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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1III 市民生活の再建と変遷

1 廃墟からの出発

原爆により廃墟となった広島で,市民の多くは自らの力で生活を立て直すしかなかった。塗炭の苦しみをなめた。市の人口は,昭和20(1945)年11月1日の調査で被爆前の約3分の1に減ったが,13万7,197人が焼け残った周辺部で暮らしていた1)。

「あれから三月まだこの姿」。広島市上流川町(現中区胡町)の全焼した本社へ復帰した中国新聞は,自力印刷・発行を再開した同年11月5日付で,ガレキが広がる中心街の写真を載せ,朝刊2ページ裏のほぼ全紙面を充て訴えた。

「市民の希求して止やまないのは巧緻精妙,雄大深遠なる復興の構想ではなくて寒さに対する家であり,飢えに対する食物の補給にほかならないのである」。

その日をどう生き抜くのかが最大の関心事だった。電灯はつき始めたが2),ガスの供給は見通しがたたず3),住宅営団広島支所が旧軍需工場に資材を発注する住宅建設計画は,緒に就いたばかりだった4)。バラックを建てても飲み水は地下水に頼らざるを得なかった5)。

主食の配給は,敗戦による「平和」が到来しても好転するどころか悪化していた。戦時中の配給量は1人1日当たり2合3勺(約345グラム)だったのが,終戦直前に1割減配となり,2合1勺の配給が昭和21年11月まで続く6)。市民は米飯はめったに食べられず,イモか,野菜や野草をわずかの米に混ぜたかゆを主食とした。

窮乏を極めた暮らしを幟町国民学校(現中区)の5年男児が作文に書いている7)。

「一番困るのはたべる物と着せる物がないことだと何い時つも近所の人にお母さんが話しておられます。家もバラックで,これもお父さんにたててもらったのですが,すき間が多く風がすうすう入って寒くて夜もろくろく眠れません。電気がつかないので火鉢で木を焚たいて明るくします。焚く木は遠い所までいってさがさないとありません。水も遠くまでくみに行くのです。お風呂もはいれないので足から首までよごれています」。

師走を控えた市民1,000人に暮らしぶりを尋ねたアンケートによると,実に86%が「飢餓必至」と答えている8)。食糧増産のカギを握る農村部も「聖戦」遂行という総力戦の下で疲弊していた。原爆投下の翌9月には県内だけで2,000人を超す死者・行方不明者が出た枕崎台風の猛威に見舞われていた9)。

政府も自治体も打開策がない以上,市民は生き抜くために自衛策を取るしかなかった。廃墟の広島でいち早く隆盛したのが,いわゆる闇市場である。

2「復興は闇市から」

広島の闇市は,被爆直後の昭和20(1945)年8月下旬ごろには,広島駅前広場で「三々五々と露店営業を出す者が現れ」た10)。

広島逓信病院の蜂谷道彦病院長は9月15日,「広島駅へ行けば進駐軍がきている」と聞いて向かった駅周辺の様子を書き残している11)。

「路傍に畳半畳敷(き)か一畳ばかりの板を置きいろんな物を売っていた。小さな掘っ立て小屋もできていた。店先には代用食の海草麵(海草でつくったうどん)や関東煮,よもぎだんごや何で作ったかわけのわからぬだんごがならべてある。お粗末な食糧店ではあるが,皆繁盛しているようだった」「哀れな浮浪児をみて,いたたまれなくなり駅を逃げ出すようにして帰路についた」12)。

闇市はデルタの交通結節街に広がり,「自由市場」とも呼ばれた。「“広島の復興は闇市から”」。中国新聞昭和20年12月19日付記事が混とんたる闇市の活気を伝えている。

「金持ちのふところからころがり出た百円札だろうが,受け取ったばかりの保険金だろうが,またサラリーマンの財布で肩身のせまい思いをしていた十円札でも,一端この市場に足をふみこんだからには忙しく次から次へと走り回らなければならない。修繕代を受け取った靴屋はアメを買い,アメ屋はみかんを買う」

治安当局の県警察部は,当初は闇市に対して「国民生活の円滑化という面」から「或る程度の黙認の形」を採った13)。広島駅前では約1,500人,天満,己斐,横川(以上,現西区),宇品(現南区)の闇市でも各500人以上の「即席商人」が登場する14)。配給物資の不足や帰還兵の増加もあり,昭和21年6月には県内の闇市は21か所,1,863店までに拡大した15)。

しかし,闇市は生活必需品が自由に購入できる半面,悪性インフレに拍車をかけ,賭博なども公然と行われたことから,警察は全国で厳しい取り締まりに転じた。

県警察部は昭和21年2月から取り締まりに乗り出す16)。6月13日早朝には,広島駅前をはじめ市内の5市場を取り囲み,「外域との交通を遮断して,買い出し人,遊び人,商人の区別なく一様に持ち物検査を行い」1,000人以上を検挙する17)。広島の占領統治に当たった英連邦軍MP200人も出動した。前後6回に及んだなかで最大規模となったこの取り締まり以降,広島の闇市は急速に衰退していく。

自治体も対策に動いた。広島市は,市民生活擁護のため公設市場を企画し,6月5日己斐に19店舗を設けたのに続き,同20日皆実町(現南区)に14店舗,7月15日横川に23店舗をそれぞれ設置する18)。

