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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol22 開業医を中心とする医師たちの被爆者医療と後障害研究

防空体制の不備もあって多くの死傷者を出した中で,九死に一生を得た広島の医療従事者は,被爆した医療施設や学校,寺院はもとより,橋や道路,公園などを利用してできた救護所において,自らの負傷も顧みず被爆者の治療にあたった。救護所は,広島県が把握したものだけで 53 か所,広島県医師会広島支部会員が救護活動をしたことが判明しているものが102 か所におよんでいる。
昭和 20 年代初期,被爆者医療が組織的に行われる以前から,広島の医師たちは,被爆者医療や研究に取り組んでいた。中でも復員した若手医師を中心に昭和 23(1948)年末に専門領域を異にする正岡旭(産婦人科),原田東岷(外科),槇殿順(放射線科),於保源作・水野宗之・高田潔・中山広実(以上,内科),後藤英男・土谷厳郎(眼科),竹内釼・藤井俊二(外科),滝口一雄(耳鼻科)ら(メンバーには多少の増減がある。)によって設立された土曜会は,毎月一回,会員宅に集まり研究会を続けた7)。そうした中で自然に被爆者医療が共通のテーマになり,被爆者は抵抗力が弱いのではないか,貧血になりやすいのではないか,病気にかかりやすいのではないか,寿命が短いのではないかという疑問が生じた。特に於保は自費で被爆者の死因を調査し,昭和 26(1951)年に土曜会において被爆者に癌が多いという調査結果を話した。さらに昭和 30(1955)年 7 月 12 日に広島市で開催された原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会第 3 回広島長崎部会などにおいて発表し大きな反響を呼んだ8)。
また原田は,昭和 24(1949)年1月に,足がケロイドと瘢痕のため変形し歩くことのできない少年に有茎皮弁による移植方法による手術を行い成功している。このケロイド手術は,土曜会における槙殿からの,手術前に放射線を照射してはというアドバイスを採用し改良された。さらにメンバーに加わっていたか否かは確認できないが,杉本茂憲や小山綾夫は,原爆と目との関係,特に白内障に関しての研究に取り組んだ。
昭和 27(1952)年,日本の独立が実現し,それまでプレスコードによって抑えられていた原爆問題がマスコミにおいて取り上げられるようになった。そうした中で「原爆乙女」が東京,大阪やアメリカにおいて治療を受けるニュースが伝わると,広島の医師たちは,「治療は地元医師で」という意向のもと,被爆者の無料診療に向けて奔走した。これを知った広島市は,広島市医師会と協力して被爆者医療を実施することを決意し,昭和 28(1953)年 1 月 13日に広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)を設立し,被爆者の無料治療を開始したのであった。
こうした中で,かねてから全市的な被爆者の健康管理の必要性を唱えていた中山は,昭和31(1956)年に自らの診療領域の段原地区の被爆者を対象として「原子爆弾被爆者生存者調査票」による実態調査を行った。そして被爆者には,マスターファイルナンバー・住所・氏名・被爆地点・遮蔽状況・外傷・急性症などを記入した「被爆者健康手帖」を手渡した。これを持っていることによって被爆者は,いつ,どこでも健康診断や検査が受けられ,その結果は手帖の所定の欄に記入され,異常が発見されれば原対協の承認を得て受診できるようになっていた。なお,こうした試みは,「原爆医療法」制定後の被爆者健康診断などの事業に多大な影響を与えたと述べられている9)。 


7) 中山広実「土曜会について」(『広島市医師会だより』第 56 号,1960 年 12 月,17 頁)なお土曜会の活動の全体については,広島市医師会史編集委員会編『広島市医師会史』第 2 篇(広島市医師会,1980 年)330~333 頁を参照
8) 「原爆後障害研究のルーツを探る」(『広島市医師会だより』第 160 号,1979 年 8 月)なおこの資料は,『ヒロシマ医師のカルテ』(1989 年)に採録されている。
9) 前掲『広島市医師会史』第二篇,333 頁

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