)に増加した(総務省「労働力調査年報」)。日本銀行広島支店による昭和24年6月の「金融経済報告」では,1~6月における広島県内の人員整理は122事業所,3,466人に達したとされる14)。その一方でインフレは着実に沈静化した。広島市における小売物価指数の前年比をみると,昭和22年に82.8%増,23年に70.9%増であったが,24年には17.4%増に少し落ち着き,25年には逆に17.0%減に転じた15)。

広島県製造業への影響を「工業統計表」からみていくと(表6―3),従業者5人以上の工場数は昭和23年の2,837か所から24年には3,029か所に増加したにもかかわらず,従業者数は11万3,581人から10万5,095人へ7.5%減となった(この間,従業者5人未満の零細工場の従業者数は1万717人から1万879人へほぼ横ばいであった)。これに対し,全国における従業者数の減少率は7.7%であったので,広島県の全国シェアは昭和23年の3.09%から24年には3.10%へ相対的に上昇した。

表6―3広島県の製造業と全国シェア(昭和24~27年)

  実数 変化率
昭和24年 25年 26年 27年 24-25年 26-27年
人口(千人) 2,070 2,082 2,097 2,106 0.59 0.42
事業所数(所) 3,029 3,812 4,338 4,294 25.85 -1.01
従業者数(人) 105,095 108,427 117,394 117,996 3.17 0.51
出荷額等(百万円) 34,285 51,509 92,000 103,619 50.24 12.63
人口(%) 2.53 2.50 2.48 2.45 -0.03 -0.03
事業所数(%) 2.79 2.44 2.61 2.55 -0.35 -0.05
従業者数(%) 3.10 2.81 2.77 2.73 -0.29 -0.04
出荷額等(%) 2.38 2.25 2.28 2.24 -0.13 -0.04

(注)1.資料は表6―1に同じ。下段は全国シェアと変化ポイント。

2.昭和23年から工場数は事業所数に変更され,24年から常時雇用労働者4人以上の事業所に対象が拡大。昭和25年から生産額は工業出荷額等に変更。出荷額等は名目値。

3.全国には沖縄県を含まない。

近年の研究では,「ドッジ・ライン」はその後の日本経済の発展基盤として機能したと評価されている16)。ところが当時の広島では,地域経済の急激な景況悪化は「経済政策の歴史的な流れに逆行したドッジ・ラインの時代錯誤性に,ひとえに起因したもの」17)という厳しい受け止めがされていた。

いずれにしても当時のわが国の産業経済は,官需依存と保護主義的政策からの脱却,いわばある種の構造調整を迫られていたはずであるが,その調整が十分に終わらないまま朝鮮戦争特需に突入した。

昭和25年6月25日に勃発した朝鮮戦争に伴う特需ブームは,「まさに経済復興の梃子として作用した」18)。全国についてみると,昭和10年を100とする鉱工業生産指数は,昭和21~22年には30台で低迷し,23年に50台,24年には60台にとどまっていたが,25年には83.3に上昇し,26年には111.1と戦前水準を凌駕した。この特需の影響は広島にとっても「起死回生のカンフル剤」となり,早くも翌7月から効果があらわれ,「不況にあえいでいた広島市の経済は,一転して活況を謳歌するにいたる」とされている19)。広島をはじめとするわが国の産業経済は,朝鮮戦争を契機に,その後の高度成長を実現したことになる。

2 生産県構想の登場

広島県の産業経済はなんとか復旧・復興してきたとはいえ,全国に比較して伸びや水準が高かったわけではない。朝鮮戦争を機会に製造業の従業者数は11万人を超え,生産額は昭和24(1949)年に343億円,25年に515億円,26年に920億円,そして27年には1,036億円の大台に達した。その半面,1950年代に入って全国シェアはむしろ低下した。1事業所当たり従業者数と人口千人当たり従業者数についても,昭和24年から27年にかけて全国平均を超えてはいたが,その水準は相対的に低下している(表6―4)。そのなかで従業者1人当たりの生産額,つまり労働生産性については,昭和25年まで全国平均の80%以下であったのが,26年から82%超となった。つまり,相対的に少ない従業者で生産額が相対的に多い生産活動ができるようになったといえる。しかし,全国水準にはまだ及ばず,2割程度の格差を残していた。

表6―4広島県の製造業の主要指標(昭和24~27年)

  実数 変化率
昭和24年 25年 26年 27年 24-25年 26-27年

1事業所当たり従業者数(人)

34.7 28.4 27.1 27.5 -18.02 1.54
人口千人当たり従業者数 50.8 52.1 56.0 56.0 2.57 0.10
従業者1人当たり出荷額等(千円) 326.2 475.1 783.7 878.2 45.62 12.05
1事業所当たり従業者数(全国100) 111.1 115.1 106.3 107.0 3.57 0.66
人口千人当たり従業者数(全国100) 122.3 112.2 111.7 111.3 -8.23 -0.32
従業者1人当たり出荷額等(全国100) 76.8 79.9 82.4 82.0 4.10 -0.51

