Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol21 第二次世界大戦の激化と学童疎開
広島に原爆が投下されたとき,当時の本川国民学校(現在の本川小学校)には,約 400 人がいたが,その全員が原爆によって死亡したとされる4)。こうした絶望的な状況の中,戦後の学校を復興させる主役となったのは,戦禍を逃れて避難した疎開先から帰ってきた教師と子どもたちであった。
昭和 19(1944)年あたりから戦争が激しくなるとともに,日本本土への爆撃が多くなってきた。こうした戦況悪化の中で,日本政府は「学童疎開実施要綱」を発表するとともに,国民学校 3 年生以上の児童を都市部から農村へ避難させることにした。いわゆる学童疎開である。広島市においても,昭和 20(1945)年 4 月から 7 月にかけて疎開が実施され,国民学校 3 年生以上の子どもたちのほぼ全員(約 23,500 人)が県北の山間部へ避難した。山間部に親戚などがいる子ども(約15,000 人)はその縁を頼って縁故疎開し,またそうではない子どもたち(約 8,500 人)は寺院などに集団疎開して,そこから最寄りの学校に通っていた5)。
本川国民学校の場合,児童 500 人が縁故疎開,そして児童 205 人および教職員 10 人が集団疎開で避難した6)。集団疎開組は,昭和 20 年 4 月 15 日から,3 年生以上の子どもが双三郡(現在の三次市)の十日市町(教職員 8 人,児童 140 人)と八次村(教職員 2 人,児童 65 人)に滞在した7)。
当時の子どもの回想録によれば,集団疎開に向かう日に「当時は国民『歩け歩け』という歌も発表された時代で,十日市から広島駅まで隊列を組んで整然と行進した。私には疎開という実感はわかず,遠足気分のようだったと記憶している。初めて汽車に乗れるという嬉しさの方が大きかったように思う。日の丸の小旗が打ち振られ」8),また「広島駅での肉親との別れは絶えがたく,しがみついて離れることのできない親子,大声で泣いている友,言葉で言い表すことのできない光景」9)だったようである。疎開先に到着すると「数名ずつ十日市校のそれぞれの学年,学級に編入され,田舎の子どもたちとの学校生活が始まった。十日市国民学校の裏の川土手は桜並木で,満開だったように思う。学校の授業は進められて,町からきた私たちは農村の子に負けないぞという気持ちで頑張った」とある 10)。
ところが,実際の疎開生活では「教室の授業は少なく作業が多かった」11)そうである。すなわち,学校の指導のもとで田んぼに入って稲の害虫を取り除くとか,軍に供給する食用の雑草を一日中歩きながら採集するといった活動であった12)。また寺院での集団生活は惨めなものであった。例えば,国民学校 3~6 年生の男子約 30 人が生活する寺では,食事は大豆ごはんに大根や芋の茎,また田んぼでつかまえた食用カエルを焼いて食べていた。おやつとして湯呑 1 杯分の大豆が支給されることもあったが,それでも空腹感は満たされないため,学校から帰る途中に農家の野菜畑で目星をつけておき,日没後にトマトやキュウリを盗んでこっそり食べていた13)。その様子を教員が見つけても,子どもたちへの同情から叱ることもできなかった14)。その一方で,衛生状態もよくなかった。風呂は近隣の銭湯に週一度だけ行くため,体は不潔でシラミが大量に発生していた。かゆい体につける薬もなく,シラミを見つけてはそれをつぶしていくのが日課であった15)。こうした厳しい毎日の疎開生活であったが,子どもたちは不安を抱えながらもそれなりに楽しく暮らしていたようである。
4)その後の調査により,教職員 1 名および児童 1 名の生存が確認された(前掲「創立百二十周年記念誌の発刊に当たって」3 頁)。
5)広島市役所編『広島原爆戦災誌(第一巻 第一編 総説)』(広島市,1971 年)26 頁
6)広島市退職校長会編『戦中戦後における広島市の国民学校教育』(広島市退職校長会,1999 年)291 頁
7)前掲「創立百二十周年記念誌の発刊に当たって」3 頁
8)荒木洋治「学童疎開での生活の実態」(『戦中戦後における広島市の国民学校教育』広島市退職校長会,1999 年)129~130 頁
9)若狭孝司「記念誌に寄せて」(『創立 120 周年ほんかわ』広島市立本川小学校,1993 年)8 頁
10)前掲「学童疎開での生活の実態」130 頁
11)同前 130 頁
12)同前 130 頁
13)同前 131 頁
14)山本正子「忘れ得ぬ思い出」『創立 120 周年ほんかわ』(広島市立本川小学校,1993 年)9 頁
15)前掲「学童疎開での生活の実態」131 頁