隆盛を誇った広島駅前の闇市も,駅前の国鉄広島鉄道局管理部前広場と荒神町(現南区)に順次移転し,7月からは「民衆マーケット」を呼称し,「店舗にいずれも表札を掲示して販売物取扱の責任を明確に」するようになった19)。

3 食糧危機

「全国民においても,乏しきを分かち,苦しみを共にするのを覚悟をあらたにし,同胞互いに助け合って,この窮況をきりぬけなければならない」

昭和天皇は昭和21(1946)年5月24日,ラジオを通じて国民にこう呼びかけた20)。宮城前で「飯米獲得人民大会」(食糧メーデー)が19日開かれ,旧憲法下の不敬罪に問われる事件も起きていた。

広島市では,配給の遅配が11日を数えた同21日,中島学区(現中区)の住民代表らが楠瀬常猪知事に膝詰め談判に及んだ21)。少年が米を詐取したり,通学生の弁当を狙ったりする事件も珍しくなかった22)。

木原七郎広島市長は直面する「未曽有の食糧危機」から6月27日,「市民に告ぐ!!!」と自給自足を訴えた23)。

「市民諸君の中,田舎に土地を有する者,親戚,知己のある者は『一時』帰って農村の増産に協力し,本市に残る者は今日より直ちに蔬菜,食用野草等によって大幅の節米,食い延ばしを励行し,更に次の危機に備えて焼け跡其の他の空閑地の全面的利用をはかる等(略)之を励行して吾々自らの手で自らの途を開かなければならない」

食糧危機は底が抜けた状態が続いた。

「“草まつり”ついでに“カエル”も口に入れ」。広島市は呼び掛けに先立つ6月24日,広島駅前で「食用野草試食会」を開いた24)。皮をはいだトノサマガエルの油揚げも披露し,市内の国民学校では野草調理も教えた。

広島県は,米の懇請班を編制して町村長や農業会長らを訪ねる。広島市は農具修理の野鍛冶班もつくって巡回し,「保有米の義侠的供出」を要請した。さらに7月12日,「広島市民十八万の望みの綱」の「救援米」の代わりとなる配給のタバコ200万本を積んだトラックが市役所を出発。市議らが県北部を回って感謝の意を伝えた25)。

市民は,綱渡りのような救援米にヤミ米買いで日々をしのいだが,7月17日からは「月3日間の欠配」が断行され,困窮者には「1日1人2個の団子」の配給が告げられる26)。米も野菜も魚もほとんど配給されず,8月下旬になると,ヨモギやイモづるなどを乾燥した粉が未加工のままでの配給となり,「最低の食生活となった」27)のである。

政府は食料輸入を連合国軍総司令部(GHQ)に要請し,広島県内の5市には小麦粉やトウモロコシ,パイナップルの缶詰が放出された。広島市議会は9月18日,「連合国軍最高司令官ニ対スル感謝決議」を満場一致で議決し,マッカーサーに感謝を表した28)。

食糧危機は,食べ盛りの子どもたちを直撃した。比治山国民学校(現南区)が出席した児童1,460人を調べると,弁当持参は180人にとどまった。中身も米と麦の混飯は,うち78人でしかなかった29)。

広島市が昭和21年7月末,市内31校の児童1万9,800人を身体検査して日米開戦前の昭和15年度と比べると,身長は男子で平均5.5センチメートル,女子で3センチメートル低く,13歳の高等科1年男子では12.9センチメートルも低くなっていた。保健課技師は,カロリー摂取が得られていないうえ「原子爆弾で身体の内外ともに非常に弱っている」影響を指摘し,精神面も「インフレと飢餓,深刻な社会不安」から「いらだって落ち着きがない」と診断した30)。

食糧事情は昭和23年に入るころから少しずつ好転し,主食の代名詞だったサツマイモの配給は嫌われるようにもなり,宇品町住民らは「芋返上町民大会」を開いた31)。この年11月からは主食の配給は1人1日約390グラムに増えたが,広島市民の82%が「不足感」を覚えた32)。衣類の配給も乏しく,自由相場は高値が続いた。

窮乏のなかにあっても子どもたちは再開された学校に通い,明日を夢みたのである。

4 青空教室・間借りの授業

原爆で校舎が焼失した幟町国民学校(現中区)は昭和20(1945)年10月5日,焼け残った鉄筋の広島中央放送局を借り,授業を再開した。机や椅子は旧工兵隊から大八車で運び込んだ33)。教室は放送局から広島中央電話局へ移り,そこも修理が始まると学校の運動場に戻るしかなかった。4年男児が書いた「僕たちの学校」と題した作文から34)。

「雨の日でも休まずに青空教室の勉強がはじまりました。とてもあつくてのぼせる様な日でも帽子をかぶって勉強しました。焼けあとのあちこちで勉強しているのがおもしろいので進ちゅう軍の兵隊さんが度々見にきたり,しゃしんをとってかえりました。ある日の朝会の時,校長先生からやがて学校がたつと言われたので,うれしくてうれしくてたまりませんでした」

幟町国民学校の平屋バラック10教室は昭和21年6月末にできたが,教室が足らず6年生以外は2部授業となった。教育基本法公布で翌22年4月,幟町小学校となった後も,児童数の増大で葦よし簾ず張りの野外教室が続いた。

このため「幟町小復興促進委員会」をつくり,学区内の保護者や同窓生から建設資金を募る。昭和24年3月,第1期として木造2階建て13教室の校舎を建設。バラック校舎に残った約400人を移すため,さらに第2期で15教室を同年10月に建てた。第1期の500万円と第2期の600万円は,市との折半だった35)。

