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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1エピローグ 広島の復興経験をどう生かすか ~未完の試みからのささやかな提言~

はじめに

「広島の復興とは何か」をたずねる旅は,15人の専門家が執筆した計9章の論考と9本のコラムを通して描かれた。城下町から出発して明治以降,軍都として発展した広島は,原爆により人や街,歴史,文化,伝統を含むコミュニティーを一度はすべて失った。

だが,被爆の3日後には広島電鉄の一部区間が片側運転で再開するなど,復興の歩みが始まった。敗戦を経て国の戦災復興計画に加え,「広島平和記念都市建設法」の制定により,広島は「平和」を希求する都市という新しい運命を受け入れたのである。だが,平和都市という新たなアイデンティティーは,すんなり根付いたわけではない。焼け野原に都市が再興し,市民の暮らしが回復するなかで,「平和」は被爆者や市民の主体的活動に加え,行政,教育,保健・医療,メディアをはじめとする社会の多様な組織や制度,あるいは個人に支えられ,紆余曲折を経ながらしだいに定着していったのである。

各章の中で記述された広島の復興の姿を整理してみよう。

I 広島の復興をたどってみて

1 I部「戦争と破壊」

(1)第1章「近代化の中の広島」

江戸時代,地方都市では名古屋,金沢などに続く大城下町だった広島は,明治維新以降の近代化のなかで,明治21(1888)年に陸軍第5師団司令部が置かれ,日清,日露戦争の過程で,重要な軍事施設が集まる軍都として発展した。宇品港は軍事輸送の拠点となるなど,民生も軍や官に依存する一方,商工業,交通,教育機能も集中し,全国で6大都市に次ぐ人口規模の街となった。

(2)第2章「戦争と広島,原爆投下の衝撃」

昭和6(1931)年の満州事変に始まる日中戦争や太平洋戦争を通じて軍事機能はさらに集中し,戦争末期には本土決戦に備えて西日本を統括する第二総軍司令部が置かれた。だが,原爆投下により,軍人だけでなく大勢の非戦闘員も含め,広島市の人口の約4割が無差別に殺され,街の軍事施設だけでなく,産業,交通,教育などあらゆる機能と,人びとの営みである文化,伝統,歴史も一瞬のうちに消滅した。

2 II部「都市の復興」

(1)第3章「復興計画」

広島市の復興はまず,国の戦災復興事業による都市基盤の整備としてスタートした。昭和20(1945)年12月に閣議決定された「戦災地復興計画基本方針」に基づき,総理大臣直属の戦災復興院が全国115都市で土地区画整理事業を開始した。その中核は,土地区画整理事業と街路,公園の整備であった。また広島市の復興審議会や新聞紙上などで,市民や行政関係者,外国人らから34件もの復興構想が公表された。被爆痕跡の保存や,「平和」のシンボル化など,その後の平和都市につながるアイデンティティーの萌芽が見出せる。

(2)第4章「広島平和記念都市建設法」

戦災復興事業の財政難を打開する手段として,地元関係者が国や国会に働きかけた「広島平和記念都市建設法」が昭和24(1949)年に実現した。これにより広島は手厚い復興財源を得て復興を加速させただけでなく,同法第1条で広島市は「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴」たる「平和記念都市」と位置づけられた。新たなアイデンティティーはまず,法律として与えられ,それに基づき平和記念公園や平和大通り,河岸緑地など,今日の広島のシンボルゾーンの整備が決まった。

(3)第5章「再開発をめぐる諸問題」

しかし平和の象徴としての街づくりは,平坦ではなかった。区画整理にせよ公園や河岸緑地整備にせよ,対象地域の大半は,被爆直後は焼け野原で,そこに多くの不法建築が建った。平和記念都市の復興の第一歩は,住民らが「立ち退き反対」を叫ぶなか,役所による不法建築の撤去から始めざるを得ない場所もあった。また基町の「相生通り」沿いの河川敷には違法なバラック建築が立ち並び,通称「原爆スラム」と呼ばれたが,戦災復興事業でなく住宅改良事業として基町地区に低所得者向け高層アパートを建て,バラックを解消した。今では基町高層アパートは,広島の復興の歴史を物語る建築物とされている。

3 III部「復興する広島と市民の暮らし」

(1)第6章「産業経済の再建」

広島の産業経済の復興を「工業統計表」のデータで見ると,もともと広島市には人口に比べて製造業が多く,原爆で事業所も労働人口も減少して打撃を受けた。だが,市外からの労働人口の流入や積極的な設備投資,職工や女性労働力の存在,軍事施設の民間転換などで,製造業は再建された。広島県全体で見ると,朝鮮戦争による特需や,広島県が昭和27(1952)年に発表した「生産県構想」で造船業をはじめ製造業は活気づき,昭和43年に広島県の製造品出荷額は中国・四国・九州で1位となった。広島県の産業経済の復興は,1970年代まで製造業に支えられた。

