Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol23 学校教育の再開と地域社会の支援
本川国民学校は,原爆投下直後から負傷者の臨時救護所として使われる一方,昭和 20(1945)年 8 月 21 日には同校で臨時校長会が開催され,学校教育の再開について協議が行われた32)。その結果,本川国民学校の児童は暫定的に己斐国民学校(本川国民学校から約 2.5 キロメートル)に通学させることになった33)。その後,学区内有志の協力によって昭和 21(1946)年 2 月 23 日からは,本川学区および広瀬学区を併せ,本川校舎内に復帰して授業が再開された。このとき,教員は4人,児童数は約60人程度であった34)。さらに3月 10日には神崎学区も本川校に加わった35)。そして同年 4 月 8 日の新学期初日には,教職員 7 人ならびに児童 196 人(全 7 学級)で復興が始まった。
広島市内では,昭和21年3月からバラック校舎の建設が始まったが,資材不足や財政難の中で,子どもたちの増加に校舎の増改築が追いつかない状況であった。それゆえ当時の学校は,午前と午後で別々の子どもが登校する二部授業を実施したり,すし詰め状態の教室で授業を行っていた 36)。ただし,教科書も文房具もほとんどない状況であり,まともな授業はできなかった37)。本川国民学校も,原爆で全壊全焼した校舎の復旧が遅れ,また校内施設もまったくない状況で,子どもたちは不自由を我慢し,寒さに耐えながらの生活を送っていた38)。食糧が著しく不足していたため,授業と並行して芋づるの植付作業を行う日もあった39)。
こうした状況の中で,学校教育の復興に献身的な支援を行ったのが,保護者ならびに地域の人たちであった。本川国民学校では,すでに昭和 21 年 5 月 26 日に学区町内会の主催で「小運動会」が開催されている。そして,5 月 29 日には「教育後援会」が結成された。その目的は,校舎の修築を促進することであり,そのための予算を工面することであった40)。さらに,6 月 7 日には「保護者会」が結成され,児童ひとりあたり会費 3 円(その弟や妹は半額)を徴収した。それは数年後に「愛育会」(のちの PTA)となるが,7 月 30 日にはその初代会長が決定している41)。こうして保護者と地域による学校への支援体制が次々と組織化されたのである。こうした組織的基盤が整いつつある中,原爆投下から1周忌となる 8 月 5 日,空鞘納骨堂で合同慰霊祭が開催された。
保護者と地域による学校支援は,学校の復興運動の推進力となった。それはすなわち,学校復興のための寄附募集運動であり,多額の復興資金を広く集めることであった42)。こうした保護者や地域などの努力により,床面と窓,そして間仕切りの工事をはじめ,屋上の雨漏り防水工事,内部塗りかえの工事が実現した43)。さらに,外国人による支援活動も始まった。例えば,昭和 22(1947)年 1 月 13 日,GHQ(連合国軍最高司令官総指令部)の民間情報教育局ハワード・ベル博士(Howard M. Bell)が,衆議院議員の松本瀧蔵とともに本川国民学校を視察している。視察の目的は,学用品不足の実態把握と社会科カリキュラム研究のための現場調査であったが44),あわれな鉄骨だらけの校舎で寒風に震えつつ勉強している児童の惨状にショックを受けたベル博士は,5 日後の 1 月 18 日に再び本川国民学校を訪れた。そして「あまりにも可哀そうだ,設備の無いところに完全な教育は無い,早く復興作業に着手して学童を寒風の中から守ってくれ」と告げ,自らの所持金から 2,500 円とアメリカから持ってきた鉛筆 20 ダース,色鉛筆 6 ダースを贈り,「ここが復興するまで,私が寄付したことを人に告げてくれるな」と言い残して広島を去った45)。
この頃になると,学校の状況も少しずつではあるが再興の兆しが見え始めた。例えば,昭和 22年 1 月 11 日には,原爆で死亡した校長の後任が空席となっていた校長職に,新たな校長が就任した。そして 3 月 22 日には,ミルクとおかずだけであったが46),それでも学校給食が始まった47)。
31)広島市教育委員会「年表編」(『広島市教育委員会 30 年の歩み』広島市教育委員会,1981 年)160 頁
32)広島市立本川小学校「沿革要項」1948 年 4 月(『沿革誌』広島市立本川小学校)
33)前掲『本川地区被爆の概要』101 頁
34)広島市役所編『広島原爆戦災誌(第四巻 第二編 各説)』(広島市,1971 年)57 頁
35)本川小学校「本川国民学校学事報告」(『創立百周年記念誌』広島市立本川小学校創立百周年行事実行委員会,1973年)144 頁
36)広島市教育委員会「学校教育の進展」(『広島市教育委員会 30 年の歩み』広島市教育委員会,1981 年)7 頁
37)前掲『広島原爆戦災誌(第四巻 第二編 各説)』7 頁
38)前掲「本川国民学校学事報告」145 頁
39)前掲「沿革要項」
40)前掲「本川国民学校学事報告」145 頁
41)前掲「沿革要項」
42)前掲「本川国民学校学事報告」145 頁
43)同前 145 頁
44)中川利國「ハワード・ベルと広島の児童文化-占領軍と児童文化復興に広島の未来を託した人々」(『広島市公文書館紀要(インターネット臨時増刊号)』広島市公文書館,2015 年)2 頁
45)同前 2 頁
46)前掲「年表編」161 頁
47)前掲「沿革要項」