学校再建の苦闘は幟町小にとどまらなかった。国民学校は,被爆前は37校あったが,原爆後も使用可能なのは,鉄筋の窓枠も折れ曲がった本川,袋町を含む11校にすぎなかった36)。中島,荒神国民学校なども青空教室から授業を再開した。

新制の市立中学は47年7校が開校したが,焼け残った小学校を引き継いだり,借用したりした。五中(現幟町中)は,鉄筋の袋町小校舎3階に間借りした。開校時の備品はバケツ3個,ほうき5本,白墨2個であった37)。五中の授業風景をルポした記事から38)。

「まだ教科書の配給もなくプリントを作って教科書に代えようとしても印刷する謄写版もないので今のところ先生の口から生徒の耳への至って原始的な教育が行われている。しかし先生も生徒も禁止事項を羅列することを以て訓育の第一主義とした過去の教育法をかなぐり捨て,各種の運動を奨励し多岐にわたる情操教育をとり入れ,教育に対する熱意で現在の貧弱な設備をカバーしようと渾身の努力を続けている」。

昭和24年4月からは新制中学は12校に増え,生徒数は翌25年計8,761人に増大する。このころから,小学校を含め本建築校舎の建設や校具備品類の設置がようやく進むようになる。

5 娯楽・文化の台頭

戦争が終わった解放感は,廃墟のデルタでも早くから漂った。被爆翌月の昭和20(1945)年9月4日,全焼したキリンビヤホールでビールの立ち飲み自由販売が始まる。喫茶店は,焼け残った市立浅野図書館に中国復興財団が設け,砂糖水1杯を10銭で振る舞った39)。

料理飲食店は,腹をすかせた市民を当て込み,「原子砂漠の新築建物は大体一万戸程度」とみられた翌年夏までに,料理店10,飲食店750,外食券食堂7の計767軒と戦前の1.5倍に増えた。「食堂の復興」は他都市と比較して遜色ないとされた40)。

市民は娯楽にも飢えていた。映画館は,原爆で宇品の港劇場を除き壊滅したが,昭和21年2月に広島駅前荒神橋東詰めに松竹系の広島劇場ができ,5月には福屋百貨店7階に名画劇場と,この年だけで8館が開館41)。映画館は昭和24年には14館,演劇などの「その他の劇場」が6館となる42)。市民は,1人当たり全国平均の年10回前後を上回る13回前後と,立ち見でも詰めかけた43)。

男女の社交ダンスも起こった。戦前はダンス専門のホールはなかったが昭和21年7月,広島劇場裏に20坪(66平方メートル)の広さと17人のダンサーを抱える広島会館が登場した44)。ダンス・ホールとレッスン場は同24年には計19に増えた。

被爆3年後のころからは,女性はモンペ姿からロングスカートが目立つようになる。米国・ハワイへ戦前渡った親族から慰問品が届くようになり,品物を売買する「『舶来屋』と呼ばれる広島に特徴的な商店」も増えていた45)。

書店第1号は昭和21年春,下流川町(現中区流川町)のバラックで始めた瀬戸内海文庫46)。広島県観光協会理事でもあった店主は昭和23年6月,総合雑誌『ひろしま』を創刊し,翌24年5月には全編英語の写真集『LIVINGHIROSHIMA』(生きている広島)を刊行した。また,日英両語で「アトム書房」“BooksellerAtom”の看板を掲げたバラックが21年9月,原爆ドームと後に呼ばれる旧県産業奨励館近くに現れた47)。

全焼した市立浅野図書館は昭和21年10月,比治山の山陽文徳殿を借り受けて臨時再開し,一部修理を終えた24年6月,小町(現中区)に戻った。若い世代の人気を集めたのが23年11月,中町(同)にモルタル平屋で開館したCIE(民間情報教育局)図書館だった。レコードコンサートや映画会を催し,アメリカ文化へのあこがれから昭和25年の利用者は7万6,552人をみた48)。未設置だった県立図書館の母体となる県立児童図書館がCIE図書館の隣に開館したのは昭和26年11月である49)。

「原爆の街の子どもたちに夢を」。廃墟の広島で初めて建てられた文化施設は,旧軍用地が広がる基町(現中区)で昭和23年5月にできた児童文化会館と,昭和27年12月開館の市児童図書館である。前者は教師を中心に資金を募って建て(昭和25年からは市が運営),後者は米国カリフォルニア州の南加広島県人会からの寄付400万円を基に誕生した。

原爆に見舞われた広島市民や県民をいち早く支援したのは,「在外同胞」とも呼ばれた日系人たちである。広島は全国最多の移民を送り出した「移民県」でもあった50)。

6 日系社会からの支援

昭和23(1948)年3月26日,ロサンゼルスから広島商工会議所へ1通の手紙が届いた。日本製品の買い付けで帰郷した熊本俊典が16ミリカメラで収めた広島の現状を県人会の集まりで紹介し,楠瀬常猪知事から要請された復興支援を訴えると「復興援助促進会」が設立された,と伝えてきた51)。

その南加広島県人会52)は2月に支援を決めた会合で3,000ドルを集めた53)。「原爆被害者救援金募集に就いて県人諸氏にお願い」。高田義一会長は,地元の日本語新聞を通じて募金を呼び掛けた54)。