(注)表6−3に同じ。

このような背景のもとで,昭和26年1月,選挙公約の1つに「消費県から生産県へ」を掲げた大原博夫・広島県知事が誕生した。同知事の考えは県庁内での調査・研究や審議を経てまとめられ,昭和27年12月に「生産県へのみち」,いわゆる「生産県構想」として発表された。これは,全国平均の80%弱にとどまっていた広島県の人口1人当たり県民所得を昭和31年度までに全国水準に引き上げることを目的としたもので,農林水産業の振興,商工業の振興,交通網の整備強化,治山治水の確立という4つの柱から構成されていた。

昭和26年7月の休戦会談開始とともに朝鮮戦争特需が終息していくなかで,「生産県構想」の提示はきわめて時宜を得たものであった。同27年4月には連合国占領下で禁止されていた新造船が認められるようになり,戦前から県内に集積のあった造船業が活気づいたことも同構想にとって追い風になった。

広島県における製造業の生産額は昭和21~23年には46都道府県(沖縄県を除く)のうち2桁台であったが,24年には第9位に上昇した。人口1人当たり県民所得は,32年度に全国平均に達したとされるが,30年度以降の統計がある内閣府「県民経済計算年報(長期時系列)」によれば,すでに30年度には沖縄県を除く46都道府県平均を3.3ポイント上回り,第8位(人口は第13位)に上昇している。

3 高度経済成長への突入

広島県製造業の従業者数は,昭和25(1950)年の10万8,427人から同30年に13万2,232人,35年に20万1,665人,そして40年には26万3,194人に増加した。全国シェアは昭和25年の2.81%(人口の全国シェアは2.50%)から35年にはやや低下したものの,40年には2.78%(同3.32%)まで再び上昇した。製造品出荷額等の成長はもっと順調であり,全国シェアは25年に2.25%であったのが,30年に2.31%,35年に2.48%,40年には2.87%となった。30年から40年にかけて,人口の順位は46都道府県(沖縄県を除く)のうち第12位で推移したが,製造業の従業者数も製造品出荷額等も第9位を維持した(昭和30年の従業者数は第8位)。

1950年代後半から60年代前半にかけて,広島市内には東洋工業淵崎工場,同宇品西工場,新明和工業広島工場,東京濾器広島工場などが立地した。そのほか県内では,バブコック日立呉事業所,日本紙業大竹工場,三菱レイヨン大竹事業所,三井石油化学工業岩国大竹工場,東京プレス工業広島工場などの主要工場が相次いで操業を開始した。そして昭和40年には,工業整備特別地域整備促進法(昭和39年)に基づいて福山市に日本鋼管福山製鉄所が立地した。

高度経済成長に突入したころの広島県製造業については,とくに2つの点を指摘しておく必要がある。

その1つは,従業者数の増加に比較して製造品出荷額等の伸びが高かったことから明らかなように,労働生産性(従業者1人当たり製造品出荷額等)が着実に上昇したことである。広島県製造業の労働生産性は昭和30年に全国の86.7%の水準から35年には全国の93.6%の水準まで上昇したものの,まだ全国平均を下回っていた。しかし,高度経済成長という時代の波にうまく乗ることができて,昭和40年には全国を3ポイントあまり超える水準となった。

この時期の労働生産性の成長は,全国・広島県を問わず,きわめて資本投入主導型であった。これは以下のように説明される。

すなわち,昭和30年と35年の「工業統計表」には従業者数4人以上の事業所について有形固定資産減価償却費─これは資本ストック水準を表しているとみなせる─が記載されている。有形固定資産減価償却費は30年から35年にかけて全国では1,418億円から3,731億円へ163%増であったのに対し,広島県では33.2億円から88.3億円へ166%増であった。また,製造品出荷額等は全国では90%増に対し,広島県では105%増であり,いずれも広島県の伸びが上回る。その一方,従業者数は全国53.1%増,広島県52.5%増で広島県が下回ったため,労働生産性の伸びは全国24.3%に対し,広島県はこれを10ポイント上回る34.3%となっている(金額は物価調整済み)。

この間,資本装備率(ここでは従業者1人当たり有形固定資産減価償却費)の伸びは全国71.8%に対し,広島県74.5%であり,やはり広島県が上回っている。資本装備率の伸びが製造品出荷額等の伸びに比べて著しく高いことは,労働生産性の成長に対する労働要因と知識・技術要因の寄与は小さかったことを意味する。折しも昭和33年6月から36年12月まで続いた「岩戸景気」のときには「投資が投資を呼ぶ」といわれたが,この言葉はこの時期の経済成長が資本投入主導型であったことを端的に表現している。そのなかでも広島県の製造業は,資本投入主導型経済成長の性格がより強かったといえよう。