(2)第7章「保健・医療の充実と被爆者支援」

広島市の医師・医療従事者の9割が被爆して医療機関は崩壊し,戦後の混乱期には急性伝染病や肺結核,性病が蔓延した。だが,昭和27(1952)年には社会保険広島市民病院が開設され,広島大学医学部附属病院をはじめ,公的病院を中心に保健・医療機関はしだいに充実していく。一方,被爆者医療に関しては,昭和28年に広島市原爆障害者治療対策協議会が設立され被爆者の無料治療が開始され,その後「原爆医療法」「原爆被爆者特別措置法」の制定で被爆者の医療面での救済が進んだ。昭和31年に設立された広島原爆病院をはじめ,数々の保健・医療機関が被爆者の治療や研究に当たっている。

(3)第8章「メディアと復興」

戦前の広島の地元メディアを代表する『中国新聞』は,昭和19(1944)年に県内唯一の新聞となり,部数も38万部に達したが,原爆で壊滅的な打撃を受けた。『中国新聞』は自らも被災した原爆を伝えることから立ち上がり,原爆投下の事実,被爆者の実態,被爆地・広島の復興,市民生活の再建を克明に紙面に記録してきた。「原爆報道」「核兵器廃絶」「平和」は『中国新聞』が戦後,一貫して追い求めてきたテーマである。そして『中国新聞』に代表されるメディアは,広島の復興を記録しつつ,広島の新しいアイデンティティーの模索を後押ししてきた。

4 IV部「新しいアイデンティティーを求めて」

(1)第9章「平和を模索する都市」

広島の新しいアイデンティティーを創り出すという,復興の重要なプロセスを進める上で大きな役割を担ったのは,広島市の平和行政である。8月6日に平和記念式典を行い,市長が被爆者や市民を代弁して世界に向けて「平和宣言」を読み上げる。市の一部局から財団法人化した広島平和文化センターも広島平和記念資料館を運営し,市民向けの平和活動を行っている。また,広島の市民らによる平和運動は,原水禁運動の分裂により,政治色と結びつくときの弱さを露呈したものの,原爆ドーム保存や被爆実態の解明,被爆体験継承など,政治と切り離した具体的目標を掲げ,賛同者を集めることで,今日のNGO活動につながる方向性を見出した。さらに,小・中・高校における平和教育も,子供たちが原爆投下について考え,被爆体験を継承するための機会を提供してきた。

だが,被爆地・広島の復興は,被爆者の存在を抜きには語れない。被爆者の思いは被爆者にしか語れないと言われるが,被爆60年の調査で,被爆者の多くが「核兵器廃絶」と「世界平和」を求めている実像が明らかになった。その切なる思いが広島の復興を後押しし,それを受けて多様な人々が,それぞれの方法で平和を模索する街を創り上げた。

それが広島の新しいアイデンティティーなのかもしれない。

II おわりに 広島の復興をどう生かすか

最後に,本書の意義を簡潔に整理してみたい。まず,広島の復興をテーマにした,史上初めての広島県と広島市が共同事業による,本格的な刊行物であること。本書の編纂をきっかけに,広島県と広島市が平和に関する多様な事業で,連携を深めることが期待されている。次に,「復興」をテーマとする従来の文献の大半が,都市計画やインフラ整備など,ハード面のみに焦点を当てていたのに対し,本書は,保健医療や被爆者支援,市民生活やメディアに描かれた復興,平和を基調とする新たなアイデンティティーの創出など,ソフト面にもきめ細かくスポットを当てることにより,幅広い「復興」像を提示した。

執筆陣も,各分野の専門家を集め,単に時系列で復興の経過をたどるのではなく,これまでの復興史の定説を押さえつつ,平和をアイデンティティーとして成し遂げられた広島の復興をたどる,という命題に沿い,新たな同時代史を紡ぎ出している。

以上を指摘した上で,今後の最大の課題は,広島の復興体験から何を学び,どう生かすかということである。そのために,広島の復興を辿りながら得られたいくつかの教訓を記しておきたい。

第1に,破壊は決して終わりではない,ということ。広島の復興の第一歩は,すべてが失われたように見える被爆の瞬間から始まった。

第2に,復興は新しいものを創造すると同時に,過去から引き継ぎながら失いかけたものを復活させる営みであること。本書では十分描かれたといえないかもしれないが,広島の復興には,すべてを新しく創造したのではなく,被爆以前に広島コミュニティーに存在していた社会機能や文化,伝統を取り戻す取組もあった。

第3に,悲惨な体験を持つ当事者は,もっとも強く平和を希求すること。広島における被爆者のように,その存在は復興に欠かせない。

第4に,復興の道はまっすぐではないこと。時には対立や衝突も起こりうる。だがそれを克服することで,復興はさらに確固たるものとなる。広島の再開発事業は,あちこちで住民との摩擦を生んだ。

第5に,復興を実現させるのは,特別な組織や指導者,制度よりも,市民一人ひとりの主体的な意識であること。戦災復興院や知事,市長などのリーダー,広島県や広島市などの担当者,あるいは広島平和記念都市建設法などの制度は,確かに重要な役割を果たした。だが,最後に復興を実現させ根付かせているのは,「平和都市広島の一員」という自覚を持って行動する市民一人ひとりによる日常的な努力の積み重ねである。

(水本和実)


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