日本軍の真珠湾奇襲で,米国西海岸の1世や米国市民権を持つ2世ら12万1,000人は内陸部への移動を命じられ,10の収容所へ送られた55)。戦後,広島ゆかりの日系人も生活再建の途上にあり,暮らし向きは決して楽ではなかった。それでも南加広島県人会は,呼び掛けから半年後に1万2,000ドルを集め,一部を救援物資に充て似島学園(現南区)や市郊外五日市町(現佐伯区皆賀)の広島戦災児育成所など5施設548人に送る,と伝えてきた56)。

ハワイでは昭和23年4月,「広島県戦災民救済会」がホノルルで結成される57)。役員に就いた寺田久造氏らは前年10月,やはりバイヤーとして広島へ帰郷した折,弟の寺田豊議長や濱井信三市長から支援を求められた。活動はオハフ,カウアイなど各島に広がり,支援金は会結成の5か月後には「4万8,114ドル70セントの巨額に達し」58),昭和24年6月に約11万3,000ドルに上った59)。1ドル360円,広島市の工場勤労者の平均給与は男性8,175円,女性3,484円の時代である60)。

支援金はGHQの許可を得て昭和24年7月,まず9万ドルが届き,県と市が半額ずつ受け取った61)。広島市は4万5,000ドル(1,620万円)を充て,母子寮4棟を基町に増築し,助産院を宇品に,市郊外観音村(現佐伯区)に老人養護施設などを建てた62)。さらに受け取った2万ドルで身体障害者の共同作業場なども設けた。

南加広島県人会からは「児童のために図書館を建設する費用として」と昭和25年5月,400万円が広島市に送られてきた63)。市児童図書館は支援金に市費を加えて建設された。円形で周囲ガラス張りの建物は広島のランドマークにもなる。設計は平和記念公園に続いて丹下健三が手掛けた。昭和29年6月にはシアトル広島県人会から76万2,000円が寄せられ64),図書購入費に充てた。

日系社会からの支援は米国にとどまらない。ブラジル・サンパウロの広島県出身者らは昭和25年,「原爆孤児救援会」を結成し,物資を8施設に送った65)。アルゼンチン広島県人会は昭和26年6月,復興資金約67万円を広島市に届けた66)。個人的な帰郷や,墓参・観光団訪問のたびにも支援金や物資が寄せられた。

さらに「ヒロシマを救え」というハワイの活動は「全同胞」からアジア系,白人を巻き込み,英語メディアも盛んに取り上げた67)。日系人の活動が米国市民を刺激し,フロイド・シュモー氏が率いた「ヒロシマ・ハウス」建設や,ノーマン・カズンズが提唱した原爆孤児の「精神養子」へと続き,事業の広がりをも支えたのである。

7 高まるつち音

広島復興の財政的な弾みとなったのが,昭和24(1949)年8月6日公布の広島平和記念都市建設法である。戦災復興補助金の増大と国有地の無償譲渡が進んだ68)。市民に夢をもたらしたのが,広島カープの誕生である。

「チーム名はカープ(鯉)と決定した」。中国新聞昭和24年9月28日付で市民に初めて「広島カープ」の名称が報じられた2か月後の11月28日,セントラル野球連盟への加盟が認められる69)。翌昭和25年1月15日,西練兵場跡(現県庁一帯)に木造スタンドを設けた市民球場でチーム結成披露式が開かれ,郷土出身の石本秀一監督率いるチームの門出を約2万人が祝った。

東京や大阪などの他球団と違って親会社はなく,資本金は官民の有力者が寄せた70)が,選手の給料遅配が続く。公式戦は41勝96敗1分けの最下位に終わった。翌昭和26年のシーズン開幕前には,身売りや他球団との合併話まで追い込まれた。石本監督は,支援金も募る後援会の結成を発案して東奔西走し,約1万3,000人が賛同した71)。それだけに「市民・県民のチーム」として応援は熱を増す。カープの躍進に広島の復興と発展を重ね合わせたのである72)。

この時期「,貧乏球団」といわれながらも広島カープが存続できたのは,復興への確かな手ごたえが広がっていたからである。

昭和25年6月に起きた朝鮮戦争は全国に特需ブームをもたらす。米軍の「軍用物資の買い付けが行われて,その支払いがドルでなされドル収入が一挙に増加した」73)。広島では造船,車両部品,木材,人絹,針などの輸出が伸び「一転して活況を謳歌する」74)。市民は衣食から暮らしの上向きを感じるようになった75)。

人口は6月末に28万人を突破し76),昼間は40万人を超す。一般住宅は「バラックより本建築へと進み」,会社や飲食店,商店,公営住宅などを含めると6万5,000戸を数えた。電力の平均使用量は県内全体の22%を占め,「歓楽街のめざましい復興ぶりに伴って昔懐かしいネオンサインが復活」した77)。

原爆で大半が焼失した車両不足から車外にはみ出た乗客の死傷が珍しくなかった路面電車は115両に増え,殺人的な混雑は解消された78)。

占領統治が明けた昭和27年の師走には,総支出のうち食料費の割合を示す市民のエンゲル係数は50.4まで下落し,「家計は今ようやく一息ついたところまできた」79)。10月には広島初の民間放送局「ラジオ中国」(RCC)が開局した80)。

被爆10年後の昭和30年になると,平和記念公園内に1,200席のホールや25の宿泊室を備えた市公会堂が3月落成し,続く8月には原爆資料館(正式名称は広島平和記念資料館)が開館する。人口は37万人と増え続けた。半面,復興をめぐる影も濃くなり,昭和30年4月の広島市長選は平和記念都市建設に基づく事業の進め方が争点となった。

