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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1I 『中国新聞』の戦前と原爆被災

『中国新聞』は,広島の地元メディアとして原爆・平和報道の中心的な役割を担ってきた1)。創刊は明治25(1892)年5月5日。当初,日刊『中国』として発行され,明治41年,通算5000号に達したことを契機に題字を『中国新聞』と改め,今日に至っている。

日中戦争下,新聞用紙の配給の削減により,従来,朝夕刊14ページ建てだったものが12ページ建てとなり(朝刊8ページ,夕刊4ページ),その後も紙面縮小の一途をたどった。昭和19(1944)年3月,『中国新聞』の夕刊は他の全国の新聞と同様に廃止され,11月からはさらに朝刊が2ページ,週14ページに圧縮された。

発行部数に目を転じると,大正5(1916)年に公称4万部だったものが(実数は約3万5,000部とされる),昭和16(1941)年12月には10万7,000部へと倍増した。戦争と戦域の拡大に伴い,従軍記者や従軍カメラマンを戦地に派遣するなど,積極的な戦争報道も奏功したのだろう,ブロック紙として販路を広げ,発行部数も伸ばした。販売網は,地元広島はもとより,広島経済圏の岩国から柳井,徳山,防府など山口県にまで拡大していった。

昭和11年ごろ,全国に約1,200社あった新聞社は,政府と内務省の指導下で一県一紙の方向で統合されていく。昭和17年10月には54紙にまで整理・統合され,19年4月に『中国新聞』は広島県の単独紙となり,その発行部数は38万部にまで達した。記者たちは,戦時下の言論統制・事前検閲という制約のもとで取材と記事の執筆を行った。

昭和20年8月6日,米軍機エノラ・ゲイが投下した原子爆弾は中国新聞社の社員の頭上をも襲い,出勤途中や本社(爆心地から900メートル)の屋内にいた100人余りの命を瞬時に奪った。社屋にいたある社員は次のように回想している。「爆発と同時に窓ガラスが全部吹き飛び,新館の外装タイルがはげて四散した。社員のひとりは爆風にあおられて二階から落下した。視界は塵埃と飛散物でしばらくの間,真っ暗となった。間もなく四階倉庫にあった薬品類が発火したものとみえ,燃えながら壁を伝って落ちるものが四辺を明るくした2)」。

生き残った社員たちの多くも重軽傷を負った。被爆直後,中国新聞社の建物は外壁をとどめるにすぎず,輪転機を含めた設備機材もことごとく焼失した。ただ,あらかじめ輪転機一台と付属資材を市内の東に位置する温品に疎開させており,これらが業務再開の重要な手段となった。

広島市内で被爆した市民同様,中国新聞社と社員も壊滅的な打撃を受け,そして被爆地のメディアとしてこの逆境を見つめ,乗り越えようと模索を始めていく。

(小池 聖一)


注・参考文献

1)以下の叙述は,主として,小池聖一「広島におけるメディアの『戦後』―中国新聞・中国新聞社を中心に」(小池聖一編『被 爆地広島の復興過程における新聞人と報道に関する調査研究』平成 19 年度・財団法人三菱財団人文科学研究助成研究報告書, 2009 年3月)に拠った。

2)中国新聞社史編纂委員会編『中国新聞八十年史』(中国新聞社,1972 年)158 頁。

  ・小池聖一「広島におけるメディアの『戦後』―中国新聞・中国新聞社を中心に」小池聖一編『被爆地広島の復興過程における 新聞人と報道に関する調査研究』平成 19 年度・財団法人三菱財団人文科学研究助成研究報告書,2009 年3月

  ・中国新聞社史編纂委員会編『中国新聞八十年史』中国新聞社,1972 年

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