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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol22 原子爆弾による校舎全壊と終戦

ある朝,子どもたちが疎開先の寺を出て集団登校する途中,町の家屋の窓ガラスがガタガタと揺れ,遠くで「黄色い光」が一瞬走ったように見えた。しかし,さほど気にすることもなく学校での日課を終えた16)。ところが,その日の夕方から,大量の負傷者を乗せた列車が広島から次々と到着した。どうやら広島で大きな爆撃があったようである。
その広島市内は,まさに想像を絶する壊滅的な状況にあった。広島に原爆が投下された昭和 20(1945)年 8 月 6 日午前 8 時 15 分の本川国民学校(爆心地から約 350 メートル)には,教職員13 人と約 400 人の児童がいた17)。また近所の空鞘神社では,本川国民学校の 1~2 年生の児童約50 人が教師とともに戦勝祈願のために参拝していた18)。その日は朝 7 時 09 分に空襲警報が発令され,一時は防空壕等への避難が行われたものの,その警報は 7 時 31 分に解除された19)。したがって,原子爆弾が炸裂したとき,防空壕にはほとんど人がいない状況だった。結局,原爆の炸裂とともに校舎は鉄筋の外郭のみを残して全壊全焼,校長を含む教職員 6 人と児童 218 人が即死,そして多数の負傷者や行方不明者が出た20)。まもなく学校は,西校舎 1 階を中心に,負傷者を収容する臨時救護所となった。臨時救護所では,軍の衛生班をはじめ,近郊で生き残った者たちが
負傷者の救護や遺体の処理にあたった21)。校庭では身元の確認を終えた遺体の火葬が行われた。実際,当時 14 歳の少年が見た広島は「瓦礫の原であり,血うみの中でうごめく目も鼻も定かでない人間の火ぶくれの苦悶であり,穴の中に放りこまれて黒い雨の中でくすぶっていた死体と,一面の白骨におおわれた街」22)であった。
一方,集団疎開先では,広島から次々に負傷者が到着するとともに,少しずつその被災状況が伝わってきた。もちろん,当初は広島で何が起きたのか,まだよく理解できないでいたが,疎開先の学校でさえも校舎から校庭までが病院に早がわりし,授業は休校となった23)。寺に帰った子どもたちは,広島が被災したことを知らされ,本堂の隅に固まって大声で泣き崩れた。その子どもたちをなだめる先生も泣いていた24)。まもなく男性教諭が情報収集のため疎開先から本川国民
学校に向かい,被害状況の把握に努めた25)。その一方で,生存している親類たちは,翌日から疎開先に子どもを迎えに来て,そのまま引き取って行った26)。その間,教職員たちは,疎開児童の縁故者を探すとともに縁故者がいなくなった児童への対応に追われた27)。
その後,8 月 15 日には,玉音放送とともに日本が終戦の日を迎えた。疎開先では,刑務所から外国人が釈放され,訓練機は田んぼに突っ込んで燃やされた28)。まもなく学童疎開が解散されたが,やはり多くの子どもたちは誰も迎えに来ない。行き場のない子どもは広島に帰ることもできず,しばらく寺で生活せざるを得なかった29)。結局,疎開児童の引き取りが完了したのは,9 月
になってからであった30)。
この日を境に,学校教育も大きな転換を迫られることになった。10 月 6 日には「戦時教育令」が廃止され,12 月 31 日には GHQ(連合国軍最高司令官総指令部)により「修身,日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」指令が出された31)。その結果,これまでの「修身」,「国史」ならびに「地理」の教科が廃止され,旧来の教科書が破棄されることになった。


16)同前 131 頁
17)前掲『戦中戦後における広島市の国民学校教育』310 頁
18)本川地区原爆慰霊碑建立委員会『本川地区被爆の概要』(宣美社,1995 年)33 頁
19)前掲『戦中戦後における広島市の国民学校教育』299 頁
20)前掲『戦中戦後における広島市の国民学校教育』298 頁
21)前掲『本川地区被爆の概要』41 頁
22)本川小学校「広島市原爆戦災誌資料表」(『創立百周年記念誌』広島市立本川小学校創立百周年行事実行委員会,1973 年)137 頁
23)後藤むつ子「友よいずこに-集団疎開生活の断片」(『創立百周年記念誌』広島市立本川小学校創立百周年行事実行委員会,1973 年)142 頁
24)同前 142 頁
25)前掲「広島市原爆戦災誌資料表」137 頁
26)前掲「友よいずこに-集団疎開生活の断片」138 頁
27)前掲「広島市原爆戦災誌資料表」137 頁
28)前掲「学童疎開での生活の実態」131~132 頁
29)同前 132 頁
30)前掲『戦中戦後における広島市の国民学校教育』310 頁

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