8 光と影

復興を指揮した濱井信三市長は,昭和30(1955)年4月の市長選で3選に挑んだが涙をのむ81)。弁護士の渡辺忠雄が,デルタを東西に貫く「100メートル道路(平和大通り)を50メートルにして,鉄筋製の文化アパートを建てる」とぶちあげ,破った82)。

平和記念都市5か年計画による戦災復興区画整理事業で,道路は市街地面積の31%,戦前はほとんどなかった公園・緑地は7%となった83)。公共用地が広がった半面,対象区域の住民は立ち退きを迫られ,行き先のない住民は緑地が計画されていた河岸などに移転先を求めた。住宅不足は約1万3,000戸といわれた84)。

広島の玄関口である駅前一帯はバラックが密集し,昭和30年4月に48戸を全半焼,翌31年7月にも70戸を全焼するなど大火が続いた85)。立ち退き区域だったが,そのたび仮設バラックが建ち,「不公平」などと市民から批判の声も高まる。広島市は同年9月強制執行に踏み切り,住民と警官隊がもみ合う事態までになった。

広島市の勤労世帯の月平均実収入額は,経済白書が「もはや戦後ではない」とした昭和31年に対前年比10.4%上昇し,33年になると19.5%も増える86)。人口は41万人台となり戦前の最盛時の水準を回復した。

市制施行70年が重なった昭和33年は「広島復興大博覧会」が4月1日から50日間開かれる。原爆で失われた広島城の天守閣を復元し,郷土館の会場に充てた。第1会場の平和記念公園では,復興館やテレビ電波館などに加え,「原子力の平和利用」をテーマに米国製のマジック・ハンドも展示した原子力科学館87)や,ソ連が協力した「人工衛星館」が設けられた。入場者は累計87万7,000人と予想を上回る盛況となった88)。

広島は高度経済成長の波に乗る。昭和32年7月,ナイター設備を兼ね備えた広島市民球場と,1日700台が発車するバスセンターが基町にできる。渡辺市長は100メートル道路の縮小を見直し,昭和32年から翌33年にかけ県内の町村に供木の提供を呼び掛けた。市民もバラ園の苗などを寄贈する。「昼なお暗いほど,雑草にうずもれて」89)とも表された平和大通りの景観は大きく変わり,昭和40年5月全通する。

乗降客やバス・タクシーの乗り入れで混雑を極めた広島駅前の整備も進み,国鉄と広島市・地元財界などの出資で広島駅が地上7階・地下1階の「民衆駅」として開業したのは,やはり昭和40年12月である。

人口は,前年に50万人の大台に乗っていた。増え続けるごみ・し尿処理が市民生活の新たな問題として浮上する。支店経済の様相も強めた広島で,50万市民のうち8割が非被爆者となっていた90)。復興に続く経済成長の波に乗った者と,そうではない者との落差は一層濃くなっていた。

返り咲いた濱井市長が率いる広島市は,40年4月の原爆医療法改正で「被爆者の住宅総合対策の確立」が付帯決議されたのを受け,「原爆スラム」と呼ばれた河岸緑地などに立つ住宅の解消に向け,県と本格的な対策に乗り出す91)。

市と県が翌昭和41年11月まとめた調査によると,「原爆スラム」は市内63地区に5,449戸,6,256世帯があり,3分の1が被爆世帯であった92)。基町の太田川堤防沿いに3,141戸,3,453世帯が密集し,翌42年7月27日の大火では,171世帯,532人が被災した93)。

基町再開発は昭和44年から始まる。226億円を投じて対象区域33.36ヘクタールにあった2,600戸の老朽住宅を取り除き,高層住宅を建て環境と装いを一新する94)。

「この地区の改良なくして広島の戦後は終わらない」。この言葉を刻んだ基町地区再開発事業記念碑が広島城の南緑地帯に建てられたのは昭和53年10月である。

広島が復興を成すまでには,市民各自の奮闘とさまざまな支援,ひずみや矛盾があった。原爆市長とも呼ばれた濱井元市長が「よくも生き抜いてきた」と書き残しているように,その感慨は原爆による廃墟からの生活再建に挑んだ市民共通の思いだろう95)。先人たちが掲げた「恒久平和を実現しようとする理想の象徴」に広島がなりえているかどうかは,今を,未来を生きる市民にとっても共通の課題である。

(西本 雅実)


注・参考文献

1)広島市『昭和 52 年版 市勢要覧』(広島市,昭和 53 年3月)66-67 頁。内閣統計局の調査によると,広島市の居住人口は 1944 年2月 22 日時点では 34 万 3,034 人だった。

2)本店社員約3分の1の 102 人が犠牲となった中国配電は,被爆翌日から送電復旧作業を始め,「11 月末にはすべての被害地域 への送電復旧を完了した」。中国電力 50 年史社史編集小委員会『中国電力 50 年史』(中国電力,2001 年)68 頁。しかし電力 不足が慢性的に続き,全面停電は珍しくなかった。

3)69 人が犠牲となった広島ガスは 1946 年4月 11 日,宇品町の残存需要家 235 戸にガス供給を開始した。広島ガス社史編纂委 員会『広島ガス 80 年史』(広島ガス,1990 年)10 頁