もう1つは,中小・零細企業の厚みと広がりである。広島のような産業集積地域における中小・零細企業の多くは,鋳造・鍛造,金型製造,めっき,切削,研磨,熱処理,機械加工といったものづくりの基本的作業を担っており,主要企業の生産や試作を支える「基盤的支援産業」といわれる。

前述のとおり,爆心地周辺の広島の零細工場は原爆投下によって壊滅的打撃を受けたとみられるが,戦後の混乱が落ち着くと少しずつ戻ってきたか,あるいは新規起業が増えてきたことが推察される。広島県全体の数値ではあるが,「工業統計表」から従業者3人以下の零細事業所を取り出してみると,事業所数と就業者数は昭和25年に7,059か所,1万3,210人,30年に8,435か所,1万8,493人,35年に9,099か所,1万9,552人と増加している。従業者数の全国シェア(沖縄県を除く)も25年には2.27%であったのが,35年には3.45%まで上昇している。

昭和31年7月に発表された「経済白書」は「もはや戦後ではない」という表現で知られるが,そのころの広島に密度の高い「基盤的支援産業」の集積が形成されていたことは,ヒロテック(広島市)の社長を務めた鵜野俊雄の回想からうかがうこともできる。

すなわち,同社の前身の鵜野製作所は昭和7(1932)年に臨海部の近くで創業した。1950年代後半にはステンレス浴槽などを製造すると同時に,新たな事業展開を模索していた。鵜野氏によると,そのころ「十日市町[爆心地の西約1km]によく通ったもんです。専門化した小企業や個人商店が連なり,ものづくりには欠かせない街だったんです。当時は,自転車をこいで鋼材問屋に行き,必要な量だけ鋼材を切り売りしてもらう。工具店で買った刃物で削った後,熱処理業者に持ち込む。焼き入れをして,浴槽などの金型が出来上がった。鋼材など原料だけでなく,工具やボルトやナットなどの部品も,一本から売ってもらえる便利さがありました。まさに製造業者の規模に合わせた調達ができたわけです」20)としている。

4 高度経済成長の終わり

朝鮮戦争特需に湧いた昭和25(1950)年当時,広島県における製造業の主要業種は化学(製造品出荷額等の24.1%),食料品(19.8%),輸送用機械(14.5%)であった。その後,化学と食料品の地位が相対的に低下した代わりに,鉄鋼と一般機械が上位に登場した。これらの主力産業が牽引力となって,広島県の製造品出荷額等の順位は昭和27年から53年まで連続して第8~9位を維持し,43年には福岡県を抜いて中国・四国・九州で第1位に躍進した。全国シェアは昭和50年に3.17%(沖縄県を含む)でピークに達した。昭和50年に人口の全国シェアは2.36%であったので,広島県の産業はいかに製造業に特化していたかが分かる。

この間,人口1人当たり県民所得の順位は,昭和30(1955)年度の第8位から31年度に第7位,46年度に第6位,49年度に第5位,そして製造品出荷額等の全国シェアがピークに達した50年度には第3位を記録した(昭和47年度以降は沖縄県を含む)。ところが,1970年代後半から順位はしだいに低下し,昭和59年度以降は2桁台に甘んじている。

製造業に依存し,そのなかでも輸送用機械,鉄鋼,一般機械といった重厚長大型業種が牽引力となってきたことは,戦後復興期から高度経済成長期の終わりまで広島県産業の強みであったことは疑うべくもない。しかし,そのウエイトの大きさゆえに,1980年代以降は産業構造転換の足かせともなったことも否定できない。

(伊藤 敏安)


注・参考文献

14) 広島市『広島新史 経済編』,広島市,1984 年a 58 頁。 

15) 広島市『広島新史 経済編』,広島市,1984 年a 122 ~ 123 頁。

16) 中村隆英「概説 1937 ~ 54 年」,中村隆英編『「計画化」と「民主化」』,第1章,岩波書店,1989 年 など 

17) 広島市『広島新史 経済編』,広島市,1984 年a 159 頁。

18) 中村隆英「概説 1937 ~ 54 年」,中村隆英編『「計画化」と「民主化」』,第1章,岩波書店,1989 年 53 頁。 

19) 広島市『広島新史 経済編』,広島市,1984 年a 295 頁。 

20) 中国新聞経済部『広島ものづくり物語 町工場街』,中国新聞社,1994 年 16 頁。

・中国地方総合研究センター編『中国地方の工場立地 130 年の歩み』,中国地方総合研究センター,2008 年 

・中国電力エネルギア総合研究所編『広島県を中心とした産業発展の歴史』,中国地方総合研究センター,2010 年 

・広島県「工業統計調査でみる広島県のあゆみ 戦後~平成 22 年」,広島県,2011 年 

・広島市『広島原爆戦災史 第5巻 資料編』,広島市,1971 年b 

・広島市『広島新史 資料編II』,広島市,1982 年

・広島市都市整備局都市計画課「ひろしまの復興」(第2版),2009 年

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