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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol25 授業研究の推進と PTA 活動の本格化

終戦から約 5 年が経過した昭和 25(1950)年頃になると,社会のインフラや制度が少しずつではあるが着実に整備されてきた。実際,昭和 24(1949)年 8 月 6 日に「広島平和記念都市建設法」が公布され,広島市の新たな都市建設が始まった。そして,国際平和都市「ヒロシマ」の建設の基盤は「教育」にあるとの使命感に徹し,広島市の教育の充実向上のために教育行政の新展開を図るという趣旨のもと,昭和 25 年 12 月 1 日には広島市教育委員会が発足した64)。この教育委員会という制度は,戦前の中央集権的・官僚的な教育行政の反省に立ち,各地域の実情と民意を反映させながら教育行政を一般行政から独立させるかたちで戦後新たに設けられたものである。広島市教育委員会は,昭和 26(1951)年度が始まるにあたり「広島市学校教育努力目標」を設定した。その目標として,次の 3 点が掲げられた。すなわち,1)道徳教育の振興,2)保健教育の徹底,および,3)生産教育の推進である。これらの目標を具現化し,またその達成を図るため,広島市立の小・中・高校のすべての教職員が一体となって努力を重ねることとなった65)。また,この研究実践の中核となる学校として,各努力目標につき小学校と中学校で各 1 校ずつ,計 6 校の研究指定校が定められた。さらに,広島市の教育推進の重要課題として,「改正指導要領の実験的研究」,「同和教育」,「視聴覚教育」および「特別教育活動」が特定され,それぞれの重要課題の実験・研究推進校が指名された。このとき本川小学校は「特別教育活動」の実験校として指定された。各研究指定校は,3 年間のうちに教育委員会と密接に連携しながら研究を進め,その成果を研究発表大会で公開することで,他校への普及が図られた66)。こうした現場の地道な実践に根差した「授業研究(Lesson Study)」67)の仕組みこそが,まさに戦後日本の教育の質的向上に大きく貢献することになったのである。
その一方で,地域による学校支援も次第に制度化が進んでいった。すなわち,これまでは主として学校の教育環境改善を図るべく校舎の修繕や新設のために尽力してきた保護者会や PTA の活動が,学校教育をさまざまな面で支援する組織としてその活動を充実させるようになったのである。実際,本川小学校では昭和 28(1953)年 7 月 20 日に,PTA 会報「ほんかわ PTA」が創刊されている。創刊号は B4 版の紙面に両面印刷で計 4 ページからなる。その各記事の見出しは,それぞれ「校長挨拶」,「論説:人の『ねうち』」,「発刊のことば(PTA 会長)」,「学校行事予定表」,「学校の動き:水害見舞に活躍(児童会)」,「伸び行く児童の朝会」,「楽しい図書室のおべんきょう」,「広島市の平和教育はここから生まれる:平和教育資料室-本校に設置された」,「『もったいない』の復活」,「明るい街」,「短歌:子らを叱りて」,「校舎の増築」,「声(コラム)」,「昭和 28 年度 PTA役員一覧表」,「昭和 28 年度 PTA 予算」,「広告募集」ならびに市内 7 社からの「広告」で構成されている。冒頭の「校長挨拶」では,「(前略)内には約 30 名の職員が一つ心となって教育の根本問題から実際の指導に至るまで研究し実施し反省して日々前進をつづけ,真に広島の代表校としての校風樹立に懸命の努力をいたして居りますので,今は誠に満足すべき状態にあると存じております」68)と記され,ここに戦後再出発した学校教育がようやく軌道に乗りつつある様子を垣間見ることができる。その上で「(前略)PTA の仕事はただ一途に会員の教養を高め,子供の幸福をはかることにあります。子供が健康で文化的な,即ち心身共に健康な国民となるように環境をつくり指導していくことが PTA の重要な役割であります。本校の実情は施設の面に於きましても尚幾多の問題を残して居りますので今後共一段の御尽力賜りますよう念願致しまして,会報発刊の御挨拶と致します」69)と PTA の意義を述べている。また PTA 会長も「発刊のことば」の中で「(前略)ささやかではありますが,私達会員の向上の一助ともなり,お互の親睦を深め,更に学校と家庭の緊密な連絡の機関となることによって,子供達の福祉を増進する事が出来れば幸と存じます(後略)」70)と述べ,PTA が学校と家庭をつなぐ重要な役割を果たすものであることを示唆している。その後 PTA 会報は,その第 2 号が昭和 29(1954)年 1 月 1 日に71),第 3 号が 3 月 25 日に発行された72)。すなわち,3 学期の学期末ごとに PTA 会報が発行されたのである。例えば,夏休みが始まる前には「夏休みの心得-父兄のために」と題して,「1)健康生活について(日焼け,食事,睡眠に気をつけること),2)安全生活について(水難事故に気をつけること),3)生活指導について(子どもの自主性に配慮すること)」73)のポイントを各家庭へのお願いとして示している。
このように,戦後 PTA を中心とした地域の学校支援が活性化し,学校と地域の相互連携を通して,地域の人たちが学校に集うようになり,その結果として学校が地域のセンターとして地域づくりにも貢献してきた。こうした好循環がまさに広島の教育復興の大きな原動力となったのである。


64)広島市教育委員会「教育委員会制度の概観」(『広島市教育委員会 30 年の歩み』広島市教育委員会,1981 年)2頁
65)同前 9 頁
66)同前 9 頁
67)日本教育方法学会編『日本の授業研究<上・下巻>』(学文社,2009 年)
68)本川小学校 PTA「ほんかわ PTA(創刊号)」(本川小学校 PTA,1953 年 7 月 20 日)1 頁
69)同前 1 頁
70)同前 1 頁
71)本川小学校 PTA「ほんかわ PTA(第 2 号)」(本川小学校 PTA,1954 年 1 月 1 日)
72)本川小学校 PTA「ほんかわ PTA(第 3 号)」(本川小学校 PTA,1954 年 3 月 25 日)
73)本川小学校 PTA「ほんかわ PTA(第 4 号)」(本川小学校 PTA,1954 年 7 月 20 日)5 頁

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