4)日本銀行広島支店「歳末経済金融報告」1945 年 12 月 31 日によると,「木材ノ入手困難ナル事情モアリ住宅営団ノ年内 三千五百戸建設計画モ掛声バカリデ現在見本程度ノコノ数軒ヲ申訳的ニ建テタニ過ギナイ」。広島市『広島新史 経済編』(広 島市,1984 年)34 頁。

5)柴田重暉『原爆の実相』(文化社,1955 年)73-74 頁。広島市の給水は「焼け跡の至るところに口を開けた水道からこぼれ出」 て炎天下の尋ね人や整理作業者の喉を潤したが,焼け跡の漏水が原因で「却かえって水不足に悩まされる結果を招いた」。柴田は 被爆時に市助役だった。

6)広島県『原爆三十年』(広島県,1976 年)135 頁

7)1945 年 12 月6日付

8)中国新聞 1945 年 12 月 19 日付「戦災者一千人の声」

9)広島県『広島県砂防災害史』(広島県土木建築部砂防課,1997 年)33 頁。枕崎台風は 1945 年9月 17 日広島に襲来し,県沿岸部を中心に死者・行方不明者は 2,012 人を数えた。「原爆による戦災のため,気象台(注・当時は広島管区気象台)の電話回線が復旧しておらず」「関係機関へ通報したり,ラジオで一般住民に知らせたりする体制ができていなかった」。 

10)広島県警察史編集委員会『新編広島県警察史』(広島県警察連絡協議会,1954 年)951 頁 

11)蜂谷道彦『ヒロシマ日記』(朝日新聞社,1955 年)同新版(法政大学出版局,1975 年)245-246 頁 

12)米第6軍先遣隊が大阪から呉市に入ったのは 1945 年9月 26 日。広島県『広島県戦災史』(第一法規出版社,1988 年)481 頁 

13)前掲『新編広島県警察史』952 頁

14)中国新聞 1946 年8月6日付

15)前掲『新編広島県警察史』956 頁

16)夕刊ひろしま 1946 年2月7日付。広島市内の闇市への第1回摘発は同6日行われ,違反者 111 人(うち女性 50 人)を拘束したという。

17)同6月 15 日付

18)中国新聞 1946 年8月6日付

19)同8月1日付

20)井上亮『焦土からの再生』(新潮社,2012 年)48-49 頁。「いまではほとんど忘れられているが,昭和天皇二度目の『玉音放送』である。天皇が終戦と同様にラジオで訴えなければならないほど,国民の生活は極限に達していた」と,1946 年5月 24 日のラジオ放送の内容を紹介している。

21)中国新聞 1946 年5月 22 日付

22)夕刊ひろしま同年6月 24 日付,同 26 日付 

23)広島市「広島市報 復活第5号」1946 年7月 20 日(広島市公文書館) 

24)夕刊ひろしま 1946 年6月 26 日付

25)中国新聞同7月 12 日,17 日付 

26)同7月 15 日付

27)広島市『広島新史 市民生活編』(広島市,1983 年)25 頁

28)広島市議会「広島市議会会議録」1946 年9月 18 日

29)中国新聞 1946 年2日1付。比治山国民学校の弁当持参調査は1月 17 日に行われた。

30)同 46 年8月 31 日付

31)同 1948 年2月 24 日付

32)同 11 月3日付。総理府(現内閣府)世論調査の広島市関連による 

33)幟町小学校創立百周年記念事業委員会『さつき』(幟町小,1973 年)80-81 頁

34)夕刊ひろしま 1946 年6月3日付

35)前掲『さつき』92 頁

36)広島市『新修広島市史 第四巻文化風俗編』(広島市,1958 年)639 頁

37)前掲同 644 頁

38)中国新聞 1947 年5月 22 日付

39)中国新聞 1945 年9月5日付。同 11 月 11 日付によると,キリンビヤホールでの立ち飲みはビール瓶不足から休止となる。 

40)同 1946 年8月4日付

41)前掲『新修広島市史 第四巻』668-669 頁

42)広島市『市勢要覧』(広島市,1950 年)87 頁

43)前掲「新修広島市史 第四巻」669 頁

44)中国新聞 1946 年7月 15 日付

45)前掲『新修広島市史 第四巻』670 頁

46)広島県立文書館「田中嗣三資料仮目録」2009 年4月 21 日(広島県立文書館)。「LIVIN G HIROSHIMA」の出版経緯については,西本雅実「ヒロシマをめぐる『神話』と『事実』」(『広島平和記念資料館資料調査研究会研究報告第7号』2011 年5月)を参照。

47)毎日新聞社『毎日グラフ』(毎日新聞社,1985 年 10 月 13 日号)9頁。元学徒兵の杉本豊が「日本人はすぐに立ち直るぞ,と進駐軍に示したい」との思いから学生時代の蔵書を並べたという。広島の戦前からの移り変わりを書き続けた薄田太郎は,中国新聞 1956 年8月2日付で「鉄道草が生い茂っていた電車道に」アトム書房が登場したときの驚きを書き残している。 

48)前掲『新修広島市史 第四巻』671-672 頁

49)広島県社会教育委員会連絡協議会『社会教育三十年の歩み』(連絡協議会,1977 年)14-15 頁

50)1899 年から 1941 年の累計県別移民数で広島県は9万 6,848 人,次が沖縄県の7万 2,227 人。国際協力事業団『海外移住統計』(国際協力事業団,1990 年)119 頁

51)中国新聞 1948 年3月 27 日付

52)南加広島県人会 75 周年記念誌委員会『南加広島県人会 75 周年記念誌』(南加広島県人会,1985 年)「ひろしま県人会 75 年の歩み」。ロサンゼルスを拠点とする広島県人会は第2次大戦中の中断を挟み,1946 年8月広島原爆1周年慰霊追悼会を営み,翌年に芸備協会,1948 年南加広島県人会となり,広島市出身の高田義一が初代会長に就いた。

53)羅府新報 1948 年2月 18 日付。羅府新報(本社ロサンゼルス)は大戦中の発行停止を経て1946 年1月1日復刊。

54)同2月 27 日付。「戦争のために被害を被ったという点では,在米同胞も故国の人々と異なる所はありませんが,私たちは幸いにも物資豊かな米国にあって,同じく復興線上を辿りながらも,故国の現状に比べれば,天地雲泥の相違がその間に認め られるのであります」「せめて前記の孤児や,母子寮にいる人々や,その他たくさんな気の毒な人々にせめて温かい手を差し 延べたい」と呼び掛けた。

55)ロバート・ウィルソン,ウィリアム・ホソカワ『ジャパニーズ・アメリカン』(有斐閣,1982 年)227 頁。ホソカワは,両親 が広島県安佐郡(現安佐南区)から渡った。

56)中国新聞 1948 年8月4日付。前掲『南加広島県人会 75 周年記念誌』30 頁によると,救援金は当時1万 5,000 ドル集まった が「日本は米軍占領下,送金することができず,救援物資の輸送だけは許されていたので」5000 ドル分の物資を広島市の母 子寮や孤児院に送ったとある。

57)布哇報知(本社ホノルル)1948 年4月5日付

58)中国新聞 1948 年9月 18 日付

59)布哇報知 1949 年6月 27 日付

60)前掲『市勢要覧』(1950 年)78 頁

61)中国新聞 1949 年7月 20 日付 

62)広島市「市政広報ひろしま」1950 年 12 月1日(広島市公文書館) 

63)中国新聞 1950 年5月 10 日付

64)同 1952 年6月 13 日付

65)ブラジル広島県人会『ブラジル広島県人発展史並びに県人名簿』(ブラジル広島県人会,1967 年)38-39 頁

66)中国新聞 1951 年6月 28 日付

67)同 1948 年4月 14 日付,1949 年9月 22 日付

68)広島都市生活研究会『広島被爆 40 年史 都市の復興』(広島市,1985 年)56-57 頁。国有地は 34 ヘクタールが無償譲渡され,広島市民病院など公共施設が建った。 

69)日本野球連盟の解散でセ・パに別れ,セントラル野球連盟へ加盟が認められた時は「広島カープス」と名乗っていた。中国新聞 1949 年 11 月 29 日付。その直後から「カープ(鯉)」の複数形は「S」がつかないと広島大教授や学生の投書があり,本来の広島カープに戻った。

70)広島県の楠瀬常猪知事をはじめ県議会正副議長,広島市の濱井信三市長,地場企業の各代表らが株式を申し込んだ。中国新聞社『V1記念 広島東洋カープ球団史』(広島東洋カープ,1976 年)171 頁 

71)前掲「V1 広島東洋カープ球団史」337-340 頁

72)広島カープは,1967 年広島東洋カープに改称し,初優勝したのは 1975 年。10 月 20 日,平和大通りで行われた優勝パレードには市民 30 万人が押し掛けた。

73)中村隆英『昭和史II 1945 – 1989』(東洋経済新報社,1993 年)439 頁

74)前掲『広島新史 経済編』295-296 頁。広島県全体の特需受注額は「最初の4か月のみで,約4億円」と推計され,1951 年6月までの「1か年間に,約 12 億 5,600 万円にのぼったといわれる」。

75)広島県内 3000 世帯に尋ねたアンケート調査(2951 票を回収)によると「,食べもの」が「良くなった」が 48%と最も多く「,着るもの」も「良くなった」が 38%をみた。中国新聞 1950 年9月 24 日付

76)1950 年 10 月1日の第7回国勢調査によると,広島市の人口は 28 万 5,668 人と全国 11 番目となった。前掲「市政広報ひろしま」1950 年 12 月1日号

77)中国新聞 1950 年8月6日付 

78)市内電車は,原爆による車両不足から超満員の乗客を乗せて走り,車外にはみ出たり飛び乗り降りたりするなどして 1946 年は,死者 12 人・負傷者 120 人を数えた。中国新聞 1947 年1月 10 日付

79)広島市『市勢要覧 1952』(広島市,1953 年)227 頁

80)中国放送 50 年史編さん委員会『中国放送の 50 年』(中国放送,2002 年)34 頁。開局に際し,世界平和記念聖堂(広島市中区幟町)の「平和の鐘」をオープニングに放送した。

81)濱井信三は落選後,「広島市政秘話」を中国新聞 1955 年7月 15 日 -10 月5日付で 74 回連載。『原爆市長』(朝日新聞社,1967年)はそれを基にしている。

82)渡辺忠雄は5万 7,335 票,濱井は5万 5,758 票だった。

83)中国新聞 1955 年7月 22 日付「広島市建設 10 年の歩み」

84)同7月 24 日付

85)戦災復興事業誌編集研究会・広島市『戦災復興事業誌』(広島市,1995 年)131 頁

86)広島市『市勢要覧 1959』(広島市,1960 年)77 頁 87)原子力科学館は原爆資料館を会場とした。広島復興大博覧会を機に,米国から提供された原子力船の模型など「原子力平和利用」の展示を一部そのまま続けたが,1967 年に撤去した。中国新聞 1967 年5月7日付 

88)広島復興大博覧会誌編集委員会『広島復興大博覧会誌』(広島市,1959 年)228-229 頁 

89)大田洋子『夕凪の街と人と―一九五三年の実態』(講談社,1955 年)51 頁

90)1964 年の市人口は 51 万 1,611 人,市内在住の被爆者は9万 3,393 人だった。

91)「原爆スラム」の呼称はメディアでは 1960 年代初めから使われるようになった。偏見ととられかねない呼称であり現在は一般的に使わないが,当時の報道も差別を助長する意図はないといえる。広島在住の作家文沢隆一は基町の「原爆スラム」に 住み,「相生通り」と題して優れたルポを表している。山代巴編『この世界の片隅で』(岩波書店,1965 年)に収録。中国新 聞は 1967 年7月 26 日付から実情報告の「原爆スラム」を8回掲載した。

92)中国新聞 1966 年 12 月1日付。被爆世帯は 1,906 戸,2,160 世帯を数えた。

93)基町の「原爆スラム」に住む 892 世帯,3,015 人を調べた大阪市大の大藪寿一助教授のまとめによると,被爆世帯は 35・1%。家屋は全体の 92%がバラックで,40%が借家だった。職業は日給が 50%近く,無職が 20%,老人と孫だけの世帯が 13%もあった。中国新聞 1968 年4月 29 日付 

94)広島県・広島市『基町地区再開発事業概要』(広島県・広島市,1978 年) 

95)前掲『原爆市長』復刻版(シフトプロジェクト,2011 年)99 頁

・井上亮『焦土からの再生』(新潮社,2012 年)

・大田洋子『夕凪の街と人と― 一九五三年の実態』(講談社,1955 年) 

・国際協力事業団『海外移住統計』(国際協力事業団,1990 年)

・柴田重暉『原爆の実相』(文化社,1955 年)

・戦災復興事業誌編集研究会・広島市『戦災復興事業誌』(広島市,1995 年) 

・中国新聞社『V1記念 広島東洋カープ球団史』(広島東洋カープ,1976 年)

・中国電力 50 年史社史編集小委員会『中国電力 50 年史』(中国電力,2001 年)

・中国放送 50 年史編さん委員会『中国放送の 50 年』(中国放送,2002 年)

・中村隆英『昭和史II 1945 – 1989』(東洋経済新報社,1993 年)

・南加広島県人会 75 周年記念誌委員会『南加広島県人会 75 周年記念誌』(南加広島県人会,1985 年)「ひろしま県人会 75 年の歩み」

・幟町小学校創立百周年記念事業委員会『さつき』(幟町小,1973 年) 

・蜂谷道彦『ヒロシマ日記』(朝日新聞社,1955 年)『ヒロシマ日記 新版』(法政大学出版局,1975 年) 

・濱井信三『原爆市長』(朝日新聞社,1967 年)『原爆市長』復刻版(シフトプロジェクト,2011 年)

・広島ガス社史編纂委員会『広島ガス 80 年史』(広島ガス,1990 年) 

・広島県『原爆三十年』(広島県,1976 年) 

・広島県『広島県戦災史』(第一法規出版社,1988 年) 

・広島県『広島県砂防災害史』(広島県土木建築部砂防課,1997 年) 

・広島県・広島市『基町地区再開発事業概要』(広島県・広島市,1978 年) 

・広島県警察史編集委員会『新編広島県警察史』(広島県警察連絡協議会,1954 年) 

・広島県社会教育委員会連絡協議会『社会教育三十年の歩み』(連絡協議会,1977 年) 

・広島市「広島市報 復活第5号」1946 年7月 20 日(広島市公文書館) 

・広島市『昭和二十二年版 市勢要覧(復興第二年号)』(広島市,1947 年) 

・広島市『市勢要覧』(広島市,1950 年)

・広島市『市勢要覧』(広島市,1953 年)

・広島市『市勢要覧』(広島市,1960 年)

・広島市『新修広島市史 第四巻文化風俗編』(広島市,1958 年)

・広島市『広島新史 市民生活編』(広島市,1983 年)

・広島市『広島新史 経済編』(広島市,1984 年)

・広島市議会「広島市議会会議録」1946 年9月 18 日

・広島都市生活研究会『広島被爆 40 年史 都市の復興』(広島市,1985 年) 

・広島復興大博覧会誌編集委員会『広島復興大博覧会誌』(広島市,1959 年) 

・ブラジル広島県人会『ブラジル広島県人発展史並びに県人名簿』(ブラジル広島県人会,1967 年) 

・毎日新聞社『毎日グラフ』(毎日新聞社,1985 年 10 月 13 日号)

・山代巴編『この世界の片隅で』(岩波書店,1965 年) 

・ロバート・ウィルソン,ウィリアム・ホソカワ『ジャパニーズ・アメリカン』(有斐閣,1982 年) 

・西本雅実「ヒロシマをめぐる『神話』と『事実』」(『広島平和記念資料館資料調査研究会研究報告第7号』2011 年5月) 

・広島県立文書館「田中嗣三資料仮目録」2009 年4月 21 日(広島県立文書館)

・広島市「広島市報 復活第5号」1946 年7月 20 日(広島市公文書館) 

・広島市「市政広報ひろしま」1950 年 12 月1日(広島市公文書館)

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